SNSは民衆的自由の基盤になりうるか

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Facebookは昨年同期の1.5倍の収益を上げた。収益の半分は広告料収入だ。3ヶ月で70億ドル近くの広告料収入を得ている。

SNSの収益構造は、広告に依存しており、伝統的なマスメディア資本の収益システムとほとんど変りがない。つまり、広告で収入を稼ぐ一方で、ユーザーには無料でサービスを提供するという方式は、伝統的なマスメディアのビジネスモデルと変らないのだ。テレビなら無料で番組を提供するかわりに広告も流す。新聞なら広告料収入によって読者に採算以下の価格で新聞を売る。ネットの多くの無料サイトは多かれ少なかれこのマスメディアの収益システムと同種のことをインターネットで展開しているにすぎない。

情報は「物」とちがって、所有者を移転することは元の情報の所有者から情報が失なわれるわけではない。だから、情報の所有者は物とは違って情報の提供のハードルが低い。たとえば、親友にカンニングさせるということは、親友も自分もともに100点が取れるからであって、一方が100点をとったら他方は0点になるという「あいつか俺か」ではなく「あいつも俺も」になる。だから、この情報を市場経済にメカニズムに乗せるには、著作権を設定して使用の権利を規制したり、情報の共有にペナルティを課したり(カンニングしたくなるような退屈な授業しかできない教師は処罰されない)、「特定秘密」などという特殊なカテゴリーを構築して情報へのアクセスを犯罪化したり、あの手この手で情報をコントロールしようとする。

マスメディアの広告は、資本主義における資本のメカニズムのなかでは、ある意味で「コロンブスの卵」のようなものだ。資本の生産物(番組や記事)は、多額のコストをかけながら無料で配布(放送)してしまう。他方で、放送の時間枠や紙面の面積をスポンサーに売り、不特定多数に伝播されて流通する商品情報の回路を提供する。資本としてのマスメディアは番組のコンテンツを売っているのではない。彼らは、放送の一定に時間枠や紙面の一定のスペースを、視聴率や発行部数などのデータを基に、価格を設定して切り売りする時間やスペースの商品化業者だ。こうした無料あるいは市場経済のコストや資本の収益の論理では説明のつかない低価格で情報の受け手に情報を提供することによって、広告を流通させる。他方で、こうした情報の流通なくして市場で「モノ」を売ることもできないから、こうした情報の回路は市場にとって不可欠のメカニズムでもある。私は、この市場に付随する市場の論理とは区別されるが市場にとって不可分の情報の回路をパラマーケットと呼んでいる。

かつてのマスメディア同様、ユーザー数が広告料に比例すると思われるが、かつてのマスメディアと比べて、SNSビジネスは、ユーザーとの関係で本質的な変化があるが、必ずしも好ましい変化だというわけではない。

インターネットは双方向のメディアであって、マスメディアのように一方通行で大量に同質の情報を散布するのではなく、ユーザーが相互に情報を不特定多数に対して発信しあうことができる。この点がメリットと言われてきた。マスメィアは番組や記事を自前で生産し、このコンテンツがどれだけの視聴者(読者)を獲得できるかが広告収入とリンクしていたので、コンテンツの生産が重要な意味をもった。しかし、SNSでは、コンテンツはユーザーに完全に依存し、SNS資本はそのプラットフォームを提供するだけである。この意味でコンテンツの「生産」にかかるコストを完全に排除できる。コンテンツはユーザーが発信する情報そのものであって、ユーザーが自ら生産したコンテンツに寄生して収益を上げることになる。この意味でネットのメディアには新たなものを生み出すクリエイティビティは欠ける一方で、ユーザーがクリエイティビティの主体になりつつ、これを資本が自らの利潤のために「横取り」するという構造になる。

マスメディアは広告とマーケティングによって需要動向を間接的に調整し予測するための手段にすぎなかった。あくまで個々のユーザーは匿名の存在でしかなかった。これに対してSNSでは、登録したユーザーの個人情報(言語、居住地、年齢、性別、職業、人間関係など)や投稿内容を分析してこれらから解析された個々のユーザーの趣味や傾向に基づいて、SNSなどの画面に最適と思われる広告を掲載するような仕組みになっている。個人のプライバシーはマスメディアの場合に比べて格段に脆弱になっている。

このプロファイリングの仕組みをSNSなどは民間の企業に売り込み、広告を出す企業は自社の商品の売り込みにこれを用い、これがユーザーの購買行動とリンクする。特に途上国では、多国籍企業の商品の販路開拓に有効に機能する可能性があり、日本のような先進国でも、広告を打つことのできない地元の零細な自営業は駆逐され、ユーザーの視野(消費者の選択肢)から外れるような心理効果を生む。

こうしてSNSは、かつてのマスメディア以上にユーザーを包摂する効果が大きいと思う。マルクスの『資本論』の表現を借りれば、マスメディアは視聴者や読者の欲望を単に「形式的」に包摂していただけで、マスメディアの情報に接した受け手が、その情報をどのように理解し受け入れているかは未知数にままだったが、SNSは「実質的」にユーザーをメディア環境の内部に、あたかも「主体」であるかのように包摂しながら、その欲望を個々のユーザーの個性やライフスタイルに合わせて調整することを通じて、商品の購買行動へと誘導する。SNS資本の最大に目論見は、資本の収益であり、その基盤は広告収入であって、ユーザーの自由な言論空間を確保することは、それが広告収入の増収に繋がる限りで関心を持たれるに過ぎない。

この構造は、基本的に多様性とともに大量現象を生み出すことが収益を支える上で効果的になるので、マイノリティの言論の自由は、排除によるプラス効果がるとされれば容易に排除されるから、本質的に脆弱なものになる危険性がある。SNSに限らず情報通信関連の資本はプライバシーポリシーによって顧客の個人情報を保護することを誓約し、一定の法的な保護もあるとはいえ、これらが文字通りの意味で遵守されているかどうかを、自分の個人情報の管理や使用のされかたに即して知ることは不可能に近い。プロファイリングのプログラムがどのように個人情報を処理しているのかを知ることもできない。

インターネットが不特定多数の間で双方向で行なわれるコミュニケーションの技術的な環境を提供することによって、コミュニケーション環境は劇的に歴史的な変貌を遂げたことは事実だ。それが諸々の社会運動や反政府運動に与えた肯定的な影響は評価してもしきれないが、しかし、同時に、こうした自由なコミュニケーション環境が、極めて寡占的な営利を目的とした資本によって提供されており、これに代替するサービスないということが深刻な問題なのだ。他方で、非営利であってもそれが政府などの公的機関の直接・間接の助成などによって運営される場合は、個人情報やプロファイリングのデータが私企業による営利目的ではなく、何らかの政治的な意図によって利用・管理される危険性に直接晒されるということになる。

しかも、プライバシーポリシーであれ法制度であれ、それらは改変されうるものだ。人間の一生を70年として、個人の名前や性別、エスニシティ、国籍、生年月日などはほぼ不変のまま維持されるのに対して、制度が改悪される危険性は人生のなかで何度も起きる。そのときに、自分の個人情報を今以上にコントロールできない環境に置かれざるえないことになる。これまでの経験からすれば、コミュニケーションが高度な機械化に依存すればするほど個人の自由を押し拡げる方向で発展するよりもむしろ自由を制約する方向に進んできた。同時に、資本や国家に主体的に同調するような個人のパーソナリティを生成するための手段になる危険性もまた大きくなってきたのではないだろうか。

このように考えると、そしてまた、対テロ戦争の戦時下にあるという認識を前提としたとき、寡占化されたSNSがますます大きな収益を目指してビジネスモデルを開発しようとすれば、こうした資本の利害は国家の利害を体現するグローバルなプロパガンダ装置に変貌し、社会的排除の新たな道具になる危険性があるとはいえないか。この意味で、資本にも国家にも依存しない第三の選択肢が不可視な現在の状況は、民衆的自由にとってかなり深刻な危機だと思わざるをえない。

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