オリンピックナショナリズム天皇制批判

ナショナリズム、天皇制、オリンピック――「歓待」のレイシズム


●ナショナリズムと文化

オリンピックと代替り、この二つの国策としてのメガイベントの共通項として、ナショナリズムと文化の二つを抽出できると思う。ナショナリズムとは、国民主義、民族主義、国家主義という三つの要素が絡みあったものとして日本語に訳しにくいものだ。しかし、同時にこれら三つの側面を含むナショナリズムであるからこそ、この言葉が近代国民国家の問題を的確に論じる上で有効な概念にもなるのだと思う。1

他方で、文化とは、合理的な説明を超越して、人々の感情や価値観、世界観などに意味を与えるものを指している。科学や理屈とは異なる人々が当然のこととして前提して理解したり感じたりする枠組である。人々が漠然とイメージしている「日本の伝統」とか「日本人」とかといった観念を具体的に支えている個々の事がらや出来事は、文化の重要な側面である。以下で述べるような祝祭イベントとの関係でいえば、文化のなかでも「美学」的な要素、「美」的な感情の問題が重要になる。

●ネガティブな出来事とポジティブな出来事

異例で大規模な「国家的」と呼ぶことができる出来事には二つの真逆なベクトルをもったものがある。一つは、戦争や大災害のようなネガティブな出来事である。多くの人々にとって、これらは「死」の直接の経験であったり、不安や恐怖をリアルに感じることのできる出来事で、「悲劇」と呼べるものだ。政府は、悲劇を「国民的」な団結を通じて克服することを目指し、もしこれに失敗すれば、政府自体の正統性の危機、あるいは権力の解体につながる可能性のある出来事でもある。2
もう一つは、今回の代替りやオリンピックのようなポジティブな出来事だ。祝祭と呼べるものだ。祝祭イベントを通じて、国家の明い未来への想像力を喚起して、今ある国家の正統性を更に強固なものとする出来事になる。3祝祭イベントで動員される感情のなかで最も強い感情が「歓喜」である。この歓喜の感情を通じて、人々が一体となっていることを実感できる雰囲気が社会の様々なレベルで醸成され、歓喜を実現した今ここにある世界を肯定する感情を生み出し、それが最終的に国家へと収斂する。

オリンピックや代替りは大多数の人々にとっては悲劇よりは祝祭であることが期待されているものといえる。少なくとも、政府や資本は、これらを祝祭のイベントとして演出することを前提とした計画をたてている。悲劇と祝祭がともに国家的なイベントであったとしても、その性格は異なり、私たちのアプローチも同じにはならないと思う。

私たちにとって、オリンピックも代替りもむしろ悲劇でしかないし、大災害でしかない。だからといって、戦争に反対したり大災害への政府の対応を批判するといった、悲劇的な出来事に対する私たちの運動がとる戦略や状況分析が、ポジティブなメガイベントに通用するわけではない。

戦争や大災害で、人々の多くは不安や恐怖の感情に囚われ、いちはやくこうした事態が「解決」されることを望み、そのためにできることに協力しようとする気持ちを通じて、人々の間の団結や政府への態度が決まる。この場合には、私たちは、こうした悲劇の原因がどこにあるのか、どのように行動することが不安や恐怖から自由になることなのかを提起し、政府への批判を展開することによって、多くの人々の理解や共感を獲得できるかもしれない。同時に、私たちもまた、多くの人々の経験や経験に根差した主張から多くのことを学ぶ必要がある。一見すると主観的で個別的とみえる様々な体験も、この個別的な体験を人々の共有可能な共通体験へと集約することによって、悲劇を克服するために民衆が共有する世界観や理念が生まれる。悲劇からの克服を既存の権力は、戦争に勝利すること、その結果として悲劇はポジティブなメガイベントへと転化し、人々を歓喜の感情によって統合し、権力の正統性を維持しようとする。大災害の場合、復興を人々の努力のたまものであり、それを国家が全面的に支援してきたといった物語を作りあげることによって、復興とはほど遠い「現実」を隠蔽し、救済されない被害者たちを不可視な存在へと追いやる。他方で、反政府運動の側、社会変革の運動は、その当初から、出来事の悲劇を大衆的な感情において共有しうる条件が与えられている。既存の権力こそが悲劇の元凶にあることを説得する可能性が与えられている。

ポジティブなメガイベントに対して反対する運動が抱えるそもそもの問題は、多くの人々と私たちの間で、共感や感情のレベルでの共通項がないという点にある。ほとんどの人々は、生前退位と即位、オリンピックに関して、これらが自分たちの生死に関わる悲劇だとは考えておらず、むしろ祝祭への期待をもって、肯定的な感情を抱く傾向にある。私たちが人々にこうした感情の根拠や理由に対して疑問を投げ、論理的あるいは学術的なスタイルで代替りやオリンピックの悲劇を主張しても、彼らの多くは多分、こうした正論には耳を貸さないかもしれない。祝祭への期待を挫くという課題は、権力者の祝祭を越える祝祭を私たちが準備できるならいざ知らず4悲劇のなかで権力への異議申し立てを組織することにはない難問がある。
祝祭イベントのもうひとつの側面は悲劇の祝祭化である。戦争をめぐるプロパガンダや軍事パレード、戦争をめぐる慰霊の儀礼などが典型だろう。今回のオリンピックでいえば、福島の隠蔽効果であり、代替りでいえば、天皇の戦争責任、植民地支配の責任の隠蔽効果である。これらはいずれも、悲劇を「美的(あるいは崇高)」な事がらに置き換えて人々の感性を操作する効果がある。5

●グローバリゼーションとナショナリズム

2020オリンピックが64年のオリンピックと大きく違うの背景には、世界規模での時代状況の違いがある。60年代は、冷戦を背景とした国民国家の時代であり、国民国家が国際関係における主権を代表した。国民国家を超越する主体はなく、国際機関は国民国家の代表から構成される時代だった。国民国家としての主権を獲得することが、植民地解放闘争の当然の目標であり、国民国家としての自立が世界規模で、主に第三世界における最重要課題だった。こうした時代のなかで、オリンピックは、一方で都市を主催者としつつも、事実上国民国家によるナショナリズムの祭典となった。

64年を回顧して、その時代にオリンピックが果した役割を想起しながらナショナリズムや動員の問題を再考する場合、この植民地からの解放と国民国家の形成という時代背景を抜きにすることはできない。戦時期やナチスのオリンピックにはなかった時代の特徴がここにある。2020年のオリンピックにはこうした意味での国民国家への熱い肯定はない。6

オリンピックは20世紀を通じて、西側近代化を象徴するイベントとして、その開催が国家威信を体現し、1960年代までは植民地主義との摩擦のなかで先進国の国際イベントとして第三世界からは批判的にみられてきた。その後、第三世界での開催は、その国が一流の先進国の仲間入りを果した証しであると主催国は宣伝し、国民もこの評価共有するようになる。国民国家とナショナリズムのためのメガインベントという地位づけが70年代に確立したともいえるかもしれない。しかし、80年代以降、グローバリゼーションの進展のなかで、ネオリベラリズムと西欧型のライフスタイルのグローバルスタンダード化が、逆に、反グローバリゼーション運動によって逆襲されるなかで、西側近代化への魅力が相対的に低下する。ポスト冷戦以降、長い対テロ戦争のなかで西欧モデルの国民国家への魅力は明かに低下し、それに伴ってオリンピックの国家イベントとしての価値も低下してきた。

他方で、オリンピックがメガイベントとしての魅力を維持するために、益々スペクタクル化への要求が高まり、サーカスの様相を呈するようになる。多国籍企業の影響力が増大し、オリンピックは、ますますスポンサー企業の影響を受け、スポンサー企業がIOCや主催国の意思決定に介入するようになった。国家と資本の妥協なしにはメガイベントは開催できなくなった。このイベントで人々が「熱く」なるのは、国別競技による勝敗のゲームというところにあって、これは資本には真似のできない人々の感情動員の要素ということになる。大衆的な一体性を「国民」というアイデンティティ集団に収斂させるグローバルなナショナルイベントのナショナリズムの演出は、その核心に「国家」の象徴作用を必須の条件とし、これは資本の機能を越える。しかも、いかなる資本もこうしたナショナルイベント以上の規模で人々を動員できるようなビジネスモデルとしての近代資本主義の祝祭モデルはまだ開発されていない。

しかし、こうした「国民」的な歓喜の集合は、徐々にほころびもみせている。それは、ひとつには、国民的なアイデンティティから逸脱する人々が増えてきこと。様々な分離独立志向、移民や難民などだ。もうひとつは、そもそもオリンピックが当初から本質的にもってきた男女のカテゴリーや、健常者と障害者のカテゴリーそのものが、多様性への関心のなかで、揺らいできたことだ。第三に、費用対効果が疑わしくなったことだ。とりわけ、オリンピックによるナショナリズムの祝祭効果は低下を続けてきたようにみえる。ナショナリズムの再生産にとって必要なもっと安上りな手法がでてきた。例えば、インターネットを通じた、感情の動員である。SNSをビジネスにする多国籍企業がこのナショナリズムの動員を支えている。

グローバリゼーションとマスメディアの終焉=インターネットの主流化という環境のなかで、都市空間に依存する莫大な資金を要するメガイベントがどのような変容を遂げるのか、あるいは消滅するのかはまだわからない。しかしオリンピックを支えてきた20世紀の枠組、国民国家を基盤とするナショナリズムのメガイベントという前提が、グローバリゼーション、長びく戦争、国民国家や西欧的な価値の相対的な機能不全とメディア環境の劇的な変化という外的な環境と適応できなくなっているということは明かなようにみえる。

●グローバルな文化と国民国家の特異性の文化

近代資本主義は、一方で、グローバルな競争を可能にするグローバルなルールを構築することによって国際関係の秩序を形成してきたが、他方で、国民国家としての特異性を構築することによって他との差異のなかで、「国民」としてのアイデンティティを再生産してきた。オリンピックと代替りは、この二つの側面を端的に象徴する出来事である。

オリンピックはグローバルなルールを前提にして競争するから、グローバルな文化、人々が他者や他の社会を評価する価値判断の基準、価値観の基準が共通のものとして形成されているという側面を最も端的に示すイベントである。その基準を支える価値観の基本は、スピードと正確性であり、これらは、機械化=工業化によって社会の進歩を判断してきた近代資本主義が人々を評価する「普遍的」なものと一致する。このスピードと正確性を極端に、超人的なレベルにまで鍛えるという異常な身体訓練を競うのが、オリンピックをはじめとするスポーツ競技である。

もうひとつのグローバルな価値判断は、「力」、つまり暴力の優劣である。価値観や文化の優劣を力の優劣に置き換えて評価する近代世界の価値観が、格闘技スポーツに反映されている。スピード、正確性、力といった要素を身体の優位性として抽出し、これをその個人の人格的人間的な優秀性だけでなく、こうしたアスリートを排出した「国民」あるいは「人種」や「民族」の優秀性を象徴するものとみなす。こうした価値観に合理的な根拠があるわけではなく、またこれを人間の能力の普遍的な判断基準とすることに特段の合理性があるわけでもない。だからこそ「スポーツ文化」ハ、いでおろぎー装置として、こうした身体のありかたに価値を付与して、共通の価値観として人々の集合的な共感の構造を再生産する。

こうしたスポーツ文化を支えるグローバルなアスリートを再生産するには、そのトレーニングから最終的にエンターテインメントとして大くの集客と歓喜の感情を形成するためのインフラが必要になる。国家と資本の投資は、こうしたアスリートをナショナリズムと利潤の枠組のなかに回収する。

代替りは、こうしたグローバルなルールに基く文化とは逆に、他国と共通性のない国民国家「日本」に固有のスタイルとして演出される。どのような国民国家も、一方で近代国民国家としての建国の理念を持ちながら、他方で近代以前の時代に淵源する文化や価値観の正当な継承者であることによって、近代という特定の時代を超越して存在しうる(つまり永遠性)を獲得しようとする。こうした役割をキリスト教やイスラム教といった宗教的な伝統が引き受ける。7

近代日本は、近代国民国家としての「世界性」と「特異性」を表裏一体のものとしてきた。このいずれを欠いても近代国民国家としての一体性は維持できない。しかし、普遍的な構造と特異な構造という二重構造は常に矛盾を抱えこむことになる。その矛盾は、国家の歴史と神話(創生の神話か歴史の事実か)と、工業化が基盤とする科学と超越的な存在(検証可能性と神の存在)をめぐって、常に妥協の弁証法に苦しめられることになる。天皇制は、神話や非科学的な神観念を土台とした国民国家としての固有性に依存する。神話を科学や歴史的な史実を根拠に否定することは容易だが、人々が神話を明確に記憶から消しさることはなく、むしろ習俗として日常生活のなかに定着しているのは何故なのかを説明したことにはならない。神の存在は証明されたことはないが、多くの科学者たちは、この根拠のはっきりしない存在を信仰しているという事実があり、こうした近代的な個人はむしろ普通にどこにでもいる人々である。

問題は二つある。ひとつは、近代天皇制への人々の不合理な肯定は、天皇制への合理的科学的な批判では覆せないということである。神話や神話に基く儀礼的な行為が体現する象徴作用を否定するとはどのようなことなのか、である。8

天皇制を支える儀礼は、オカルトといっていい性質をもち、外部の人達にとって、この日本の儀礼は奇怪なbizarreな文化でしかないと思う。この世界を「日本人」というアイデンティティを直感的にもつ人々が共有している。天皇制は日本ではカルトとはみなされていない。そのことがむしろ問われるべき問題だろう。

●私たちの課題――ナショナリズムを否定するとは?

戦争や災害といったネガティブな出来事を否定することは、さほど難しくない。最低限でも原状への復帰を構想できるからだ。しかしポジテイィブな出来事の否定はそうはいかない。オリンピックや代替りの背景をなすナショナリズムや文化を否定することなしに、これらのオジティブとみなされている出来事がもたらす問題は解決しない。

では、ナショナリズム(国民、民族、国家という虚構によって構成される価値観や情動)を否定するとはどのようなことか。日本人であることを否定することとはどのようにすれば可能であり、それはどのような状態を人間関係や社会関係において必要とすることになるのか。この問いは多分一歩一歩の試行錯誤の積み重ねでしか、答えはでないかもしれないが、答えがありうるということの確証を得ることが必要なことだ。実践的な課題とは別に、思想的理論的な見通しとして、日本人を否定することの根源をなす条件は明確にすることが必要だろう。多分、国民国家としての「日本」や「日本国民」の解体だろうが、それがどのような新たな統治機構を構築することに結びつくのかが重要であって、もうひとつの国民国家しか構想できないのであれば、ナショナリズムを払拭することにはならない。

しかし、同時に、ナショナリズムの民族的な側面は単に国民国家の否定では対処できないものでもある。擬制であったとしても「日本人」という民族性への多くの人々の確信を覆すこと、これが虚構でしかないことを、学問や科学の世界のことではなくて、日常生活のレベルで実現することとはどのようなことなのだろうか。民族の廃絶という課題は、支配的な民族にも少数民族にも同じように当て嵌めて論じることができるのか。「無民族」世界を目指すという課題は、ほとんど真剣に議論されてきていないが、天皇制を否定することと擬制としての日本人という民族性の否定をひとつの主題として運動化するとすれば、この課題は避けて通ることはできないだろう。

これは明かに「文化革命」の課題である。しかし、どのような文化の革命が自由や解放をもたらすことになるのだろうか。文化の革命を政治革命とともに、ある一つの理想に基く普遍的な理念によって導くのであれば、画一性しか生まれず、人々が有する多様性や特異性は入り込む余地はなくなるかもしれない。多様性や特異性に基づきながらも、集団としての共通した価値観も持ち、しかもこの多様性と共通性をレトリックで総合するような誤魔化し――これは多分にファシズムを引き寄せやすい――ではない、世界はありうるのか。こうした課題に答えることなしに「文化革命」はありえない。

————————-

●参考1

オリンピック、独立国以外の参加地域(国)

https://www.joc.or.jp/games/olympic/code/index.html

プエルトリコ(米国)

米領サモア

バージン諸島(西側 米国)

バージン諸島(東側 イギリス)

アルーバ(オランダ)

バミューダ(英国)

ケイマン諸島(英国)

クック諸島(ニュージランドと連合制)

香港(JOCのリストにはない)

マカオ(パラリンピックのみ)

キプロス キプロス共和国と北キプロス・トルコ共和国で「分断」

台湾(チャイニーズタイペイとして参加)

旧英国植民地で現在英連邦加盟国のなかには、国家元首を英国王とする立憲君主制国家がいくつもある。

ミクロネシア連邦

ツバル

セントビンセント・グレナディーン

アンティグア・バーブーダ

ベリーズ

セントクリストファー・ネイビス

セントルシア

パプアニューギニア

ソロモン諸島

——————————————-

●参考2

事例:プエルトリコの場合

1543年のスペインによる植民地化以降現在まで「独立」を果していない。

1898年から1900年まで自治政府樹立。

1900年に米国領に。

1917年に米国市民権が付与される。オリンピックの独自選手団は禁じられた。

近年は財政破綻が深刻。

2017年、ハリケーン・マリアで大被害。連邦議会や大統領選挙権がないため、トランプが冷淡な対応をしてきた。

1958年にIOC承認

1900年以降、プエルトリコは米国との関係で二重のアイデンティティを構築してきた。一方で、米国の市民としての意識があり、他方で文化や政治における自治意識がある。1900年当時のプエルトリコのリベラル派はスペインの植民地主義からの解放を求めつつも、完全な独立ではなく地域自治を追求した。これが1898から1900までの自治政府の動きを支えた。プエルトリコは多くの米軍基地を抱えてきた。ルーズベルトロード海軍基地は海外の米軍基地として最大規模のものだが、2003年に閉鎖。それ以前に反基地運動によってビスケス島基地も閉鎖された。

1948年。USオリンピック委員会はプエルトリコを米国のオリンピック組織に統合することを提案するが、これを拒否。この時期、ハワイとアラスカはこの提案を受けいれて組織が統合される。IOCで独立したポジションを獲得することを、他のラテンアメリカ諸国やIOCも支持する。

プエルトリコは、米国の文化的な価値の一部を受け入れてきた。消費文化、スポーツ、キリスト教(プロテスタント)などであり、「Army and Navy YMCA」(陸軍、海軍、YMCA)と俗に呼ばれるように、軍隊の進駐と同時にキリスト教文化の進出による文化的アイデンティティの解体が問題とされてきた。しかし他方で、言語はスペイン語系であり、ラテンアメリカとの共通性が大きい。この意味で、米国による文化的な統合はうまくいっていない。

プエルトリコの独立とその象徴としてのオリンピックへの独立代表を送り出すという問題は、プエルトリコの選手が星条旗のもとで米国選手団として参加するのか、オリンピックで掲げたり、選手が身につける「旗」が星条旗なのかプエルトリコの旗なのかという問題に象徴された。これは1960年代の植民地独立運動のなかで重要な意味をもった問題でもある。

プエルトリコは米国のスポーツにとって重要な「資源」でもある。野球やバスケットなどで有力な選手を排出する地域でもあったからだ。この意味でスポーツを通じての米国の文化帝国主義にとって重要な位置を占めていた。

Antonio Sotomayor、The Sovereign Colony: Olympic Sport, National Identity, and International Politics in Puerto Rico、Univ of Nebraska Pr、2018

————————-

●参考3

北京オリンピックと香港

2008年、5月、聖火が香港を通過する。

6時間かけて25キロ、120人がリレーして香港文化センター、ビクトリア港などを通る。有名な観光地、ビジネスの中心街、中国返還を象徴する政治的な施設などを通る。香港からマカオへ。

2008年3月 チベットでの暴動(1959年のチベット暴動の49周年)とその弾圧

2008年4月 四川大地震。

北京オリンピックは中国にとって西側近代化のステージに到達したことの証明とみなされた。聖火は、このような確認を世界規模で各国に納得させる道具でもあった。2008年の聖火は、130日をかけて6大陸を横断する大規模なもので、オリンピック史上最長のリレーでもあった。国内のリレーは国内の調和を印象づける作用を世界に示す機能を期待された。台湾はこのリレーを拒否した。香港とマカオは、これらの地域が中国に統合され、この統合が植民地統治時代よりもうまくいっていることを世界に示す効果を期待されて、聖火リレーの最初の場所として選ばれた。

聖火は5月4日から中国本土に入った。1919年の54運動(抗日運動)の記念日の89周年である。1世紀前には失敗した西欧近代化を今成し遂げつつあることの象徴として。

香港の中国返還は1997年7月。一国二制度の開始。

5月2日、香港のChief Executive Mr. Donald Tsangは北京オリンピックのスローガン「一つの世界、一つの夢」を繰り返した。

聖火ランナーのリストにすいて、北京の組織委員会は120人のうち12人をノミネートした。これに地元のthe Sports Federation and Hong Kong Olympic Committeeの影響も加えると影響はさらに大きくなる。

聖火の行進は、香港の開発状況を反映した。これはMr. Timothy Fok, the Sports Federation and Hong Kong Olympic Committee Presidentが決定した。聖火ランナーはこの社会の縮図が示されている。120名のうち前現アスリートは42名のみ。残りはビジネス、政治家やNGO、エンターテインメント業界のメンバーなど。ビジネス界では、開発業者大手のShun Tak Holdings、Cheung Kong, Sun Hung Kei and Hendersonなどだ。こうしてアスリートは後景に退いた。聖火ランナーからは貧困層の人々も排除された。(サンフランシスコでは、78名のうちエッセイの入選者32名が選ばれた。)社会が分断されていることを隠蔽するセレモニーとなった。リレーの最初と最後に香港のメダリストが走った。誰が走るのかという選考をめぐる、北京との確執がある。

Wing-Shing Tang, “The 2008 Olympic Torch Relay in Hong Kong: A Clash of Governmentalities,” Human Geography 2018/1/1

1アダム・スミスの有名なWealth of Nationsは「諸国民の富」とも「国富論」とも訳されるように、nationは国民とも国家ともとれる言葉である。

2悲劇あるいはネガティブな出来事とは、ナオミ・クラインの災害資本主義から借りてきたものだが、内容は同じではない。

3祝祭イベントという表現は、ボイコフの「祝賀イベント」から借りたものであるが、内容は同じではない。一般に、権力の脆弱な「場所」は、「境界」にあるといわれている。国境は地理的な空間のなかで権力の及ぶ範囲が終点となる場所として、その外部と接するわけだが、王位継承であれ次期の政権を選択する選挙であれ、権力が時間的な終点に至り、次の権力への移行となる時間は、権力の空白時間となる。天皇は、戦後憲法では、伝統的な政治学でいえば国家権力の象徴でしかなく、権力の主体ではないということになるが、天皇は「日本」という国家を象徴する政治的な機能を担っており、明らかに統治機構の不可欠な一部をなす。天皇の死=象徴の死は、それ自体が、国家を象徴する存在の終わりを意味し、象徴の不在となる。死に続く即位は、象徴の終りと再生の一連の儀式を通じて、新たな象徴とそれが体現する国家がそれまでの国家からの正当な後継者であることを表明するための手続きになる。代替りには、「死」が関わるために、ある種の悲劇であり、「悲しみ」を排除することができない。これに対して、生前退位は、この「悲しみ」という要素が悲劇的なニュアンスを帯びることなく抑制され、即位に関わる「歓喜」の感情が支配的となる。

4こうした毒をもって毒を制する類いになりかねない作戦は、ファシスト的な「革命」の誘惑に引きよせられる危険性がある。

5小倉「憎悪の美学」『季刊ピープルズプラン』81号参照。

6この時代の参考事例として、プエルトリコのケースを参照。また、長野オリンピックが1998年、札幌が1972年である。これらの冬季オリンピックとの時代背景の比較も重要である。札幌は、ベトナム反戦運動やいわゆる68年の反乱とのかかわりで注目すべきだろう。長野オリンピックはバブル崩壊後の停滞期に追い討ちをかけたアジア通貨危機という20世紀最後の経済危機のなかで行なわれた。

7ただし、キリスト教もまた、近代を生み出した直接的な条件とみなされる場合がある。とりわけユダヤ教との結び付きを否定して、キリスト教以前の異教の時代やギリシア文明といった紀元前の時代にヨーロッパ社会の正統性を求める考え方が極右にはある。こうした考え方が、純粋な白人中心主義を正当化する主張には色濃い。

8やや安直なたとえでいえば、「陽が昇る」とか「陽が沈む」といった地動説的な表現や実感をどのようにしたら科学的な理解に合わせて表現し、なおかつそれを「実感」できるようになるか、という問題と似ている。


ピープルズプラン研究所主催の連続講座〈「平成」代替りの政治を問う〉第7回 「 東京オリンピックと「生前退位」―ナショナリズム大イベントがねらうもの」の発言資料として配布したものです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください