ナショナリズムに横取りされる反貧困、反新自由主義―「黄色いベスト」運動をどうみるか―

フランスでは燃料税(炭素税)増税をきっかけに「黄色いベスト」運動が急速に動員力を増して、道路封鎖デモから暴動状態になっている。少なくともテレビ報道では、このデモの背景についての説明はない。

炭素税増税に反対という結論は同じでも、その理屈は相対立する幾つかの立場がある。一つは、マクロン政権の炭素税増税=気候変動対策はまやかしであって、その効果はない、とする立場。真に気候変動対策となるCO2排出削減の政策なら賛成、ということでもある。二番目は、そもそも気候変動やCO2排出削減という政策そのものを否定する。トランプなど最近の極右政権がこうした立場をとる。気候変動陰謀説ともいえるもので、日本では、原発反対運動のなかにも、気候変動=CO2排出問題が原発推進の加担しかねないという危惧から懐疑的な立場をとる人たちもいる。三番目は、そもそもどのような理由であれ、これ以上税金を払いたくない、という立場。「黄色いベスト」運動はこの三つの立場が巧妙に路上で結合して発火した闘争といえる。

「黄色いベスト」運動は、また、農村部や低所得層の政権への不満を巧みにとりこんで急速に広がったように見える。地方を切り捨て、公共サービスを削減して自家用車に依存する構造を生み出してきた新自由主義への批判も含意している。しかし、こうした立場は左翼の専売特許ではない。むしろ新しい極右もまた反グローバリゼーションであり反新自由主義であるという意味で、政権を担ってきた議会制保守や右派とは一線を画すと思う。

この運動の初期の段階で、フランス在住の飛幡祐規は次のように述べている。

「「増税反対」は国粋的なポピュリズム運動を思わせる要素があるため、「黄色いベスト運動」はルペンの国民連合(国民戦線から党名を変更)に政治的にとりこまれる怖れがある、と左派の一部や緑の党は反発した。しかし、労働組合、政党、市民団体が組織するのではなく、ふだんデモや政治活動に参加しない民衆、とりわけ農村部・都市周辺の人々が政府に反対し、自発的にアクションをよびかけた運動は前例がなく、新しい形の民衆運動と見ることもできる。ラ・フランス・アンスミーズ(LFI屈服しないフランス)の多くの議員はこれを、不公平な税制と政治に対する民衆の怒りの爆発ととらえて支持した。保守、極右、左派の各党はみな党としてではなく、個人的に支持や抗議者への理解を表明して政府を批判した。」
(レイバーネット11月21日)

指摘されているように、この運動には「国粋的なポピュリズム運動を思わせる要素」がある。現状では上の三つの立場のうちの二番目が、主導権を握っているようにみえるのだ。実際、ルペンの国民連合は、そのホームページで炭素税引き上げ反対の署名運動などのキャンペーンを張っている。国民連合はグローバリゼーションが農村部を見捨てている点を批判し、農業や農村をフランスのナショナズムの再興の拠点に据えようとしている。地方にとって必需品でもある自動車、農家や中小零細企業にとってガソリンなどの燃料のコストは重要な課題であることを捉えた巧みな運動構築である。そして、テレビの報道などでの映像を見る限り、デモで見られるのは三色旗であり、赤旗や黒旗を目にすることはまずない。労組やエコロジストの旗もない。国民連合だけでなく、それ以外の極右の諸組織が、前面には登場していないが、たぶん運動の重要な主導権を握っているのではないかと思う。

また、米国の極右ニュースサイト「BREITBART」は「パリ抗議」の特別ページを立ち上げて報道している。

気候変動の深刻な問題への対処として、炭素税の引き上げを打ち出した政府に、エコロジストの運動の観点からどのような反対が可能だろうか。たとえば、フランスの緑の党は、炭素税引き上げに反対するが、その観点は、炭素税の19%しか脱炭素化政策に利用されない点を指摘して、この増税がCO2排出削減に寄与しないと批判している。

ATTACフランスもマクロン政権は炭素税増税は、エネルギー支出が家計に占める割合の高い低所得層を直撃する一方で、増税分はほとんど脱炭素化には使われず、安価でクリーンな地方の公共交通サービスは閉鎖されて高速道路の建設など金融と経済のグローバル化に加担するものだと批判した。(11月13日、ウエッブ)

このように、緑の党もATTACも増税=まやかし論である。これに対して、フランスのアナキスト連盟リヨンは、この黄色いベスト運動が右翼の特徴をもつことを承知の上で、この運動に参加することを表明した。このサイトの記事によると、もともと黄色いベスト運動は、自動車の速度制限に反対してスピード違反を検知するレーダーやガソリン税に反対する極右に近いグループから生まれたという。彼等の運動には、システムへの懐疑よりも実践的で直感的な怒りの信条が基盤となったもので、地方のフランス、「周辺部フランス」「忘れられたフランス」「農村の現実」といった概念で語られるような地域を基盤とするものだという。彼等の多くはレイシストではないが国民戦線(現在の国民連合)に投票してきた人々でもあるという。世界を席巻している極右(ロシア、ハンガリー米国、英国、イタリア、ブラジルなど)に共通しているのは「文化的なヘゲモニー」への関心である、とも分析している。かれれは、極右のレトリックと馴れ合ってでもこうした運動に介入して主導権をとるというリスクを冒すべきだと主張する。

黄色いベスト運動に共有されているのは、マクロン政権への異論や反発と炭素税増税反対だけでなく、現状のフランスが直面している課題の根源に、左右どちらであれ、長年政権が採用してきた基本方針、グローバリセーション(あるいは新自由主義グローバリゼーション)への懐疑である。農村部や低所得層が増税とグローバリセーションの最大の犠牲者であるという点でも認識は共有されている。極右にとって、グローバリゼーションがもたらした農業の破壊や失業に対するオルタナティブは、国家による保護主義の復活であり、ナショナリズムの価値観の再興という過去の経験への回帰が、大衆を動員する上で最も効果的なスタンスになる。

他方で、左翼が反グローバリゼーションという場合、犠牲となる貧困層や地方をグローバル資本主義の軛から解放する社会構想をどのように描いているのか。過去のナショナリズムと保護主義への回帰はそもそも、冷戦期に反社会主義のイデオロギーと政策のなかで構築されてきたものだっから選択肢にはならず、かといって、破綻した20世紀型の社会主義や福祉国家を持ち出すことも、現実的ではないという意味で、魅力に欠けるにちがいない。大衆民主主義を基盤とした代議制民主主義は、ポピュリズムに迎合することなしには権力を掌握できないが、そうであるとすれば、左翼の原則を踏みはずさない一線を引きつつ、かつ、大衆的な支持を運動として創造できるのか、が問われる。この点で、過去への回帰という手段をもつ極右に対抗できるだけの未来への展望を支える理念を構築できているのかどうか。伝統への回帰に抗い、むしろ明確にこうした復古主義を拒否する基盤が、狭義の意味での経済的な資本主義批判だけでは明かに弱い。極右は左翼のこの弱い環を的確に突いているように思う。言い換えれば、反グローバリゼーションとしての反資本主義の民衆的な基盤を、経済決定論の狭い枠から広げて、ナショナリズムに回収されないアイデンティティの文化的な政治の課題として構築する方法論がまだ未成熟なのだ。

今回の運動で、目立つ「暴動」のスタイルには過去も繰り返されてきた「暴動」にはない特徴があるように思う。最初に指摘したように、この運動が三つの全く相反する傾向の融合(あるいは野合)であるために、不可解さが増しているという側面もあるかもしれないが、それだけではなさそうだ。「暴動」があたかも自然発生的に起きたかのように報じられ、政府も「首謀者」を把握することに苦慮しているかの報道がなされている。私の見方は違う。たぶん、語義矛盾だが、意図的に自然発生性が「組織」されたと思う。そして、組織が見えない状況もまた意識的に生み出されてきたものだと思う。というのは、90年代以降、極右の運動は、左翼の反グローバリゼーション運動の戦術から多くを横取りして自らの戦術へと組み入れてきたからだ。ブラックブロックのような街頭闘争戦術(黒のコスチュームを着たファシストたち―もともとファシストは黒シャツがシンボルだった―)、そしてゲリラや地下組織のノウハウを導入した「リーダーなき組織」の構築、更には、資本主義批判では、マルクスからグラムシまでマルクス主義を借用し、ポストモダンの思想では、ボードリヤールからシチュアシオニストまでをちゃっかり利用する。そうかと思えば、エコロジーが「在来種」主義や太古のヨーロッパ神話と融合して移民排斥やセクシズムを「伝統」や「自然」の衣裳で包み込まれて利用される。こうした傾向を、インターネットのSNSなどのネットワークは、怒りや苛立ちといった感情を動員するような言説の空間として人々を煽る道具になってしまい、冷静に多様な見解を収集して自律的に意思決定する個人の主体性を奪う方向で利用されている。

今世紀にはいってから、民衆の運動が高揚するとき、「左右」の軸で運動を評価することが難しい局面が増えているように思う。アラブの春といわれたエジプトのタハリール広場占拠のなかには、世俗的な社会運動からムスリム同胞団などの組織までが共存した。ウクライナのマイダンと呼ばれた反ヤヌコヴィッチ政権運動のなかには明かなネオナチの組織から民主化を求めるリベラルまでが存在した。ギリシアは急進左派と右翼の独立ギリシアが連立を組む。ウォール街占拠運動もまた、左派がヘゲモニーを握るなかで、右翼の介入(主導権を握る試み)が繰り返し指摘されてきた。右翼の反ユダヤ主義は伝統的に多国籍金融資本をユダヤの陰謀とみなす観点をとるからだ。そして、ブレクジットもまた、英国で極右が主導権を握って成功した事例に入れていいだろう。エコロジストの運動もまたいわゆる「エコファシズム」の問題を抱えてきた。つまり、近代工業化以前の社会への憧憬を背景とする「自然」回帰としてのエコロジーが、排外主義とセクシズムを内包するという問題だ。日本でも原発反対運動のなかには、原発に反対するのに右翼とか左翼といった立場を超えた連携が必要だという主張がある。環境からグローバル化まで、その矛盾の山積に対する答えとして、ナショナリズムが(あるいは宗教的な世界観が)急速に力を得てしまっている。「黄色いベスト」運動はこの意味でいって、目新しいこととはいえない一方で、街頭闘争として表出した反政府運動の主導権をこれだけ公然と極右に握られる事態は、深刻なことと受けとめなければならないと思う。

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