所有権を越える表現の自由——都市の闇に影となることについて

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所有権を越える表現の自由——都市の闇に影となることについて
小倉利丸

かつてナチス・ドイツの時代に、「エーデルワイス海賊団」と呼ばれる労働者階級の若者たちがいた。ドイツでナチスに敵対する非合法集団として抵抗運動を担った数少ない存在のひとつだ。彼らは、闇夜にまぎれて、町の壁にナチス批判の「らくがき」をした。かれらにとって「らくがき」は重要な抵抗の手段だった。ナチスにとってこの「らくがき」は明確な権力への抵抗者が存在するにもかかわらず、その存在は不可視なままだ。「らくがき」は権力に不安感情を喚起しつづけたのだ。多分、日本の戦時期にも、その規模はどうあれ、多かれ少なかれ、権力に不安をかきたてる「らくがき」がそこここに存在したであろうことは想像に難くない。

●公共空間?そんな場所はどこにもない

電車に乗っていると必ずといっていいほど目にするものに、線路脇の塀やビルの壁などに描かれた「らくがき」がある。「アート」と呼んでもさしつかえないような大きくてカラフルなものもある。あるいは、飲み屋街の路地裏の壁などに乱雑に描かれたサイン(タグと呼ぶ)、図形やイラストなどが描かれたステッカー、型紙にスプレーを吹きかけるステンシルなど様々なスタイルのものを見かけることもある。これらはグラフィティと呼ばれ、世界のほとんどの国・地域でみられるストリートの表現だ。グラフィティには、様々な技法があり、スプレーやマーカー、絵の具などの塗料、ステッカーやポスター、あるいはステンシルと呼ばれる型紙を用いた手法などの他に、最近は、編み物や布、糸などを使った「グラフィティ」もある。表現の内容も多様で、一見すると意味不明な記号から明確な政治的メッージや差別的な誹謗までほとんど何でもありだといっていい。もちろん都市の路上や建物の壁面ばかりでなく、地方の農村地帯でも、街道や線路脇の納屋や廃屋になった郊外のパチンコ屋やガソリンスタンドの壁面などにもグラフィティがあったりするから「都市の路上」の表現という限定は正しくない。
いったい誰がどうやって、何を意図してこのような行為に及んでいるのか、などということを詮索する通行人たちは多くはなく「らくがき」として無視されるか、逆に「汚い」と不快感をもつ人たちもいるが、他方で、型にはまった商業広告と清潔なだけで個性を殺すような景観よりもこの一見猥雑に見える表現はすごいものだ、と気づく数少ないグラフィティ愛好家もいる。
これまでさしたる関心を持つこともなく漫然と眺めていたかもしれない「らくがき」=グラフィティも、もしあなた自身が、スプレイー缶を持ち、誰にも見つからないように線路わきやビルの高い壁面に「安倍政権打倒」とか「原発再稼動反対」などのスローガンを描くことを想像してみればわかるように、グラフィティは容易な行為ではない。現場を警察官に見つかれば違法行為(建造物侵入や器物損壊など)の現行犯として逮捕される危険を冒す行為でもある。ほぼどこの国でも規制の程度に差はあるにしても無許可での路上の「らくがき」が違法であるのは共通しているが、しかし、こうした表現に挑戦する人たちが、世界規模で大勢いることもどこの国にも共通している。中国にもパレスチナにもイラクにもグラフィティのライター(グラフィティは「文字」を描くので「ライター」と一般に呼ばれることが多い)はいる。しかも、グラフィティはインターネットが普及するずっと前から、一部は市場と既存のメディアの力に依存しながら、他面ではライターたちのインフォーマルな国境を越えるネットワークによって、その(ライフ)スタイルが拡散していった。これは、ライターたちが、国境を越える出稼ぎの労働者や世界を放浪してライターのコミュニティを渡り歩く自由人たちとして、ゲットーやスラムに事実上閉じ込められている貧困層の若者たちを繋いでいるからだ。グラフィティは、この意味で、現実世界のネットワークの痕跡であり、ネットのバーチャルな世界にはない身体性の直接的な表現である。だからこそ、現実世界に土台を置く権力にとって、不安の根源をなすのだ。

●所有の権力に抗う

かつて、戦後から七〇年代くらいまで、路上は様々な表現にあふれかえっていた。張り紙は電柱やガード下、電話ボックスなど至るところに貼られ、露天、物売り、屋台もいまよりずっと普通の存在だった。大学には立看が林立し、国鉄(現在のJR)の電車の車体には労働組合のスローガンが描かれていた。これらは当時、グラフィティとは呼ばれていなかったが、グラフィティと呼んでさしつかえない表現だろう。デモも狭苦しく車道の片隅に追いやられることもなく、フランスデモやジグザグデモなどがあたりまえだった。ところが現在は、ほとんどの路上の表現の自由は瀕死の状態で、行政や警察の許可がなければことごとくが違法行為とみなされるようになってしまった。この傾向は、国鉄や公営バスや電電公社の民営化など、公共サービスの解体とともに、不不特定多数が行き交う路上や交通機関もまた民間資本に囲い込まれ、商業広告が場所を占拠する一方で、民衆の自由な表現の場所としての路上の自由は消滅した。そのなかで、グラフィティは唯一といってよい権力の許認可の権限を無視した表現を維持しつづけてきた。路上の「運動」表現が後退するなかで、これはなかなかすごいことだと目をみはる活動家はいったいどれほどいるだろうか。
グラフィティの大半は、非政治的なメッセージでしかない。「でしかない」という表現は、政治的表現は非政治的表現よりも意味のあることがらだという活動家の思い上がりがある、という皮肉をこめてあえてこのように表現するのだが、線路脇や繁華街のビルに描かれたグラフィティに、なぜ同じことが政治的な表現として実行できるような「力」が運動の側にはないのか。社会運動あるいは広義の意味での左翼運動あるいは市民運動が現実の空間のなかでいかに力を喪失してきたか、グラフィティはこうした反省をわたしたちに突きつけることがらだとはいえないだろうか?「遊び半分だからできる」わけではない。かといって違法性を孕んだ行為がもつ問題の社会性にライターたちが自覚的なわけでもない。
グラフィティは、一般に、「やってはいけない」行為とみなされているが、その意味は、二つある。ひとつは法的な意味であり、もうひとつは道徳的又は倫理的な意味である。グラフィティが違法かつ反道徳的であるというほとんど「常識」にすらなっている理解は、行政や警察などからすれば説明の必要もない当然の前提だというだろうが、必ずしも自明なこと、あるいは当然のことだというわけではない。「法」的な枠組を前提しても、常識とは逆に、グラフィティと表現の自由の問題の射程は思いの他広い。
第一に、グラフィティは、近代国家の多くの憲法に共通してみられる二つの基本的な権利、表現の自由と所有権(財産権)の矛盾を体現している。日本国憲法だけでなく、多くの国の憲法では言論・表現の自由を基本的人権として明記している。世界人権宣言でも表現の自由は自由の権利のなかでも重要な権利としての位置にある。日本国憲法では「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」(十三条)「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」(十九条)「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」(二十一条)とある。しかし他方で、財産権についてもまた「財産権は、これを侵してはならない。」(二十九条)と明記されている。
他人の財産である壁などに許可なく行なわれるグラフィティは、財産権を侵害する表現行為だが、その一方でグラフィティもまた日本国憲法21条にある「その他一切の表現の自由」に含まれるから、憲法上の建前からすれば表現の自由によって保障されるべき表現だともいえる。しかし、現状の憲法や下位の法律の解釈や実際の運用では、表現の自由は財産権によって事実上大きな制約を受けている。表現の自由と財産権の間の優劣は憲法には明記されていないにもかかわらず、財産権が事実上特権的な地位を占めている。
財産権の特権性問題は、グラフィティに限らず、著作権や特許などの知的財産の特権性にも関係しており、その理由は、資本主義的な所有が自由を抑圧する構造に由来する。近代社会が理念として掲げる諸権利は、所有の権利に包摂され下位に位置づくような構造をもっている。近代社会では、権利は所有されることによってその主体に帰属するものとされ、権利もまた商品化可能であって、契約を通じて移転されうるもの、つまり、貨幣を対価として権利放棄することが主体の自由意志に基づいて正当化される。これは、人格的自由を放棄して資本の意思に従属する〈労働力〉商品化を正当化することによってのみ存在可能な資本主義が本質的に有している権利の限界と関わっている。
近代社会の主体が〈労働力〉商品を唯一の糧(人的資源)となることを運命づけられて生れるということのなかには、空間への権利などというものはあらかじめ資本か国家によって奪われているなかで生れるということが含意されている。公共空間とか公共圏という概念は、この事実をむしろ隠蔽するように作用するイデオロギー以上のものではない。あたかも公共性への可能性が資本主義において諸個人に平等に配分されうるかのように想定するのは、近代社会の主体が、あらかじめ奪われた空間のなかで他者と関係する限りにおいて「個人」としての固有名を保持するにすぎないという空間に規定された身体性を軽視することになる。この空間は風土のような歴史的な規定性を捨象した概念ではないし、空間のなかに位置するという個人の具体性を帯びた身体は、観念的な情報や意識に還元することのできない影をたずさえた身体の動きそのものである。この動きの痕跡として、グラフィティは空間における所有関係を転覆しうる潜勢力の痕跡となる。
都市の秩序が監視社会化のなかで、監視カメラやネットとマスメディアを介した「安全・安心キャンペーン」によって極度にデジタル化され、路上の人々をコンピュータによる顔認証技術などによって個別に捕捉しようとする傾向が強まれば強まるほど、私たちの身体が占める空間と時間の現実的な「重み」は、電子的な情報の集合へと還元され、私が有する固有性は遺伝子情報や生体情報といった情報にとってかわられるようになってきた。監視社会は固有名詞を奪い数字に還元する時代から固有名詞のまま人々を個性ある主体として、しかし電子的な情報の束としての主体として監視し管理できるところにまで情報処理を高度化させてきた。このことが、逆に、匿名性、とりわけ具体的な時間と空間の世界のなかで身体性をもって都市に刻印を残すような行為の主体、電子的な情報の網には捉えられない暗闇の影に権力はこれまで以上に大きな不安を抱くようになっている。
グラフィティは、こうした観点からすると、所有による表現の自由への不当な侵害に対して、表現の自由を主張する実践的な行為である。これは当事者意識に即した評価ではない。当事者がどのような意識をもとうがその行為の社会的な意味には、権利の不平等という問題が内在している。他方で、空間の所有者は、その空間が「らくがき」されることを阻止し、自己の表現の自由を確保するために空間を所有するという動機を持つとは限らない。むしろこのような動機を持つことは稀だろう。自己の所有する空間を広告のスペースとして貸せば賃貸料を取得できるが、このことがグラフィティライターの表現の自由を侵害する行為だなどとは感じないだろうし、そうした主張に出会えば心外であり単なる言いがかりにすぎないと思うだろ。アドバスターズたちは逆に広告を自らの表現への抑圧だと感じて広告への「ヴァンダリズム」を実行する。ここでも当事者の主観とは別に、所有者がその空間を自由な表現の場にしたいと思う者たちを排除することにが不可避的に、表現の自由を制約し、摩擦や抵抗を生み出す。所有が自由における不平等の原因になるのは、空間の所有が貨幣的な力あるいは政治的な力に依存し、これらの力が不平等に配分されているのが資本主義の一般的性格だからだ。
こうした経済的政治的な権力の配分は、コミュニティ相互の間にもコミュニティ内部にも不平等の構造に沿って構成される。グラフィティライターは、彼らの仲間集団では相互に認知されるが、外部の世界からは彼らは匿名である。だから、タグであれピースであれ、そこに描かれたものと描き手とを一義的に結びつけることは、ライターのコミュニティの外部では困難であることが多い。確かに「そこ」で違法行為が行なわれ、歴然としてその証拠となる痕跡が残されながら、それが誰の仕業か不明であるだけでなく、そもそもその痕跡が何を意図し、あるいは何を意味または表現したものなのか(文字なのか絵なのか、意味のある単語なのか)すら判然としない。これはライターたちの世界の外にいる「(ライターたちからすれば)よそ者」の不安をかきたてる。これはライターたちに帰されるべき責任の問題ではなく、所有の不平等がもたらした結果である。

●「汚い」——だからそれが何だというのだ!

グラフィティの表現内容は、社会的政治的な主題というよりもむしろパーソナルな自己表現に関わる場合が多いから、「公共の利益」に寄与するとはみなされない。しかし、「公共の利益」ということでいえば、商業広告が社会性も政治性もない利潤目的で商品を売るために公共空間を私物化していることと、グラフィティのライターが私的な目的で公共空間を利用することとの間に、意味内容という観点からみて優劣をつけうるものだろうか。一方は合法的に空間利用の権利を獲得したことによって、その表現の意味内容がいかに私的(私企業的)な利益の追求を目的としたものであっても詮索されないということであって、所有は表現の自由に対して暗黙のうちに抑圧効果を伴なうことがみてとれる。もちろん、その表現の内容それ自体が社会的なメッセージをもってグラフィティというスタイルをとることもある。バンクシーは最もよく知られているアーティストだろうし、日本でもチンポムや281_Anti Nukeなどもこうした社会的なメッセージを描くアーティストとして注目されている。こうした表現の意義は大きいが、社会性のあるセッセージだけが意味のある表現として注目されたり擁護の対象になるという伝統的な表現の自由についての序列理解は、現在の支配的な社会秩序の統制構造を前提にすれば意味をなさない。むしろ、路上においても、personal is politicalの観点からその表現を所有の秩序から擁護できなければならないのではないか。この観点からすれば最も無意味なもののように見えるタグにこそ、ライターたちの思惑を越えたラディカルな 政治表現を見いだすことができるはずだ。その証拠に、タグで「汚された」場所を犯罪を誘発する地域であるとみなす「割れ窓理論」や「ゼロトレランス」に基づく警察や自治体の態度は、監視カメラ、パトロールの強化、職務質問の日常化などによって、グラフィティによって領有された路上を権力の空間へと再領有しようとするものだとはいえないだろうか。
タグは、グラフィティのなかでも最も評価が分れ、時には「汚ないらくがき」の代名詞とすらなっているが、そうであればこそ路上の表現の自由を議論する上で最も重要な課題だともいえる。つまり、美しければ「違法」でも許容されるという美意識は、高級ブランドの店をおしゃれで美しいものとする一方で、野宿者や彼らのブルーシートの小屋を不潔で汚なくて美観をそこねるからこそ公園から排除することに対する地域住民の合意が容易に成り立つのではないか。タグは、「ピース」と呼ばれるデザイン的にも洗練された大きな作品と比べて、殴り書きのサインでしかないから、同じグラフィティのカテゴリーに属するにもかかわらず、その記号作用は根本的に異なる。なぜタグなのか?手軽で高度なテクニックを必要とぜずに自己顕示欲を満たせるから、といったありがちな理解は的外れだろう。むしろタグは私物化された都市空間への無産者による署名行為だ。署名それ自体はありふれている。署名行為は、一般に、クレジットカードや宅急便の受取りのサイン、売買契約書、外交文書などから、死刑執行のために法務大臣が行なう署名に至るまで、市場経済と権力の正統性を自己の名によって引き受け、明示する行為である。カード決済の署名がいかに読めないような代物であるとしてもそのことを誰も「汚ない」とは思わない。署名は承認の主体としてそこにいることを証す記号だが、この記号は、署名それ自体では完結しない。記号の痕跡それ自体は、記号が刻印された場所(契約書などの書類)によってのみ解釈可能なものだが、この「場所」もまた、この場所が指し示すものによってその意味の正統性が確認される。ある意味で、パースのいう無限の解釈項を自己の所有の下に置く行為が資本主義における署名の効果だ。とすれば、タグはこうした署名の転用、非所有の証しであり、匿名性の証しとしてその場所に新たな解釈項を付加する行為なのだ。もしそうだとすれば、タグは、権利主体による記号作用を横領する行為であり、匿名でありながら署名が持つ非匿名性を僭称し、自らの所有にも権力にも基づかない場所に所有を偽装することであり、こうして場所の意味も言語も歪められる。こうして都市を支配する所有の秩序がタグやグラフィティによって上書きされ、所有する者が所有されうることを示唆する。タグが密集する場所はあたかも裏書きを繰り返えされた手形のように、多くのライターたちの共同署名行為によって、所有の意味を書き換える。
タグがテリトリーに与える効果は、現在のグラフィティの源流ともいえるニューヨークのブロンクスでのヒップホップ文化のなかですでに発揮されていた。1970年代のギャングの縄張りに縛られていたコミュニティの若者たちに対して、グラフィティのライターたちは、この縄張りを越境してタッギングを繰り返すことによって、縄張りを異化させてみせた。境界線を引きなおす行為としてのタギングは、「境界」を自ら引くことによって、所有の権力の脆弱性を人工的に創出するといっていいかもしれない。

表現の自由は、自己の身体性に根差した権利であり、所有権は対象性に基づく権利だ。「自己」の主体としてのありかたも、近代的な個人主義の幻想にとらわれるのではないとすれば、自己の主体も関係のなかでしか成り立ちえないのだから、この意味でのわたしは、たとえ「わたしはわたしのもの」だとしても、他者と他者が占有あるいは所有のする場所への権利によって排除される。所有権とはこの意味で、排除の権利である。ここでの自由の問題の核心は存在と空間である。空間の制約によって時間の条件が規定され、これが、グラフィティの表現を規定する。資本のテクノロジーが時間の条件に規定されるとすれば、ライターの技法は、排除された空間への侵入と監視との弁証法に規定される。空間的な制約が表現の自由を支えるテクノロジーを規定するという定式は、近代の表現一般にあてはまる。主体の自由は、他者との関係ぬきには成り立ちえないと同時に、この関係のなかで、必然的に自由の限界を抱えこまざるをえない。表現の主体としての権利は、この意味で、必然的に社会的歴史的に規定された場所に制約される。そして、この意味において、表現の自由は、単なる表象の問題ではなく身体性の問題であり、自由の権利を根底から支える根源的な権利であり、所有は常に、この権利を制約する条件として立ちはだかる。個人の財産であれ政府の財産であれ、不特定多数がアクセスできるような壁面について、所有権を理由に表現の自由を制限することは、自由の権利からすれば、常に権利の濫用なのである。所有権(排除の権利)に特権を与える現行の秩序は、身体性に内在する自由を抑圧する。社会的政治的な表現の自由(デモや集会の規制など)はこうした抑圧の構造を免れるべきであるのは当然のこととはいえ、これらが特権性を主張してしまえば、非政治的な行為の担い手たちの政治的行為を理解しそこねる通俗的な政治主義に陥いることになるだろう。
道徳的倫理的に「やってはいけない」とか逸脱行為という判断規範は、所有の秩序に基づいており、上述のような意味における表現の自由には基づいていない。道徳や価値判断の領域においても所有を表現の自由の優位に置くような暗黙の価値観が根付いている。表現の自由の問題領域は、多数の人々にとって許容しがたい少数者たちの表現を「自由」として受け入れるべきかどうかといった表現の限界領域の問題であるという場合、表現の自由は、それが、権力から遠い少数者であればあるほど道徳的倫理的にも許容されがたく、逆に、権力者は最大の表現の自由の享受者でもあるという矛盾が伏在していることを見落してはならない。グラフィティはこの矛盾を体現しているともいえるのだ。レイシストやナショナリストは、この意味では、決して少数者の表現の問題ではない。むしろ彼らは沈黙する多数者の価値観を代弁するものとして表出しているからだ。かれらに表現の自由を云々する権利がないのはこの意味でだ。
所有が自由と矛盾するとして、では、「コモンズ」はどうなのか?これは解決の道を切り拓くことになるのか。コミュニティにも共有可能なものや場所についての暗黙の合意がある。そしていかなる場合にも、このコミュニティの合意から逸脱する者たちがいる。逸脱は摩擦を生む一方で、この摩擦を通じて所有をめぐる秩序の意味が問い直されて再考されることはよくあることだ。コモンズは既存のコミュニティの支配秩序を与件として、この秩序を補完するものとして、コミュニィのなかの不同意な部分の包摂として作用する場合がある。グラフィティにおけるリーガルウォールやアートマーケットを通じた商品化は摩擦なしには存在しえない出来事だといえよう。しかし、これらの逸脱の社会への再統合化によって、問題が解決するわけではない。「コモンズ」と呼びうるものは、既にコミュニティからは不可視のライターたちの集団性のなかに、支配的なコミュニティの秩序(この存在自体がある種の擬制でしかないのだが)から分節され自立して存在するのが一般的だ。所有と表現の自由の間にある矛盾や社会的排除それ自体は残り、複数のコモンズの間の相克が生み出されるだけのことだ。
グラフィティは、ほぼどこの国でも広範に見出されるグローバル文化であるが、所有権を制限してグラフィティの表現の自由を優先させるような国はみあたらない。これもまたグローバルに見出せる表現の限界状況である。表現の自由と所有権が憲法で対等な権利として規定されていながら現実には所有権が有利に作用するし、所有権による規制があるなかで、違法といわれてもどこの国でもグラフィティが存在する。そこには、法や道徳やコミュニティの秩序などの文脈では理解することが困難な、現代社会の空間の権力が抱えるある種の矛盾を見ることができる。つまり、近代社会が理念として掲げる自由と所有の間にある両立しがたい領域の問題が、グラフィティという一見すると些細な「らくがき」に見出せる。

●闇の中の影として

国家間の領土紛争が大衆的な感情的敵意を刺激する事態に端的に示されているように、空間への支配は、権力の象徴的な力が大衆的な敵意を形成し、権力が大衆を味方につける格好の手段となっている。許諾なしに行なわれるグラフィティは、この象徴的な権力による空間支配に挑戦し、これを侵犯する潜在的な効果をもつ身近な事例なのである。現在、世界中でグラフィティの名前で知られるようになったスタイルの原型となったヒップホップ文化のなかのグラフィティのクルーたちは、一九七〇年代に、ストリートを実効支配するギャングたちの縄張りにとらわれずに、タギングを繰り返すことによって、ギャングの場所への支配を揺がすほどの影響力をもったともいわれる。
匿名であり、その行為の「意味」を理解しがたいとともに確実に「違法行為」という意味づけだけは与えられるグラフィティは、場所の支配的な秩序を揺がす。権力がその正統性を明示的に人々に示すことができるのは、空間的な拡がりのなかで権力が定めた秩序が維持されているということを具体化する場合だけだ。権力の可視的な効果は、空間秩序形成の主導権を彼らが握っていることを人々に自覚させる。米国のグラフィティ研究者でもあリ文化犯罪学者でもあるジェフ・フェレールは、米国でもグラフィティは、ある時期まで権力によっても許容されていたと指摘している。町を巡回する警察官もライターたちが描く現場を目撃しても、その「作品」の良し悪しの感想を述べたりはしても違法行為として取締るようなことはほとんどなかった時代があった。ヒップホップ文化とともに急速に拡がったグラフィティが鉄道の車両にも描かれるような時代になっても、違法行為として認知されつつも重大犯罪として取締るべきものだというほどには深刻には捉えられない時代が八〇年代の半ばくらいまでは確実にあった。
八〇年代のレーガン政権の時代に、文化的な保守主義者たちによる非白人文化や性的マイノリティ文化への敵意が文化戦争という言葉する生み出すようになった時期に、黒人文化としてのグラフィティもまた敵意をもってみられるようになったといっていいかもしれない。(グラフィティが黒人文化だというのも誤ったラベリングだのだが)グラフィティに対して、とりわけ都市の中産階級が取り締まり強化を主張し、取り締まれない警察や行政に対して不信感が抱かれるとき、所有の権利は憲法で保障されている権利である以上、この所有権が侵害されないように保護するための措置を取るのは権力=警察や行政の責務であるという認識が前面に出てくる。人々はグラフィティの存在に、自らの文化とは相容れない他者の影と権力の不在を読みとり、権力はグラフィティに権力の空間支配への侵犯を読む。誰が何を目的としているのかが不分明である一方で、権力による秩序の再生産を阻害する表象としてグラフィティは機能する。これは典型的な他者の表象の構築である。しかし、ここには文字通りの意味での他者による脅威が存在するのではなく、むしろ、ネオリベラリズムの時代がもたらした中産階級の不安んも由来する権力の正統性の危機の存在だったといえる。この時期に、グラフィティ・ライターたちは、権力によって危険な階級の文化的前衛に押し上げられた。
グラフィティの犯罪化は、表現された内容や意味や何らかの「美的」な質などとはまったく無関係な権力の正統性への挑戦によるものだ。権力は、空間に配置されているモノをオーソライズするが、グラフィティはこのオーソライズをすりぬけるか拒否するか無視してそこに表現されているということが権力にとっては問題なのである。個々のライターにとっては、がそこに描くという行為が空間をめぐる権力闘争だなどと大上段に構えたイデオロギーで語られるのは迷惑なことかもしれないが、グラフィティの効果は空間の権力への不服従であることは客観的な事実である。多くの場合、グラフィティは、ちょっとした不服従、しかし所有を異化するという意味では根源的な不服従であるしかないのだ。
こうして、もう一度、日頃見慣れたグラフィティを眺めてみよう。都市の景観は、権力が引いた所有の境界を揺がす多くの再領有の境界がそこここに署名の痕跡を伴なっていることを見出せるはずだ。これら先、首都はオリンピックを口実としたジェントリフィケーションによって、地方は「地方再生」の欺瞞的な再開発によって、権力は再び、その領有の力をとりもどそうとしているようにみえる。しかし、ライターたちは決していなくなることはないだろう。なぜなら既に彼らは不在だからだ。権力はその影に不安を覚えて怯えるが、彼らは、そもそも闇のなかの影であり、都市が実空間の中にある限り、影から解放されることはありえないから、権力はいかなる弾圧の力を駆使しても、この不安から解放されることはありえない。