主宰者からのお知らせ

『絶望のユートピア』刊行のお知らせ

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久し振りに本を出しました。タイトルは『絶望のユートピア』。タイトルにある「絶望」という言葉と「ユートピア」という言葉は、真逆のようでもありますが、「の」に込めた意味をどのように取るかで、そのニュアンスは変わるだろうと思っています。「私の本」のように所有や帰属を意味する場合、「海の青」というように、ある事柄の性質を意味する場合、「1917年のロシア革命」のように、ある時間や時代と事柄を繋ぐ場合、「机の上の本」のように、あるものとあるものとの関係を示す場合など、「の」には多様な意味、機能があります。本書のタイトルの「の」もまたそうした多様な「の」としての意味をもたせているつもりです。本は、これまでに私が書いてきた文章のなかから三分の一ほどを選んで掲載しました。配列は時系列でもカテゴリー別でもありません。一見すると混沌としていますが、それがこれまで私が書いてきたことのありのままであると思っています。

多くの皆さんに手にとっていただくには本書は定価5000円とかなり高価です。専門書などなら5000円は高くないという人もいますが、本代に1000円出すのも大変という人の方が圧倒的に多いはず。毎月ギリギリの収入で暮している人たちにも何とか本を手にとってもらう方法のひとつとして、一度に5000円は出せないけれども、毎月少しづつなら払えるという人たちにも手のとどく方法として分割払いを決断しました。

詳しくは下記をごらんください。
https://dararevo.wordpress.com/


前書きから(抜粋)
(注)以下の文章は本に収録した文章とは正確には一致しません。一部省略し、校正の時点での加筆は反映されていません。参考までにお読みください。

ネットの時代になって、紙の新聞のような読み方は廃れつつあるように思う。ネットで必要な情報を得るようになってから、私たちは、あらかじめ得たいと思う情報をキーワードで検索して、必要な情報を必要な限りにおいて得るという効率性の世界に慣れはじめている。カテゴリーへの拘束が著しく強められるような環境のなかに追い込まれてしまったともいえる。また、ブログやツイッターのように、タイムラインに沿って事柄が一つの時間軸のなかに配置されることも当たり前のようになってしまった。

本書は、そうした今ある情報環境を前提とした「知識」の構成を捨てて、もっとカオスに近いものへと押し返す目論見でもある。本当ならば、すべての文章を最初から最後まで、タイトルも小見出しも、いや、段落すらもない文章にしてしまいたかったし、読み始める入口も一つではないものにしたいくらいなのだが、それはあまりにも気を衒い過ぎたものにしかならないだろうから、とりあえず、個々の文章については、初出のスタイルを維持しつつも必要な加筆や修正はほどこした。

私は、大学の研究者、教育者として、あるいは社会運動の活動家として、たぶん、そのいずれにおいても極めて中途半端な存在であり続け、徹底した生き方ができないまま、必要に迫られて文章を書いてきた。こうして出来上がった文章の山は、その時間の経過からすれば、決して大きなものではないだけでなく、その山は、特定の分野についての深い洞察や徹底したこだわりがあるわけでもないし、該博な知識に裏付けられた百科全書のようなものでもない。外国語の能力を駆使してこの国に未だ紹介されていない海外の研究や思想を輸入するような能力にも長けているわけではない。いわば、計画性のない増改築を繰り返した挙句、ついに「完成」と呼ぶにはほどとおい芥屋敷の類いが本書である。だから、最近とみに多くなった大部の書籍とは外見が似ていても、その成り立ちと構成はほとんど似たところはないと思う。したがって、読者の皆さんとしては、どこから読んでいただいても構わない。

本書に収録した文章群はほぼ1980年代に本格的に文章を書き始めてから現在に至る四半世紀のテキストから、既に単行本としてまとめたものを除いたテキスト群から選別して編集したものである。その時々の状況のなかで書かれた時事的な内容もあれば、かなり理論的な内容のものもあり、また短文もあれば数十ページの長い文章もあり、それらがほぼアトランダムに収録されている。以下、若干の編集方針と注釈を述べて「前書き」にかえたいと思う。

テキストをどのように解釈するかは、読者の領分に属することだ。しかし、著者は勝手な解釈を歓迎するというよりも、いかにして著者の意図や趣旨を読者に「正確に」理解してもらうか、ということに執着して読者の解釈をコントロールしようとする。著者としての私もまた著者である限り、読者をコントロールしたいという欲求を持つが、他方で、読者としての私は、様々なテキストを「読む」場合には、いかにして著者の期待を裏切るような解釈ができるか、というややひねくれた意図をもって解釈の自由度を拡げたいという気持ちを抱くことも事実である。本書は、こうした著者と読者の間にあるテキストを、著者ではあっても、より自由な「読み」を読者の手に委ねようという意図をもって編集した。これは、読者に媚びたいのではなく、読者自身が意図していないテキスト相互の関係の網のなかに誘惑したいということである。

私が最初に出版した『支配の「経済学」』の読者は、二番目に出した『ネットワーク支配解体の戦略』にはかなり失望したように思う。最初の本を書いた後で、私は、より現在に近い現実の分析枠組を提示したいと思った。私は、「思想家」ではないし、最初の本も、現実の資本主義批判に必要な理論的な前提を、従来の私が縛られてきた前提を壊してスケッチしたいということだった。しかし、後者は、思想や理論ではなく現実の社会を対象にしたことによって、現実の世界への批判を知的な世界の批判によって代位する悪しき人文主義にとらわれた人たちには、つまらない本だったと思う。そして、『アシッドキャピタリズム』では、もはや『支配の「経済学」』の読者はほとんど見出せないように感じた。だから、この両方を読んでくださった数少い読者の方達には特に深い感謝の気持ちを感じている。

他方で『アシッドキャピタリズム』は、そのややキャッチーなタイトルの本だったために、文字通り「アシッド」な本だと誤解して買ってくれた若いアートや音楽が好きな読者にも受け入れられたことは嬉しいことだった。他方で、彼らの多くは、必ずしも私の『支配の「経済学」』の読者やその後に書いた社会批判に関わる本の読者になるということでもなかったようにも思う。その後私は、監視社会や情報資本主義の問題、グローバル資本主義と社会運動、天皇制と表現の自由の問題など、「雑多」な課題に首を突っ込み、何冊かの本を出してきた。それぞれの問題群ごとに、数少ない私の読者が別々のレイヤーを構成し、あまりその間を横断するような読者がいないように感じてきた。

たとえば、アントニオ・ネグリらがマルチュチュードという概念によって新たな変革の主体を再定義しようとしたとき、その前提となる世界にインターネットやサイバースペースがもららす可能性へのかなり楽観的な見通しがあったと私は感じた。私は、情報通信のガバナンスの問題(これが権力の問題であることは言うまでもない)を見ずに、ユーザーインターフェースのレイヤーだけでその「自由」を判断する皮相なネットアクティビズムにはどうしても同意できなかった。世界でたった一つしかない「インターネット」、殆どのパソコンのOSはマイクロソフトとアップルに独占されている情報環境のどこに「自由」の基盤があるというのだろうか?このような「自由」は幻影に違いないと疑うことはアクティビストにとっては難しいことではない筈だが、多国籍企業を批判してやまないアクティビストが、ウィンドウズPCやSNSに違和感や苦痛を感じているという場面に遭遇することは極めてマレだった。なぜこのような奇妙な日常が、「運動」の現場でも生じていしまうのかという疑問は、現代の社会が抱える問題を、既存のカテゴリーのレイヤーに沿って配置してしまった結果なのではないかと思うようになった。グローバルな反グローバリゼーション運動がインターネットを駆使して実現できたことは事実だとしても、そこにはかなり厄介な落とし穴があるということだ。こうした問題を情報資本主義と監視社会の問題として、マルクスの言う下向法の出発点に置いた私の問題意識は、監視社会に関心を持つ人たちにはある程度の関心をもってもらえたが、他方で、左翼人文主義の人たちにとっては関心の中心にはなってこなかったのではないかと思った。

右に述べたことはほんの一例であって、こうした既存のカテゴリーの溝によって生み出された超えがたい亀裂は随所にあり、支配の構造が巧妙に仕掛けたこの分断線を超えないところで、運動も批判的な知も自閉する状況が続いてきたように思う。私にできることは、私が書いてきたものをこのカテゴリーに従属させないということくらいなので、それをここで実行しようと思った。これが本書でカテゴリーによる編集を退けようと思った動機である。

私が独特な意味を込めて使用している概念については、もしかすると分りにくいかもしれない。ここで少しだけ注釈を加えておきたい。

たとえば、〈労働力〉というカッコ付きの労働力がよく登場する。幾つかの文章では簡単な注釈をつけておいたが、これは私にとってはかなり中心的な問題意識に関わる考え方に基づくので説明しておきたい。

〈労働力〉とは、変数としての労働能力を指している。実際に労働者が実行する労働の行為を支える労働能力ではない。可能態としての、あるいは潜勢力としての労働力といってもいいかもしれない。労働市場で売買されるのは、この意味での〈労働力〉である。本当は、このようなわずらわしいカッコを外したいのだが、マルクスを始めとして、一般に労働力として論じられている概念には、この可能態としての意味はほとんどない。労働市場で購入された労働力は、その能力を100%発揮するものだということを前提として理論が組み立てられている。しかし、私は、どのような強権的な資本の下にあっても、どれだけの労働を投下するかを最終的に決定するのは労働者の意思であり、労働する身体としての能力をどの程度発揮しようと思うのかは、労働者の意思に依存すると考えており、これが、労働と資本の重要な闘争の主題になってきたと考えている。この労働の発揮の水準は、賃金、労働時間、労働内容、労働組織の人間関係などでも決まるが、それだけではないし、これらの要因も単純ではない、勤勉と怠惰、従属と反抗、過剰な同調、自傷的な自己犠牲、これらの間で揺れながら、構造としての階級が一方で資本の搾取を、他方でこの搾取を阻害する労働者の個人的集団的あるいは文化的な態度の弁証法が成立する。言い換えれば、この労働をめぐる意思の問題を論じうる枠組を構築することなしに、資本主義批判を徹底させることはできない、ということでもある。

〈労働力〉と表記しているときには、この〈労働力〉の担い手がどのように自己の能力を労働として実現するかは不確定であるということを含意している。この不確定性が時には労使間の摩擦や対立をもたらすかもしれない。本書ではこうした〈労働力〉概念の再定義がもたらす全体としての資本主義批判については断片的にしか言及されていない。この問題については別途きちんと論じる機会を持ちたいと考えている。

もうひとつ、搾取という概念の再定義についてここで簡単に説明しておきたい。搾取は、資本主義批判の基本として、通俗的に用いられる場合もあればマルクス主義の理論的な枠組として厳密に論じられる場合もあるが、いずれの場合も、搾取が関係するのは労働者が資本のために必要労働を超えて労働する「剰余労働」であるという基本認識に基づいている。長時間労働や資本の飽くなき利潤追求が労働者の搾取を招くという場合、問題は、単に「剰余労働」に限定されるわけではない、というのが私の理解だ。搾取は、一般に、剰余労働の量的な概念に(経験的な世界でいえば賃金と利潤の量的な関係)関わるとされているために、行為の意味それ自体が資本によって剥奪されるという側面への関心は中心を占めなくなってしまった。

問題は、労働時間の長さだけでなく、そもそもの労働それ自体の意味にある。若いマルクスは、これを「疎外された労働」という感性的な概念で問題にしようとしたために、「物象化」された労働者の観念を問題にできなくなった。近代の人間が〈労働力〉を市場で売買するようになってから、労働と生活を繋ぐ内在的な意味の構造に深刻な亀裂が生まれた。この亀裂は、学校教育であれば、科目の配列相互の関係がどうあれ、最終的に学んだ内容が成績という「量」によって評価されて序列化されるところに表われている。こうした意味不明な教育のカリキュラムを不可解と感じることなく受け入れる心理が普通であり、これを理解できない子どもたちは問題のある子どもたちだとみなされる。同様に、労働の苦痛や意味を見い出せないことによって抱える悩みを直視しようとする人たちは、社会的な適応障害を抱えることになる。人間は象徴的な事柄の意味の関係性のなかで幻想的な首尾一貫性の観念を形成することによって、行為の意味を生成するが、ここには、論理を超越する日常生活それ自体の構造がある。

近代社会は、資本や国家という「大きな物語」の担い手がこの超越的な意味の織物を構成することによって、この社会に内在する剥奪された意味の世界にある種の「意味」を挿入する。私たちが、資本や国家が挿入するこの意味から離脱して、自立した意味の世界を生きようとすれば、それは、多分、この支配的な世界からすれば容認できないか理解しえない意味に捉えられた行為や主張だとしか思われない可能性がある。搾取とは、私たちが資本と国家から自立した意味を喪失せざるをえない意味の織物のなかに捉えられているという側面を含むものとして再定義が必要なのである。

この他、本書では、通説に反する考え方がいくつか登場する。たとえば、近代資本主義の家族制度を私は「一夫多妻制」として捉えているとか、階級という概念を人口構成など人の分類としてではなく、「構造」として捉えるといったことが前提として書かれた文章がある。一夫多妻制については本書に収録した二つの文章で、その内容についてやや詳細に論じたので、そちらを読んでいただいた方がいいだろう。また階級を「構造」概念として捉えるということについては、本書以外の私の著書で既に述べているので本書では、特にまとまった記述はないが、特にそのために理解が困難になることはないと思う。

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政府の監視に加担するソーシャルメディア

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米国の諜報機関、捜査当局のなりふり構わぬ監視活動が最近次々に明かになっている。ロイターは10月5日付の記事で「米ヤフー(YHOO.O)が昨年、米情報機関からの要請を受けてヤフーメールのユーザーのすべての受信メールをスキャンしていたことが、関係筋の話から明らかになった。」と報じた。対象になっているのは数億のメールアカウントで、メール本文も含まれるという。そして次のようにも報じている。

「情報機関はヤフーに対し特定の文字をサーチするよう要請していたが、どのような情報を求めていたのかは明らかになっていない。関係筋によると、メールもしくは添付ファイルに記載されたフレーズを求めていた可能性がある。」

スノーデンやウィキリークスによるNSAの内部文書暴露によって、上記のような網羅的な監視が行なわれているのでは、ということが指摘されてきた。そして、キーワードによって網羅的に収集したメールを取捨選択する仕組みもあるのでは、と言われてきたが、今回の報道は、こうしたこれまでも報じられてきた疑いを、内部関係者の証言だけだが裏付けるものになったといえる。

ヤフーは先頃、IT大手のヴェライゾンに買収されたばかりだが、ヴェライゾンはNSA協力企業として、極秘文書にもその名前があり、しかも、日本と米国を結ぶ通信回線の監視にも関与している疑いのある企業でもある。しかも、今回のヤフーによる諜報機関などへの協力が、企業トップのマリッサ・メイヤー最高経営責任者(CEO)の決定だちうから、企業ぐるみであり、かつ企業の経営方針でもあることがわかる。事実、これに反発して昨年6月に情報セキュリティ責任者アレックス・スタモスが辞任する。

さて、このような米国の監視が米国で起きているから国外のわたしたちは安心かといえば全くそんなことはない。報道にあったように、監視されているのは受信メールである。(インターネットの仕組みからみて送信メールを送信側のメールサーバで取得するのは受信メールを横取りするよりやっかいだと思う)だから、取得されるメールは、様々な国地域から様々なプロバイダーと契約しているユーザーであって、ヤフーのユーザに限定されない。しかも、日本のヤフーのアカウントを持っている場合は監視対象外になるかといえば、たぶんそうではない。メールサーバが米国内に設置されている可能性が高いからだ。数億というアカウントの数が報じられているが、この数は米国だけでなく全世界のヤフーのユーザの数ではないかと思われる。ヤフーは、「米国の法律を順守している」と声明しているというが、いったいどのような法律によればこうした網羅的にメールの内容まで監視・取得できるのだろうか。国家が法を越えた行為をすることが当たり前になっている米国では(ガンタナモしかり、ドローンによる越境爆撃しかり、NSAなどの諜報活動しかり)、法治国家の実体が事実上形骸化している。これは米国だけでなく世界的な傾向であり、こうした状況のなかで法律順守といった発言は、全く責任をともなうものとは言い難い。

もう一つの問題は、こうした米国ヤフーの行動について日本のヤフーはどのような対応をとるつもりなのかという点である。日本法人がこうした米国ヤフーの対応を黙認するのか、あるいは、もし、サーバが米国内にあって、日本のヤフーのユーザや、ヤフーのアカウントに送信した全てのメール送信者のプライバシーの権利が侵害されている可能性があるとすれば、その事実を公表しなければならないだろう。そして日本法人として、ユーザーのプライバシーを最優先に考えるのであれば、こうした網羅的な監視に協力しない技術的な(言葉ではなく)対応をとるべきだろう。

●IT企業の協力なんていらない?──FBIのハッキング捜査

すでに書いことだがここで繰り返しておきたい。電子フロンティア財団(EFF)が9月15日付でウエッブに「FBIによる前例のない違法なハッキング作戦」という記事を掲載した。この記事によると、2014年12月、外国捜査機関による児童ポルノサイト(ネット上の闇サイトでThe Playpenと呼ばれている)の情報提供をきっかけに、捜索令状を裁判所から得たFBIは、このサイトのサーバーをそのまま稼動させ監視を続けた。この間にFBIは、このポルノサイトにアクセスしたユーザーのコンピュータに侵入して個人情報を取得するウィルス(一般にマルウェアと呼ばれる)を仕込むハッキング捜査を実施した。裁判所の令状がハッキング捜査の令状ではなかったことで裁判で争点になっている。実は捜索令状でどこまで捜索が可能かは、サイバースペースでの捜索においては常に問題になる。リアルワールドであれば場所を特定することが令状主義のルールとされているが、サイバースペースの「場所」はバーチャルでありネットワークで接続されている全てをたった一通の令状で捜索することも可能だ、という拡大解釈をする動機が捜査機関側にはありうる。こうした権力の動機を規制する法制度も技術的な規制もほとんどない状態だ。

わたしたちがウエッブにアクセスした時の直感的な感覚としては、あたかもテレビを観ているかのような錯覚に陥いっているといえそうだ。しかし、最近のデジタル放送も同様だが、ウエッブの受信側と送信側の双方のコンピュータの間では、ユーザには実感できない様々なデータのやりとりが行なわれている。そのなかには、IPアドレスや自分のPCのOSの情報やブラウザの情報なども含まれ、このやりとりをするソフトウェアのセキュリティホールなどを利用してウィルスを仕込むことも可能になる。FBIはこの仕組みを利用してハッキングをしたわけだ。FBIはハッキングとは呼ばずに「Network Investigative Technique」、略称NITと呼んでいるらしいが、要は官製ハッキングであり、米国が蛇蝎のごとく嫌うロシアや中国などの政府によるハッキングと同類である。

このケースでわかるのは、サーバの管理者が捜査に協力しなくても、管理者に知られることなく捜査機関はサーバを利用するユーザの個人情報を取得できる技術をもっているということだ。Playpenのケースが児童ポルノであるために、捜査機関が用いた手法の問題性への関心が逸らされかねないのだが、ハッキング捜査はどのようなケースであっても可能な捜査技術だということである。今回たまたま児童ポルノサイトでのハッキング捜査が露呈したに過ぎず、他にも同様のケースがありうると考えるべき事案だろうと思う。とくに、サーバを民間のプロバイダなどに依存しないで自主運用していたり、捜査機関に安易に協力しないプロバイダーであったり、国外にサーバがあって容易にその管理者の協力を得られないといった場合に、こうしたハッキング捜査が行なわれる可能性が高い。日本は米国とは違うのでは、ということは成り立たないだろうと思うし、米国の捜査機関がやっていることは日本の捜査機関でも(少なくとも技術的には)やれるということでもある。

このハッキング捜査は、リアルワールドであればたぶん潜入捜査やおとり捜査に該当するものかもしれない。こうした潜入捜査が認められているのであれば、サイバースペースでの潜入捜査なども認められて当然という考え方が捜査当局にあってもおかしくない。こうした潜入捜査を規制する明確な法制度は、米国にも日本にもないように思う。ハッキング捜査は、盗聴捜査以上に密行性が高くなるだろう。こうした手法を支える技術は、どこの国でも、捜査機関だけでなく諜報機関など軍事組織でも使えるということでいえば、政府がいう「サイバー戦争」なるものの武器の一つでもある。警察も軍も銃を使うのと同様、どちらもコンピュータウィルスを使うということだ。

この事件の最大の教訓は、FBIには、サーバーの管理者やプロバイダーの協力なしに侵入し、ウィルスを仕掛ける技術があるというところにある。従来、ネット監視にどのようにIT企業などを協力させるか、あるいは現に協力しているのかが話題になることが多かったし、冒頭に述べたヤフーのケースもこの流れに該当するが、Playpenのケースは、捜査機関がネット事業者抜きでかなりのことまでやりおおせるということを示したものとして注目すべきことだ。捜査機関や諜報機関は、これまでも何とかしてこれら企業依存しない監視・情報収集体制を構築したがってきた。日本の改悪盗聴法でも、業者の立ち会いを排除し、更には業者の通信施設ではなく警察署などでも盗聴可能な態勢を構築する方向で法を緩めようとしてきたことに、権力が脱民間企業の方向をとろうとしていることが表われている。軍事組織になれば尚更だろう。

●フェイスブック:政府をビジネスパートナーにするソーシャルメディア資本

次はフェイスブックである。 フェィスブックによる検閲事件が相次いでいる。ベトナム戦争当時、ピューリッツァー賞を受賞した有名な写真に、米軍のナパーム弾から逃げる裸の少女の写真がある。この写真をノルウェー人作家のトム・エーゲランがフェイスブックに掲載したところ、フェイスブックはこれを児童ポルノだとして削除するという出来事が起きた(ハフィントンポスト9月10日)。この削除への批判が、ノルウェーはじめ国際的にも高まり、フェイスブックは削除措置を撤回したという。この事件を報じたハフィントンポストによると、写真の削除だけでなく、検閲を批判したエーゲランのフェイスブックのアカウントが一時停止されることまで起きた。「アフテンポステン」のイギル・ハンセン編集長はこの事件に対してフェイスブックのCEOマーク・ザッカーバーグに公開書翰を送り、その中で次のように述べた。

「マーク、子供たちが、たる爆弾や神経ガスなどの被害にあう今の戦争のことを考えてほしい」「お願いだから、偏狭な検閲方針を撤回してもらえないだろうか? 単に極めて少数の人たちが裸の子供を映した画像を見て不快感を感じる可能性があり得るとか、どこかの小児性愛者がその画像を児童ポルノと見なすかもしれないから、という理由をつけるのはやめてもらえないか?」

ハンセンは「マーク、あなたは世界で最も権力のある編集者なのだから」「権力を乱用していると思う。そして、あなたがよく考え抜いた結果こうなったとは、とても思えない」とも書いた。

この問題はハンセンが述べているように、マーク・ザッカーバーグのちょっとした権力濫用といったエピソードのたぐいなのかどうか。実は、フェイスブックには別の検閲事件も起きており、これらを総合すると、フェイスブックのそもそもの経営方針がネットの民権的自由(注)よりも後で述べるように、グローバルな資本の論理が作用しているなかで起きたことのように思われるのだ。

イスラエル政府は、ネット上で急速に影響力を拡げはじめたパレスチナ人たちによる国際的な反弾圧運動、BSD運動をターゲットに、その国際的な支援者たちを網羅的に監視するための法整備を実施し、こうした動きにフェィスブック側が協力していることが判明している。9月11日に、イスラエル政府の閣僚とフェイスブックのトップが会談し、協力協定を締結したことをフェイスブックは公式に発表した。具体的には、国外のBSD運動の支援者たちの監視にフェイスブックが協力するということになるという。BSDは、イスラエルをかつての南アのアパルトヘイト国家と同罪とみなして糾弾する国際的な非暴力運動だ。フェイスブックは、イスラエル政府のトップと会談し、イスラエル・オフィスは、ネタニエフ首相のドバイザーで元駐米スイラルエ大使館の主任スタッフを勤めたジョルダーナ・カトラーを雇用するという露骨な政権寄りのビジネスを展開している。イスラエルの公共安全・戦略問題・情報担当大臣のジラッド・エルダンは「フェイスブックは自身のプラットームを監視し、コンテンツを削除することに責任を自覚している。」と述べている。イスラエル政府はフェイスブックやソーシャルメディアを監視し、数千の投稿やアカウントなどの削除に成功し、イスラエル法務大臣によれば政府の要求の7割が実現できているとも報じられている。(Middle East Monitor 6月9日) また、その投稿内容を根拠に投稿者の逮捕者まで出ている。(Intercept  9月13日Guardian 9月12日

ソーシャルメディアが反政府運動や人権活動の手段として有効な時代は終ったのかもしれない。ソーシャルメディアもまた資本の論理でその経営を維持していることが忘れられがちで、なぜかソーシャルメディアは言論表現の自由の味方であるかの神話が確立されてしまったように思う。しかしネットビジネスは、ユーザーの権利よりも株式市場の株価の動向にずっと敏感だ。しかも株価は、ソーシャルメディアの顧客数や広告料などによる収益を基準に変動するのであって、人権や表現の自由度などは株価とは無関係だ。ヤフーが象徴しているように、競争他社に押されぎみの資本にとって政府は格好のビジネスパートナーとなる。かつての軍事産業が政府の予算を経営の基盤に据えたように、現代のIT産業の無視できない経営基盤に政府資金があることは間違いない。また、中国、インド、東南アジアのような巨大な人口をかかえた国はソーシャルメディアにとってはまたとないビジネスチャンスでもある。こうした国でのビジネスを円滑に進めるには政府とのパートナーシップが重要になるだろうし、そこでのビジネスの展開いかんによって株価に影響し、これが資本の業績を左右するという仕組みがある以上、各国の規制や政府の意向を受け入れることこそが利益最大化のポイントになるというのがソーシャルメディアを含むIT産業の基本的な姿勢だろう。民権的自由などというのは、こうした資本の論理からすると、それが圧倒的に多くのユーザーの関心にならない限り、後回しになることは必然ともいえる。

サイバースペースが欧米中心の言論表現の自由に大きな関心を寄せるユーザーが多くを占めた時代から、グーバルなネットユーザーの市場へと変貌するなかで、ユーザーの関心の軸が、民権的自由よりもショッピングやエンタテインメントに移行し、ヘイトスピーチや戦争の国策メディアへと変貌するなかで、各国政府の富国強兵政策の一環としてのIT産業へのテコ入れ、そして対テロ戦争の一環としての「サイバー戦争」の軍事産業としてのIT産業の変質という環境のなかで、もはやソーシャルメディア資本をかつての商業マスコミや国営放送と差別化して「自由」の守護神だと高を括る時代にはない。

私が危惧するのは、こうした深刻な状況にありながら、多くの活動家や運動は、やはりツイッター、フェイスブックなどの限られたソーシャルメディアに依存しているということだ。ソーシャルメディア業界がますます寡占化しているだけではない。PCのOSは、事実上マイクロソフトかアップルか、という二つの選択肢しかない。(私はLinuxユーザーだが、徐々に増えてはいても極端な少数派だ)インターネットに至ってはたったひとつしかないのだ!しかも資本と国家の論理から自由なメディアではない。資本も国家も大嫌いなアナキストですら、これらを大いに活用している奇妙な現実を奇妙でヤバいことだと真剣に青ざめなければならない。

19世紀に印刷技術が普及した時代には、執筆、印刷から配布までを国家や資本から自立したメディアとして構築することが可能だった。匿名の筆者、アクティビストの植字工、労働者が自主管理する印刷所、そして地下茎のような流通のネットワーク。これらが、どこの国でももうひとつの世界を構築できた。しかし、ネットにアクセスして情報を共有する仕組みのどこにアナログの世界が確立してきたもうひとつのメディアに匹敵する自由があるといえるのだろうか。インターネット草創期に「サイバースペース独立宣言」が出されたり、もうひとつのインターネットを!といった運動があったが、今やそうした運動が決定的に消滅してしまったかのようだ。ネットへの依存を絶たれる危険性のある時代にあって、サイバースペースをかつてのユートピアとして奪還することの必要性はますます高まっているが、同時に、現実の空間を越境できるメディアのアナロギズム(analog+ ism)の再構築も重要だと思う。難民たちが身体をもって越境し移動するように、現実の空間を移動できるメディアの回路の遺跡を発掘して再生する方途もまた模索すべき時代だろう。

(注)民権的自由:市民的自由と言われていることの言い換え。「市民」という概念に違和感がりながらこれまで使ってきたが、とりあえず民権と言い換えておく。しかし、これも「自由民権」という歴史的な概念を想起させるので、イマイチかもしれないが。

(参考サイト)

Amid Anti-BDS Pressure, Facebook Israel Appoints Long-Time Netanyahu Advisor To Policy Post

Amid Anti-BDS Pressure, Facebook Israel Appoints Long-Time Netanyahu Advisor To Policy Post

Facebook And Israel Officially Announce Collaboration To Censor Social Media Content

Facebook And Israel Officially Announce Collaboration To Censor Social Media Content

Islael Targeting Palestinian Posters on Facebook
Alex Kane:July 7 2016
https://theintercept.com/2016/07/07/israel-targeting-palestinian-protesters-on-facebook/

Under Israeli pressure, Facebook and Twitter delete large amounts of Palestinian content
https://www.middleeastmonitor.com/20160609-under-israeli-pressure-facebook-and-twitter-delete-large-amounts-of-palestinian-content/

監視社会

FBIはハッキング捜査の時代に——拡大する監視警察国家

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9月15日付けの米国電子フロンティア財団のウエッブに「FBIにょる前例のない違法なハッキング作戦」という記事が掲載された。

記事の表題でわかるように、FBIは、ネットにおける犯罪捜査のためにハッキングを大規模に、しかも違法にやっているというのだ。記事によると、2014年12月に外国の捜査機関から、児童ポルノサイト「Playpen」のサーバーの情報があったことがきっかけとなって、前例のない大規模なハッキング捜査を行なったというのだ。捜査の結果、数百件の刑事訴追があり、現在連邦裁判所で審理中とのことだからかなり大規模な事件だったことがわかる。EFFは、この事件でほとんど注目されていないが、実は重大な問題として、捜査当局による違法捜査の問題を指摘した。この違法捜査というのがハッキング捜査である。

ハッキングの手口は、捜査対象となるサイトについての捜索令状を裁判所から得たFBIは、サイトのサーバーを差押えるかわりに、サーバーをそのまま稼動させた(つまり泳がせた)。その期間2週間あり、この間にも多くの児童ポルノがダウンロードされたがそれは見て見ぬフリをして監視を続けた。しかし、ただ監視しているだけでなく、FBIは、このポルノサイトにアクセスしたユーザーにマルウェア(文末の注参照)を仕込んだ。

一般に、ウエッブでサイトにアクセスすると、ユーザーが画面で見ている環境の裏側で、先方のサイトのコンピュータと自分の端末との間で多くの通信が行なわれる。この通信を利用して、ユーザーの端末に忍びこみユーザーの情報を盗むプログラムをFBIは仕掛けたのだ。ブラウザのセキュリティの穴を巧妙に利用したものという。マルウェアは定義上「悪意あるソフトウェア」を意味するので、FBIは「Network Investigative Technique」(ネットワーク捜査技術)略してNITと呼んでいるという。呼び名は変えてもマルウェアであることは変りないように思われがちだが、たぶん、公権力が私たちのパソコンに侵入するためのソフトは、実体は同じでも、こうした名称で正当化されるようになるに違いない。

NITのハッキングプログラムは、ユーザーの個人情報をコピーしてバージニア州のアレクサンドリアにあるFBIにこの個人情報を送るように仕組まれているという。たった1通の裁判所の令状で、サーバーにアクセスしマルウェアを仕込み、ネットワークの先にある令状では捜索の対象にはなっていないコンピュータに捜査員自身が入り込むのではなくて、マルウェアという悪意のウィルスを感染させる。これでは、1通の令状でンターネット上の数十億のコンピュータの情報に自由にアクセスできてしまうことになりかねない。令状主義は有名無実ということになる。結局、数百人が逮捕されたわけだが、弁護側はこうしたFBIの捜査手法の違法性を問題にしているという。

この記事によれば、米国では、捜査機関によるハッキングについての法がほとんど整備されていないという。言い換えれば、捜査機関の裁量でハッキングも許容されるということだろう。おとり捜査や潜入捜査などが許されるのであれば、ハッキングもまた許される捜査手法だということになりかねないというところが、EFFが危惧することだ。

言うまでもなく、この問題は、通信ネットワークに関していえば、盗聴法の問題の延長線上に位置づく問題だが、上で述べたように、それ以外の様々な捜査手法とも関連する。今回発覚した事案が、児童ポルノだったことは問題の本質ではない。どのような問題であっても同様の捜査手法が使えてしまうというところが問題なのである。盗聴捜査の議論でも、凶悪な犯罪とか社会の大半の人びとにとっては反道徳的であったり人権侵害が著しい事件については捜査機関の逸脱が許容されやすく、こうした傾向を捜査機関が利用して権限の拡大を実現しようとする。盗聴法改悪の国会論議でもこうした本質ではない問題の土俵にひきずりこまれて、結局は法の改悪を許してしまった。

いかなる捜査の技術や手法も、政治活動やマイノリティの市民的な自由を監視する手段として使うということは可能なことである。ほとんど全ての反政府運動(日本の市民運動にこういう名称を使うのは新鮮な感じがするのはなぜか?)は、刑事犯罪として立件されて政治犯としては扱われないからなおさらだ。捜査機関がいったん合法的に獲得した技術に、通信事業者やIT産業が協力するビジネスのメカニズムが恒常的に制度化されてしまえば、この技術をどのように用いるかは、法の問題領域から容易に逸脱可能になる。(法律で法定速度に制限があっても、実際の自動車の性能がこれを大幅に越えられる技術を持てば、法定速度を越えて走る自動車が 後を絶たなくなるのと同じだ)「逸脱」か「適法」を判断するのが裁判所だとしても、裁判所が警察の「逸脱」を「適法」としてお墨付きを与える可能性は、かなり高いのがこの国の腐敗した権力の現実だろう。これが法執行機関と技術の間にある重大な問題だということを、法の側は、立法府であれ法曹関係者であれ十分に考慮できているとは思えない。法は「条文」の問題ではなく、法を執行する現実の組織の行動の問題として捉えるべきのだと思う。今回のFBIの場合のように、マルウェアを仕込むということを捜査機関がやれてしまうと(将来は日本もそうなりかねない)、私たちのパソコンや携帯は丸裸同然だということである。スノーデンの警告に繋る問題がここにもあるということだ。

日本では、取調べの可視化という聞こえはいいがその実ほとんど可視化の実質などはないに等しい司法改革なるものを、警察は大袈裟に捜査機関の取調べに支障をきたすかのように主張して、捜査手法の多様化や令状主義の更なる形骸化(今でも形骸化しているが)や、捜査における裁量権の拡大にかなり熱心だ。テロ対策や2020年のオリンピックは警察にとってはまたとないビジネスチャンスと考えられている。しかも、昨年の戦争法成立によって、今後は関連する国内法の整備、要するに、戦時体制にみあう治安関連法の整備も射程にはいる可能性がある。誰がテロリストなのか、何をテロと呼ぶのかの定義はないから、私たちの誰もがテロリストとみなされる可能性がある。反政府運動の活動家たちだけでなく、多くの外国籍の人たちから人権団体の活動家まで、幅広く監視の対象になるのは、対テロ戦争で米国やその同盟国諸国やってきたことを見れば言うまでもないことだろう。こうした時代にあって、マルウェアが捜査機関によって野放しで利用可能な環境は非常に危惧すべきことだ。こうした動向のいずれもが、市民的自由やプライバシーの権利などというものは可能なかぎり抑えこむ方向で、つまり国家安全保障にとっての障害物として抑圧する方向で、世論の合意をとろうとするだろう。あるいは、警察に権力製マルウェアを売り込むITセキュリティ企業があってもおかしくなく、こうした傾向は、そのまま、いわゆる「サイバー戦争」という刑事司法や法執行機関の領分から軍事安全保障の領分へとスライドすることにもなる。警察の軍事化、軍隊の警察化、そしていIT産業の軍事産業化、監視産業化への警鐘が鳴らされて久しいが、この傾向を転換させるには、とくにこの国で脆弱な、ナショナリズムに足をすくわれず、資本と国益がリンクする構造とも対決できる市民的自由の権利運動が必要だと思う。

(注)マルウェアとは「マルウェアとは、「Malicious」(悪意のある) 「Software」を略したもので、さまざまな手法を用いて利用者のコンピュータに感染し、スパムの配信や情報窃取等の遠隔操作を自動的に実行するソフトウェア(コード)の総称です。」http://www.active.go.jp/faq/

書評、映画評、音楽評など

平井玄「真に畏怖すべきもの」をめぐって

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『季刊ピープルズ・プラン』73号(2016年8月10日)に掲載された平井の文章は、戦争法反対運動として高揚した国会前行動の「主役」を担ったSEALDsや総がかり行動などに対する苛立ちと怒りに近い思いに溢れたもので、近年めっきりお目にかかることが少なくなった熱い文章だ。

なによりも重要なことは、このエッセイが書かれたということだ。このエッセイは『季刊ピープルズ・プラン』の特集「対抗線をリセットする」に掲載されたのだが、実は、特集の枠外の位置けだ。ところが、枠外であるんもあかかわらず、リセットのために悪戦苦闘した文章は平井のものが唯一だといっていい。この奇妙な位置づけが逆にこのエッセイの性格を象徴している。

平井に会ったときに是非感想を聞かせてほしいと言われながら、すぐに私なりの意見を述べることもできずに今に至った。実は、私は彼ほどに熱心にあの国会行動に足を運んだわけではなく、むしろあの国会前の雰囲気と自分の居場所のなさとの落差、あるいは多くの人びとが運動に共感して同調する姿を見ながら自分の中にある違和感をいかんともしがたく、結局、出足の落ちるだろうから、雨が降ればとりあえず行こうと決めるのがやっとで、しかも行ったとしても1時間もいればいい方で、その場を離れたい気持ちに抗することができない自分がいた。本来であれば、こうした自分の違和感を表明することが物書きとしての重要な役目かもしれない。しかし、その意欲すら沸かなかった。政治状況からすれば戦争法はとんでもない悪法であるから、最も大きな運動のうねりに何はともあれ参加することの意義はあったに違いない。しかし、国会前に行くたびに感情が萎える自分と向きあわなければならなかった。私は「なぜそんなに民主主義に信頼を寄せることができるんだろうか?民主主義が戦争に正当性を与えているのではないか?欧米の民主主義国家が同時に戦争の主要な当事国だということをどう思ってるんだろうか?」(独裁も民主主義も私たちの選択すべき統治のシステムではないと思うからだ)であり、機動隊と警察車両に包囲されて威圧的な権力の干渉のなかの自由(動物園の檻のなかで育った動物たちが感じる「自分たちは自由だ」という感覚か)でしかない場所の窮屈さに耐えられなかった。しかしスピーカーからは「これが民主主義だ!」というシュプレヒコールが日本語とこともあろうに英語!で連呼される。「何故英語か!アジアの言語はどこにいった?運動までが英語帝国主義なのか?」と思うのだが、そんなへそ曲がりは通用しないだろうことも承知している。

平井の苛立ちは、私の違和感とどこかで共振するものをもっているだろうが、彼が運動に感じた疑問や問題と私のそれとが同じだというわけでもない、というのが彼の文章を読んでの率直な感想ではある。

共振するところ、それは、平井の文章の冒頭に書かれていることがそのまま私の感じたことと重なる。

「肝心なことはほとんど何も語られていないのである。選挙だけではない。これから幾度もこの疑念は回帰してくるだろう。少なからぬ人びとの中で、この一年間そういう思いがますます膨らんできたに違いないのである。

不信を抱いたのは、街頭行動のあり方や、呼びかけた側の警備当局に対する姿勢だけではない。場所を確保した「総がかり行動」やSEALDsが掲げた抗議の内容は「1960年以来の反安保闘争の再来」という運動側やマスコミが作り付けたイメージに明らかに反していた。その主張は、日米安保条約それ自体を問わず、武器を構えた自衛隊をそのまま抱き取り、「戦後」という時代に丸ごと迎合する惨憺たるものだった。それが「戦略」だと言おうと、大衆意識の表層にすり寄ろうとする疚しさが診てとれるのである。」

ここで平井が言っていることの大筋に私も同意できる。「戦後」への迎合として平井が語っているのは、まさにその通りだ。この間の運動が戦後民主主義を裏切ってきた自民党政権に対して、戦後民主主義のあるべき姿を国会前の行動が体現しているという主張を対置することで、自らの運動の立脚点を構築しようとしてきたと私も感じてきた。これではつまらない、退屈だとも思った。運動のなかに発見がないのだ。言葉であれ行動であれ、はっとさせられる瞬間が運動の可能性の条件だからだ。

60年の反安保闘争がラディカルであったのは、それが戦後保守政治だけでなく、この保守政治を補完してきた野党=革新に対しても異議を提起する「新左翼」(この時代まだ世界のどこにも既成の左翼から自立した左翼運動が大衆性を獲得したことはなかった)というパラダイムの転換を伴ったからだ。そしてのこパラダイムの転換は、60年代後半以降(日韓条約反対闘争以降といってもいいだろう)、再度のパラダイムの転換が起きる。この時代は、同時に、戦後民主主義に対する根底的な懐疑と訣別の闘いでもあった。運動が内包するスタイルと思想(いやむしろ情念を含む広範な世界の見え方とでもいうべきもの)の問題の両者がこれまでにない有様を示しながら、相互にぶつかりあい、現実の運動の力学を構成するものだった。大衆文化はことごとく運動の文脈のなかに転用され、やくざ映画、マンガ、そして平岡正明のようなジャズと犯罪を革命に翻訳する異例な批評家たち、これらが、やがてこの国の周縁に位置してきた存在を中心に据える世界観を模索するようになる。琉球、アイヌ、在日中国・朝鮮人、身体障碍者、精神障碍者、精神病者、寄せ場の労働者といった、これまでの主流の運動では不可視な存在とされた人びとが運動にとって重要な主体となり、こうした運動が、中産階級出身の学生たちを、政治的に下層へと引き込んだり、ライフスタイルの転換を迫った。これは、学生運動などの運動の担い手が、これまでの運動の世界理解(その核となってきたのがマルクス主義の階級社会論)の枠組が規定してきた視野に収まらない領域にあった運動を見出すことを通じて、運動の伝統を切断する力を獲得したということでもある。この時代に戦後民主主義は否定の対象でしかないというのが私が感じ、経験してきたことでもある。戦前でもなく戦後でもない第三の選択肢は必須だが、それが何なのかが見えないまま試行錯誤が繰り返され、未消化な言葉が氾濫した。平井が「自分の言葉」として述べたことは彼の経験としてそうだったのだと思う。

この意味で、私は運動の世代的継承を信じていない。むしろこれまでの運動が理解しえない不可解さこそが新しい運動の可能性を支えるものだと思う。既視感や長い活動家の経験を持つ者たちの流儀に抗うことこそが必要なことだと思う。多分平井は、こうした運動の切断による想像/創造力の獲得を否定しないだろうが、他方で、平井は、こうした切断の問い以前にある60年代後半の運動そのものが半ば意図的に、しかもこの60年代後半という時代を経験したはずの世代自身によって記憶から消し去られていることに、最も大きな憤りを感じているのではないか。この世代がほぼ総体として、運動の敗北の後に、70年代、80年代を経て、社会の支配層へと転向するなかで、新自由主義と21世紀の対テロ戦争に加担する主体となってきた。この世代の最後に位置する私がこうした転向と無縁だとは言えないが、この壮大な裏切りがどうして起きてきたのかは、真剣に検討すべき課題だろう。他方で、かろうじて運動に関ってきた人たちは、おせっかいな教育パパ、ママよろしく聞き分けのいい若い世代に同伴する。この気持ちの悪い擬似的親子関係を断つ可能性は若い世代のなかにしかない。それは、そもそも国会前などには顔を出さないが、しかし、支配的な秩序も文化も受け入れることが生理的にできないような人たちのなかにこそあるのではないか。

平井は「学生たちがファッションや音楽と共にある姿に驚く国会前の老人たちは、いったい1968年をどうやって生きたのか」と問う。この問いは、SEALDsらに同伴した68年を経験した大学教員や、それよりも若い世代の大学教員たちにも向けられたものだが、その一方で、国会前の「民主主義ってなんだ?これだ!」というコーラーの舌触りのよさを広告的政治、あるいは「広告の暴風」として手厳しく批判する。平井のこの苛立ちは、他方で、平井にとっての可能性あるいは運動の潜勢力を担う「大学教員」とか若い世代が全く不在だということではないだろうと思う。彼の文脈のなかで肯定されるものと否定されるものとの境界線がある。ここで抵抗線をリセットしようというわけだ。このことに言及されるのは、このエッセイの後半の「何が抹消されたのか?」以降においてである。ここで、国会前の運動が一切言及してこなかった運動として被ばく労働問題に特に注目する。この注目は、非正規労働者の運動への注目としてより一般的に論じうる視線だろう。ここで、国会前の運動に深くコミットしたとされている小熊英二を槍玉に挙げて次のように批判している。

「(小熊は)反原発運動を論じて被ばく労働者たちにいっさい触れない。物質的労働に従事する者とは違う認知的な仕事に関わる非正規労働者たちが登場した意義を大いに語って、しかしより下層のまったく「非認知的」な単純作業に従う者たちに眼を向けないのである。デモに参加する認知的プレカリアートを「アートないし知的な職業についている場合が多い」とする。だが、非認知的プレカリアートはその下請のまた下請で無意味な打ち込み作業に従うオペレーターか、メンテナンスや清掃などさまざまな補助的労働の徒労に長時間身を焦がすしかないのである。非正規労働者の中でも彼らこそがもっとも分厚い層を成しているはずだ。小熊は曖昧な記述ながら、その後に現われたSEALDsの学生たちに低賃金労働の世界に放り出される危険を診ているが、ならばなぜ、今ここにいるアンダークラスたちに一瞥もしないのか?」

平井は、2013年官邸前行動で被ばく労働問題を語ることが阻止されたり、抗議やデモで逮捕された者たちを救援するどころが誹謗中傷するような「主流派」の運動を手厳しく批判する。「少数の人びとがおそらく意識することなく掲げた旗幟こそ第一に排除されたのである」という。全体として議会政治の枠組に収斂させることのできない運動が排除された、ということだ。それは、逆に運動のナショナリズムこそが「主流派」の基本的なイデオロギーとなってしまっているのではないか、という鋭い直観でもある。この直観は多分正しいだろう。これは戦争の時代にあっては極めて深刻な問題だということでもある。

平井はこの事情を旧約聖書にあるアブラハムとイサクの物語に託して、「アブラハムにして、イサクであること」と述べた。自らの子、イサクを殺すことをエホバに指示される象徴的な話しだが、これは神への信仰の篤さが試された物語とされている。平井が言外に示唆しようとした現代のエホバが何(誰)かを明示していないが、それは共産党かもしれないし、68年世代の同伴者たちかもしれない。ということは、平井はこの物語の外に出る必要性を暗示しているといえるわけで、そうだとすれば、アブラハムはイサクを殺すべきであったのか。いやむしろ、アブラハムと召使との間に生まれたイシマエルにこそ、その可能性があるということだろう。神の意思を裏切ることだ。これは、対テロ戦争の現代において、なかなか含蓄のあることでもある。

運動の想像/創造力は、まさに運動の伝統と流儀の創造的破壊のなかにしかない。そして、このような作業をなしうるのは、これまでの運動を全く新しい視点で総括できる者達の手に委ねられることになるだろう。(中途半端な活動家でしかない若くない私には不可能なことだ)否定の対象になるのは、既成のあらゆる政治=社会運動であり、とりわけ平井が指摘する議会制民主主義、あるいは戦後民主主義であるだろうし、同時に60年代後半の運動が窒息しつつその中から生み出されたその後の支配層(転向活動家の層)のライフスタイルや価値観であるだろうが、それだけではない。たぶん、東京をはじめとした大都市そのものの存在をどのように新たな否定の対象に据えられるか、だろう。東京は、大卒が人口の過半数を占めるという。その結果、学歴のない層は、それ自体がマイノリティとなる。しかも、メディアは高学歴非正規雇用の悲劇を論じても、中卒や高校中退の若者たちの貧困は話題にすらならない。そもそもメディアの記者たちにはこうした下層が見えていないのだ。進学率の高い高校から大学へと進むこの国の教育は、すでに10代前半で、差別と選別のシステムを通じて、中間層や支配層の認識から下層は排除されている。その象徴が東京だと思う。その東京の中枢に毒の棘のようにして生息してきた平井には、この支配的な眼差しがあえて隠蔽しようとしてきた闇を視る力があると思っている。これは私には完全に欠けている資質でもある。近代資本主義日本の搾取の上に成り立ってきた東京を廃墟にできる想像/創造力が欲しいと思う。たぶん、この意味で、私たちがほぼその情報を得ることのできていない「場所」に可能性がある。

私は今のままの「田舎」であるなら住みたいとは思わないが、都市で安住できるとも感じない。シチュアシオニストや有象無象のサブカルチャーは魅力的ではある。しかし、それらが都市という概念を引きずる以上は、その限界もはっきりしている。毛沢東主義者のような農村革命や、ノマドのユートピアはこれまで見事に都市と近代化の流れに抗することができずに、むしろ自由を裏切る革命になる危険性を孕んだ。これまでの選択肢はいずれも選択に値いしないということだ。しかし、このことがわかっただけでも、可能性への道はわずかとはいえ開かれたということかもしれない。

平井のエッセイは、この可能性をどう論ずるのか、という点については未知数のままになっている。この点は今後に期待する。

オリンピック

資本主義的身体からの訣別のために—近代スポーツと身体搾取

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 (8月26日に仮サイトに投稿したものです)

オリンピック否定論の根底に置くべき視点は、そもそも近代社会が「スポーツ」というカテゴリーによって構築した人間の身体のありようそのものが、資 本主義における身体搾取の現われであるというところに定められるべきだ、ということだ。資本主義的な搾取が否定されなければならないという問題の一つの系 論として、スポーツに表出される身体のありようへの批判が位置付けられるべきなのである。これは容易に理解されないことかもしれないが、私たちが、スポー ツというスペクタクルによって動員される自己の同調感情やある種の高揚した感情の根底にあるのは、近代社会が人びとの身体の根源に埋め込んだ身体の理想と 深く関ることであり、この理想の罠といかに闘うかが課題だといっていい。

近代社会においてスポーツは「娯楽」というカテゴリーのなかで、圧倒的な大多数を「観衆」の位置に置きながら、ごく一部の者たちがこの「観衆」の前 で演じる身体表現として成り立つものだ。これは、音楽が、演奏者と聴衆に、美術が美術家と鑑賞者に、文学や哲学などの学問が学者や作家と読者に分けられる ことによって成り立つ文化生産と消費の構造と同一のものといっていい。あるいは、近代西洋医学が、人びとの身体についての知識を奪い医者という特権的な専 門家を生み出したように、自己の身体性は、自己の統治の下にあるのではなく、これを様々な専門家に委ねることによって、生を支える根源的な力を奪われ、あ るいはこうした専門家に委ねることで支配と従属の関係に自ら身を委ねる。この構造そのものを土台として成り立つ身体性(肉体としての身体であれ、言語能力 であれ、非言語的な表現であれ)が同時に、資本主義社会が不可欠とする身体の見取り図あるいは規範的かつ理想的なモデルの提示でもあるということ、このこ とを踏まえるならば、こうした文化的な身体が生産する行為や「作品」がいかに感動的なものであったとしても、その感動を生起するわたしの感性そのものを疑 うことなくして、資本主義を深い懐疑の闇のなかに投げ入れることなどできようはずがない。

最大の困難は、こうした文化が生み出す感動や共感といった実感としては否定しようのない肯定的な感情を突き放し、ここに懐疑の楔を打ち込むという苦 痛な作業をあえて行わなければならないというところにある。感動を疑うこと、感動する自己の感情や心理がどのような社会的な条件に規定されて生成されるの かを冷静に突き止めることが必要なのだ。

近代スポーツ(近代以前には「スポーツ」と呼びうる身体の使用があったとは思えないが)の特徴は、身体をスピードと正確性によって評価する構造を基 本に据えているという点にある。これは、近代社会の労働する身体がスピードと正確性という価値判断によって構築されていることと無関係ではない。

より速く、より正確に、決められた時間内で結果を出すという枠組のなかで身体をめぐる競争(闘争)が組織されるのがスポーツの基本的な枠組である。 この枠組は、工業化社会を前提として成立した「資本」の行動原理が個々の人間の行動規範として内面化され、ある種の倫理となる。速度=効率性は資本の投資 —利潤の回転の基礎条件であり、正確性は機械化された職場で人間が機械の正確性に適応することを必須の身体的な条件とされ、市場を予測し売上げを確定させ ることが資本にとってのリスクとロスを最小化する手段となる。こうして古典的な文化や芸術の世界では、即興や一回性の表現は排除され、聴衆の前で、一定の ルールを前提とした繰返しを前提とした差異や特異性が争われるようになる。

近代化のなかで近代以前からある身体競技はその社会的な文脈も意味も変容し、そのスタイルを「伝統」として意味づけることによって、資本主義に固有 な身体の規範や文化的な価値があたかも普遍的なものであるかのように装われることになる。オリンピックが古代ギリシアにその起源をもつという神話はその典 型だろう。しかし、現代においては、むしろオリンピックが古代ギリシアにしかその起源を持つことができていないということが逆にオリンピックの世界性に疑 問を付すことになっている。非西欧世界の多様な文化が、ギリシアに起源をもつ身体の普遍的な「力」の誇示を競うゲームと接触する事態と、非西欧世界が近代 化=工業化の過程へと統合される事態との間にある相似形には根拠があるのだ。日本が1964年の東京オリンピックに過剰な意味を与えたように、北京オリン ピックもまた中国の資本主義化を象徴したものであったし、そしてまた今年のブラジル、リオのオリンピックもまたBRICSの一角を占めてラテンアメリカの 新興国としての国威発揚を担うものとして企図された。オリンピックはこの意味で、西洋中心主義の身体をめぐる価値を国民国家として総括するという近代世界 が前提としてきた世界システムの枠組の一翼を担っている。しかし、西洋の価値観が世界を支配することを正当化する露骨な西洋中心主義であることに皆が気づ かざるをえないのが現代という時代ではないか。イスラーム復興運動は、こうした西洋が僭称する普遍的な文化的価値に対してみずからのアイデンティティを対 置する。こうした事態が今日ほど広汎に、しかも政治的な摩擦や緊張を伴って登場した時代はない。たぶん、多文化主義というポストモダンな多様性の統合様式 の副作用として、世界中にある様々な「伝統的社会」のなかのある部分がイスラームほどには大きな影響力をもたないとはいえ、西洋中心主義のいかがわしさに 背を向けはじめると一方で、逆に自らのアイデンティティを放棄してでも西洋的な価値に統合されることを選択するポストモンダンな近代主義の部分も登場し、 その双方の摩擦がますますのっぴきならない状態へと陥るのがこの時代の危機の特徴になるのではないか。

オリンピックが可視化したいくつもの分断線がこの危機を端的に示している。健常者のスポーツと障害者のスポーツ、男性と女性、国家に帰属しえない人 びとの排除と「難民」チームによる包摂、そしてお定まりのサクセスストーリーがもたらす競技の勝敗の物語に暗示される社会的「敗者」への差別。スポーツが 持ち込む価値判断の基準は、健常者と障害者というカテゴリーを越える人間としての生をそれ自体として肯定することはできず、障害者は健常者と対等に競争で きないことを前提として二重基準を当然のようにして持ち出す。スポーツの速さや正確さという価値規範(労働の価値規範でもあるが)そのものが差別を構造化 しているということを疑うことができない。。同様のことは男性と女性についても言える。いずれの場合も、そのどちらともえいない境界の上に立つ多くの者達 がいるのだが、このボーダーの存在を強引にあちらとこちらに引き裂く。高齢者や子どもはもちろんこうしたスポーツの行為者の側には立ちえないものとして排 除される。スピードと正確性を基準とするスポーツは、こうして多くの差別と分断を内包させながら、排除された者達を「観衆」として位置付けて感情的な同一 化を生み出す仕掛けをもっている。この仕掛けの中心をなすのが、ナショナリズムだということになる。ナショナリズムの幻想がどのようにして近代社会で再生 産されるのかは別に議論すべきことだ。

スピードの優劣を百分の一秒のレベル争ったり、行為の優劣をポイント化して数量によって序列をつけるというスポーツの評価体系は、資本主義がもたら した数値化による競争と評価をそのまま持ち込んだものだ。これは、学校の成績から会社による査定まで、生活全般を覆う。数値化(成績であれ給料であれ) は、行為そのものの意味を問うことなく、意味を数値に還元することによって、行為の無意味さを隠蔽する。100メートルをいかに速く走るかにいったいどの ような意味があるのかとか、酷暑のなかを猛烈なスピードで40キロ以上も走りつづけることで何が得られうのか、といった行為の意味を問うことは、スポーツ においてはタブーに近い。しかし、意味の欠如は歴然としているのだが、だからこそ、一方で、薬物の使用による身体改造が常態化し、多方で、無意味なことに 文字通り命を賭ける人びとへに感動をもたらすという、よくよく考えてみればダークな世界がここにはある。ワーカホリックとなってドラッグや酒に依存しなが ら働き続け、あげくの果てに心身を病み、命を絶つことすらありうる労働世界の残酷さとスポーツの世界のそれとはやはり相似形だといわざるをえない。スポー ツの無意味さに多くの人びとが気づかないことと、多くに人びとが教育の成果をを成績(点数)で評価したり、労働の評価を報酬の多寡で評価することに疑問を 感じない日常感覚と密接に結びついている。この無意味さにもかかわらず、多くの人びとはこれらの行為に感情を動員し感動したりマゾヒスティックな快楽を感 じたりする。資本主義がどのようにしてこのような特異なアーソナリティを形成したのかを解明することは、資本主義と訣別するための重要な課題だ。

自然に依存する社会では、自然のリズムを変えることはできず、自然を完璧に予測して制御することもできなかった。こうしたアルカイックな社会に秒単 位の正確性とか、飽くなきスピードアップとかを競うような「競技」への関心は持ちえなかった。もちろんこうした社会には、この社会が与える固有の行為の 「意味」の体系があり、この「意味」の体系もまた、実は意味の喪失の表現でしかない、といことではあるのだ。「機械」の出現は、この前提を崩し、人間の理 想モデルは機械のようであることになった。つまり、より速く、より正確に、そして、反抗することなく指示に従うこと。近代のスポーツはこのような機械の時 代の人間を典型的に表象する仕掛けとなった。この近代的な身体をめぐる意味の喪失を過去や非近代的な社会によって回復しようとする試みに私は魅力を感じな い。意味と意味の喪失は表裏一体であって、この罠から抜け出るには、「意味」という問題の立て方それ自体を問題にいなければならない。つまり、言語や身体 の表現や、人と人、人と自然の関係そのものである。こうしたやっかいなテーマがオリンピックに象徴されるスポーツの問題の根源にあるということ、オリン ピックだけでなくスポーツを含む文化的な身体表現の社会的な構成そのものが資本主義の身体搾取を支えているということ、このことだけをここでは指摘するの が精一杯のところだ。

【参考文献】(思いつくままに)

渡辺裕 『聴衆の誕生』、春秋社。
アラン・コルバン『身体はどう変ってきたか——16世紀から現代まで』、小倉孝誠他訳、藤原書店。
小倉利丸『支配の「経済学」』、れんが書房新社。
小倉利丸『搾取される身体性』、青弓社。
ワロン『ワロン/身体・自我・社会』、浜田寿美男訳編、ミネルヴァ書房。
イヴァン・イリイチ『脱病院化の社会』、金子嗣郎訳、晶文社。
小笠原博毅・山本敦久編『反東京オリンピック』、航思社。