政権の危機と運動の危機

私は政権交代にほとんど重要な意義を見出していない。なぜなら、政治権力の本質は、人格に依存するのではなく構造的な問題であり、人はこの構造の人格的な担い手に過ぎないからだ。とはいえ、政権を担う人間の人となりを人々はある種の感覚で捉えて判断することも現実的な政権支持の背景にあることも確かで、NHKの世論調査も毎回政権支持の理由で「他の内閣よりよさそうだから」といった極めて主観的な判断項目を入れている。こうした質問項目がメディアを通じて流されることによって、政治権力の本質を権力者のキャラクターに還元してしまうような政治や権力の理解が、社会を歴史的な構造物とみる見方を退けてしまっていると思う。とくにそう思うのは、トランプの奇矯なパフォーマンスとその陰謀論に基く世界観を彼ひとりの個性とみたのでは現在の米国の極右の感性を支える膨大な大衆感情を軽視してしまうし、トランプに投票した7000万以上の人間がみな陰謀論の信奉者とは思わないが、福音派からQアノンまで広範にわたる社会的平等を理念としても否定する大衆を生み出したのは、大衆ひとりひとりの個人的経験によってではなく、むしろ社会の制度がこうした人々の価値観や世界観を形成してきたことに目を向けなければならないと思う。

日本も米国と五十歩百歩であって、天皇をめぐって新旧メディアから人々の日常生活までを構成している世界感覚は、世界で最も成功した陰謀論のひとつといっても過言ではない。

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発足間もない菅政権だが、戦後保守=右翼政権の性格と近代日本=資本主義が構造的にもつ本質的な問題が、既にいくつか露呈している。COVID-19対応では相変わらず経済ナショナリズムのために人々の生存を犠牲にする政策がとられており、感染爆発から命の選別へと向うことは必至だ。人的資源=<労働力>として、費用対効果でいえば若年層の救命の方が資本にとっても政府にとっても利益になるから高齢者はまともな医療サービスを受けられずに犠牲になっていくだろう。この冷酷なシステムの構造的な要請を政治がどのようなレトリックで誤魔化すか、これが菅政権に課されたある種の宿題だ。

菅政権発足直後にまずぶち上げたのが「デジタル庁」の設置だった。デジタル庁は、安倍がビッグデータ、AI、そして5Gネットワークを踏まえて凡庸な文明史観をもとにでっちあげたSociety5.0を継承したものといえる。デジタル庁の設置は、省庁横断とマイナンバーの普及がセットになっているように、次世代監視テクノロジーの政府組織への導入であって、これが私たちの市民的自由に及ぼす影響は深刻だ。

デジタル庁問題が深刻なのは、民主主義の基本をなす立法と司法がほぼ完全に解体する、ということだ。法のかわりにコンピュータによるコードの支配が進み、法は形骸化する。なぜならコンピュータに法を遵守する意志はなく、コンピュータのプログラムの適法性は、技術的な難解で国会でも司法でも判断できず、私たち一般の人間も理解できないからだ。政府だけが、民間IT企業と組んで統治の意図をコンピュータのコードに組み込むことができる。AIとビッグデータによる将来予測に政策が依存するようになり、国会での討議や司法による裁判という時間がかかるプロセスよくて現実の後追いがせいぜいのところとなる。機械は過去から社会の常識や規範を「学習」するために、差別、偏見やナショナリズムの偏りを学び、反政府的な言動を社会的なリスク要因としてプログラムされれば、弾圧を正当化する道具にもなる。

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デジタル庁は市民運動からの批判がいまだ低調なままだが、日本学術会議の任命拒否問題では市民運動もメディアも大学や学会もおしなべて菅への批判を強め、任命拒否撤回の主張が大きくなっている。多くの市民運動も任命拒否を批判するとともに、学術会議擁護の立場をとっているように思う。しかし現場の大学教員としての経験でいえば、学術会議は学問の自由を侵害するような行動をとっており容認できないのだ。学術会議は多くの提言などを出しており、任命問題の是非以前に、そもそも任命された学術会議のメンバーたちがやってきたことをその活動内容に即して検証されるべきだ。

私の経験とは以下のことだ。学術会議は2008年の文科省から大学教育の分野別質保証の在り方について審議依頼を受け、大学教育のある種の学習指導要領作りを始める。教育内容に介入するようなことをやりはじめた。私の専門でもある経済学については、ここで詳細は述べられないが、全く容認しがたい内容で、このガイドラインに則せば私は大学教育での居場所は全くなくなる。私の人生の多くを教育に費してきた者として絶対に譲れない一線だ。学術会議を擁護するなど私にはできない。

それだけではない。出された提言のなかにはとうてい容認しがたいものがある。たとえば、小中高の学校教育への提言ではGIGAスクールの推進を前提としたIT教育の導入を積極的に推し進める提言を出し、生徒の成績などの個人データの収集を積極的に実施すべきだと主張している。また、新型コロナ対策としての医療データの活用のためにマイナンバーカードなどの行政システムを支えるデジタル環境の再整備を主張する提言を出したり、「行政記録情報の活用に向けて」の提言では、統計調査にマイナンバーを利用できるよう提言している。研究にビッグデータを活用するリスクはすでに指摘されている。2016年の米大統領選挙でFacebookの膨大な個人情報を研究目的で提供し、これがトランプ陣営に利用された。研究目的を隠れ蓑にこうした深刻な問題が起きることがありうるのだ。核問題についても原発容認の姿勢は崩れていない。今年9月「原子力総合シンポジウム2020」を「2050 年の持続可能社会の実現にむけたシナリオと原子力学術の貢献」のテーマで開催するが、とうてい反原発運動が容認できるような内容ではない。今年春に学術会議は2050年をみすえたレポートを公表する。「未来からの問い―日本学術会議100年を構想する」と題された400ページのレポートのなかで,安倍政権が政策として推進してきたSociety5.0といういかがわしい歴史認識をまるごと受け入れ、さらには「総務省が推進しているマイナンバー制度も、複数の組織に所属している個人情報を一元化してさまざまな申請をしやすくします。今後、情報管理を徹底することによって、情報の漏洩やなりすましなどの犯罪を防止できれば、もっと用途を拡大できるでしょう。」と礼賛している。今年の9月まで学術会議の議長は京大の人類学者で総長だった山極壽一だ。彼は日本の植民地主義と学術の責任に深く関わる京大の琉球人骨問題で一貫して消極姿勢をとりつづけてきた。その山際を学術会議は会員の互選で選んできたのだ。

学術会議を政府から独立させる議論もあるが、そうなれば学術会議は映倫のような自主規制団体になるだけであり、現状のままなら政権のアウトリーチとしての役割を担うだけだ。表現、思想信条の自由にとって必要なのは、自由に関わる制度を一つでもなくすことだ。私の30年の研究者、教育者の仕事のなかで必要と思ったことは一度もない。学術会議は学問研究にとって不要である。学術会議擁護の運動をしている市民運動などの皆さんには是非、学術会議は擁護すべき機関なのか、再度検証していただくことをお願いしたい。

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市民運動をはじめとする社会運動は、私の目からみると、これまでにない危機的状況を迎えつつあるようにみえる。COVID-19に関していえば、政権の対応、医療と経済について私たちがどのような判断を下すべきなのかについて、政府や支配的な制度とは別の観点からの提起をすることができているだろうか。マスクを拒否するマッチョな極右の価値観とも自粛と自己責任を強いる政府とも立場を異にする私たちの分析が非常に足りないと思う。市民運動は政党の政策論議や国会政局から自由になり、資本主義経済の本質や身体と医への権利といった根本問題を問い、原則を貫くスタンスをとらなければならないのではないか。既存の教育制度や学者の権威を肯定しすぎてはいないか、とも思う。教育制度による差別と選別への根底からの懐疑を運動の基盤に据えるべきなのではないのか。菅政権と産業界のデジタルへの流れに対しても、デジタルの日常生活を問う運動に至っていない。ネットもパソコンも理解を超える難解な機械であること自体が支配のツールになっているわけだが、同時に、運動として使えるなら、FacebookであれLineであれ何でも使えばいいという安易な利用主義が、ネットに伏在している高度な治安弾圧を自ら呼び込んでいることになっていると思う。

さて、最後に天皇制について一言だけ述べておく。COVID-19と各国の王室動向をみると、いずれも危機にありながら国民統合の積極的な役割を果せていない。天皇制を現代的な問題として重視する意義が見出しにくい状況になっているともいえる。たぶん、これはCOVID-19だけの問題ではなく、社会のコミュニケーション環境がマスメディア中心からSNSなどネット中心へと確実に変化しており、この変化に旧来の統合装置が対応しきれていないことによると思う。この意味でいえば政権や支配層のとってもある種の天皇制の限界に直面しているともいえる。他方で、SNSは多様な極右の言説が流布する場にもなっており、どこの国でも移民・難民への差別と排外主義、様々な伝統主義的な価値観への回帰と宗教的な信条が目立っている。日本の場合も、多様な日本的なるものや日本文化から憎悪のヘイトスピーチまでが星雲状の言説空間を構成しながら、これらの帰結としてナショナリズムと「天皇」と呼びうるような象徴的な空間が、従来とは異なる性格をもって構築されるように思う。マスメディア時代とは根本的に違い、大衆自身がマスメデアやフェイクニュースの言説を受容しつつ、彼ら自身が更に発信主体となって支配的な価値観や心情を支える、といったメカニズムのなかでイデオロギー装置が構築される。この意味で、現実の空間での天皇ではなく、バーチャルな空間において、天皇という言葉すら明示されないような言論のなかに密かにもぐりこむようにして―とりわけリベラルな知識人やある種の左翼もどきの知識人の言説をも包摂しつつ―天皇制イデオロギーが表出するようになるのでは、と感じる。この意味で天皇制を支える構造そのものの変容にも注目しつつ天皇制批判のバージョンアップを図ることが必要になっていると思う。

初出:『反天皇制運動Alert』54号(若干加筆しました)