2019/12/16 (横浜)海賊版サイトアクセス・ダウンロード犯罪化問題を考える

盗聴法に反対する市民連絡会定例学習会20191216チラシ

海賊版サイトアクセス・ダウンロード犯罪化問題を考える

安倍政権は、通常国会に海賊版サイトへのアクセス遮断やダウンロードの犯罪化を目的とした著作権法の改正を提出する準備を進めています。この問題は、前回の通常国会でその成立が断念されたいわくつきの問題です。

マンガなどで著作権者の許可なくコンテンツをネットに公開したり、こうしたコンテンツをダウンロードする行為が、著作権法に抵触することから、違法な犯罪として取り締ろうとする狙いは、一見すると、正当な犯罪取り締まりだとみなされがちです。前通常国会で法案成立が見送られたように、この問題は私たちの知る権利や表現の自由に深く関わり、政府による更なる表現規制に道を開きかねないのです。

海賊版サイトへのアクセス遮断やダウンロード規制の考え方は、違法とみなされるサイトへのアクセスやコンテンツのダウンロードは犯罪である、とする考え方に基いています。将来的には、著作権法に限らず、より幅広く政府や捜査機関が違法とみなすサイトへのアクセスを遮断したり、ダウンロードを犯罪とするような取り締まりに道を開く危険性があります。特に、共謀罪のような話し合いを犯罪化する法律がある現状では、メーリングリストやSNSへの参加を規制したり、遮断するといった問題にもつながりかねない危険性をもっています。

また、インターネットの普及に伴って、伝統的な著作権の考え方に内在する様々な問題が表面化してきました。従来の著作権とは異なった知識や情報を共有しようとする新しい考え方や、そもそも知識を商品とみなして所有権を設定することが妥当なことなのか、といった疑問をめぐって多くの議論がなされてきています。

今回の学習会では、政府が目論む海賊版サイト規制の問題がどのような拡がりをもつ危険な政策であるのか、これに対して私たちがとるべき観点とはどのようなものであるべきなのかなど、参加者の皆さんと議論したいと考えています。是非、ご参加ください。

日時 12月16日(月) 18時30分開場
場所 かながわ県民センター1503号室
横浜駅西口5分 (横浜市神奈川区鶴屋町2-24-2)
参加費 500円
報告と問題提起
小倉利丸(盗聴法に反対する市民連絡会)

問い合わせ 070-5553-5495

11月30日:学習会「監視社会化に、どう向き合うか ~あなたも、私も、監視されている?~」

学習会「監視社会化に、どう向き合うか ~あなたも、私も、監視されている?~」
神奈川県川崎市/主催:秘密保護法を考える川崎市民の会

14:00~16:30(開場13:30)/場所:川崎市多摩市民館5階 第1+第2学習室

(会場まで:南武線登戸駅から徒歩10分、または小田急線向ヶ丘遊園駅北口から徒歩5分)

講師:小倉利丸さん(もと富山大学教員)

参加費:資料代として500円

問合せ:矢沢 090-6108-6568

一緒に考えましょう●オリンピックでテロ防止を口実に監視カメラが急増!(500万台にも迫る?)●秘密のメールも見られている!?●マイナンバー、クレジットカードを普及させたい政府●内緒の電話も聞かれている!?●スマホで、あなたの位置も知られる!●個人情報が企業、政府に収集され、監視社会がすぐそこに!/小倉利丸さんプロフイール:JCA-NET代表。これまで、監視社会反対の立場から、盗聴法や共謀罪の反対運動などに関わってきた。元富山大学教員。著書に『絶望のユートピア』(桂書房)、『デモはラブレター』(監修、樹花舎)『グローバル化と監視警察国家への抵抗 戦時電子政府の検証と批判』(共著、樹花舎)、『監視社会とプライバシー』(共著、インパクト出版会)、『世界のプライバシー権運動と監視社会』(共著、明石書店)、『危ないぞ!共謀罪』(共著、樹の花)など。

危い!! IoT調査の狙いは何か? 5G時代の監視社会に対抗する私たちの取り組みを探る

日時:9月24日(火) 18時30分から
場所:神奈川県民センター711号室
横浜市神奈川区鶴屋町2-24-2(横浜駅西口徒歩5分)
お話し:小倉利丸(市民連)

参加費:500円
問い合わせ先 090-2669-4219(久保) メールhantocho-shiminren@tuta.io

IoT機器と呼ばれる機器が家庭や職場などで急速に普及しはじめています。これは、家電製品や通信機器などをインターネットに接続してデータを収集する機能をもっています。このIoT機器のセキュリティが脆弱であることを理由に、今年から5年間かけて政府は、NOTICEと呼ばれるIoT機器への侵入調査を開始しています。6月に実施状況報告が公表されましたが、現在も調査は続いています。
IoTの普及によって、インターネットの役割は大きく変質します。ネットワークに接続された様々な機器類が人々に「便利」や「効率性」を提供する一方で、私たちの生活全体を詳細に把握できる監視網にもなりかねない危険性もはらむようになっています。この傾向は、次世代通信網の5Gの普及によって更に促進されようとしています。GAFA(Google、Amazon、Facebook、Apple)と呼ばれる巨大多国籍IT企業をはじめ、日本の多くのIT企業もまたこうした動向を格好のビジネスチャンスにしようとしています。
他方で、東京オリンピックをきっかけに、生体認証付監視カメラの設置、消費税増税に伴うキャッシュレス化、保険証などと連動させての強引なマイナンバーの普及政策など、官民一体となった個人情報の網羅的な収集に歯止めがかかっていません。にもかかわらず、監視社会の歯止めとなる法制度の整備はほとんど進んでいません。
こうした状況をふまえて、現在進行しているIoT調査とは何を狙いとしているのか、そして、ここ数年のうちに普及する5Gがもたらす深刻な問題も見据えて、監視社会に対抗するための私たちの運動を、どのように創り出せるか、参加者のみなさんと議論します。

刊行トークイベント「デモってラブレター︎ 福岡サウンドデモ本人訴訟顛末記」

日時:9月12日(木)開場18:00/開演18:30/終了20:30
会場:エスパスビブリオ(東京都千代田区神田駿河台 1-7-10 B1F
03-6821-5703)JR総武線・中央線御茶ノ水駅徒歩6分
スピーカー:
いのうえしんぢ(編者)/古瀬かなこ(編者)/小倉利丸(監修者)
参加費:2000 円(いのうえしんぢ作ポストカードのお土産付)

予約先:info@espacebiblio.superstudio.co.jp       Tel. 03-6821-5703

件名「9/12表現の自由はどこへトーク希望」お名前、電話番号、

参加人数をおしらせください。
※終了後懇親会:参加費500円・ワンドリンク付

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 本の情報  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

「デモってラブレター︎ 福岡サウンドデモ本人訴訟顛末記」

監 修:小倉利丸
編 集:福岡サウンドデモ裁判原告団
出 版:樹花舎
販 売:星雲社
使 用:A5判、並製、184ページ
定 価:1200円+税
送 料:180円(1冊の場合。2冊以上は要相談)
注文先:福岡地区合同労組Tel/Fax092-651-4816
いのうえしんぢsirokuma@chime.ocn.ne.jp
古瀬かなこcanaryrf6@gmail.com
※フェイスブックにメッセージもOKです。

2011年5月、福岡で行われた脱原発デモに、警察の妨害があった。
届けを出していたにもかかわらず、警察はデモ隊を公園から出さなかったのだ。
何もしないでいたら、これから好きにデモができなくなる―、そう気づいたとき
に選んだのは「裁判」という手法。しかも、弁護士を付けない「本人訴訟」だった。
国家権力を相手にケンカ。勝てる保証なんてない。
だけど、黙っていることだけはしたくなかった。
数々の表現活動を織り交ぜながら、表現の自由を求めた手法や、九州の「本人訴訟」
の実例も収録。4年半の裁判の向こうに見えたものは?
「もう黙っているなんてできない」あなたに贈る1冊。

↓福岡サウンドデモ裁判ブログ

復旧しました(お詫び)

先月から2週間ほどブログがエラーで停止してしまいました。ご心配をおかけしました。ちょうどあいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」の展示中止があり、私もこの不自由展・その後の実行委員であることもあって、この展示中止と関連しているのではないかとのご心配もあったかと思いますが、純粋なWordPressのプラグインの不具合によるものでした。

「表現の不自由展・その後」実行委員会のオフィシャルウェッブは下記

http://www.fujiyu.net/fujiyu

展示再開に向けて多くの皆さんが、自発的なアクションを展開していただいています。本当にありがとうございます。

デジタル監視社会としてのSociety5.0批判

目次

  • 1. コンピュータに社会を描くことはできるのか
    • 1.1. 安倍の世界経済フォーラムでのスピーチ
    • 1.2. スピーチが隠していること
    • 1.3. 私たちは「石油」ではない
    • 1.4. 情報フェティシムズ:データが「資源」となり、私たちはもはや生身の人間としては扱われなくなっている
  • 2. 5G、AI、IoT(5AI)は悪夢のトライアングル
    • 2.1. グローバル資本主義の覇権を狙う日本政府の戦略
    • 2.2. 隠蔽される問題群
    • 2.3. そもそも問題の根源はコンピュータ科学の社会認識の枠組みにある
  • 3. いったいどのようなことが現実に可能なのか。
    • 3.1. 政府が描く「スマートハウス」―現代のビッグビラザー?
    • 3.2. スマートホームを支えるイデオロギーとしての温情主義的な家族国家観―デジタル天皇制?
  • 4. 捜査機関はどこまでの技術をもっているのか
  • 5. コンピュータが理解する社会と私たちが理解する社会の本質的な違い
    • 5.1. Society5.0の抽象的な「人間」モデル
    • 5.2. 実際の社会は矛盾や摩擦があり、AIもまた差別する
    • 5.3. 政治的異議申立ての「犯罪化」がすすむ?
    • 5.4. コンピュータが描く社会システムには「弁証法」がない
  • 6. 私はデータではない。私が何者かを資本や政府に決めさせない。サイバー空間での抵抗の権利へ

1 コンピュータに社会を描くことはできるのか

1.1 安倍の世界経済フォーラムでのスピーチ

安倍は今年初めに開催された世界経済フォーラムで、デジタルデータ、デジタルガバナンスなど「デジタル」を演説の中心的な課題として以下のように述べた。日本資本主義のグローバルな戦略のなかで「デジタル」の領域が重要な位置を占めていることを示唆している。

皆様、時は熟しました。我々、皆承知のとおり、これから何十年という間、私たちに成長をもたらすもの、それはデジタル・データです。そして何かを始めるなら、今がその好機です。何と言っても、毎日毎日、新たに生まれているデータの量は、250京バイト。これは一説によれば、米議会図書館が所蔵する活字データ全体の25万倍が、新たに追加されているというのと同じです。1年の遅れは、何光年分もの落後になるでしょう。一方では、我々自身の個人的データですとか、知的財産を体現したり、国家安全保障上の機密を含んでいたりするデータですとかは、慎重な保護の下に置かれるべきです。しかしその一方、医療や産業、交通やその他最も有益な、非個人的で匿名のデータは、自由に行き来させ、国境をまたげるように、繰り返しましょう、国境など意識しないように、させなくてはなりません。

グローバル経済を議論する国際的なフォーラムの場で、安倍が言う「我々」とは誰のことなのだろうか。政治家であり権力者である「我々」と、彼等に対して異議申し立てをする「我々」は同じ「我々」ではない。にもかかわらず「我々」と一括りにされるとき、彼等に抗う「我々」の居場所はあらかじめ奪われている。「国境など意識しないように、させなくてはなりません。」とは、誰に対する命令なのだろうか。

1.2 スピーチが隠していること

安倍は上のスピーチのなかで、日々生み出される膨大なデータには、個人データ、知的財産、安全保障上の機密データのような保護あるいは秘匿されるべき情報と国境を越えて自由に流通させるべき情報があるという。これらのデータを守ることが政府の責任であるというのだろう。個人データ、知的財産、安全保障が国益に還元できるものとする安倍のこの発言にどれほどの人が疑問を抱いただろうか。

しかし、企業の知的財産には個人情報が含まれており、本来私たちに帰属すべき個人情報が資本の所有に帰せられるという問題がある。安全保障上の機密には、言うまでもなく、警察や政府機関が権力の維持のために収集する膨大な反政府運動や敵国とみなす国や人々の情報が含まれる。これらが誰から保護あるいは秘匿されるのかといえば、私たちからである。その結果として、私たちは、「私の個人情報」を奪われ、政府や資本への批判に不可欠なかれらにとって不利益となる情報へのアクセスを阻まれ、私たちの思想信条、表現の自由が抑制される。

1.3 私たちは「石油」ではない

他方で、越境する匿名情報とは日本の政府や資本が海外展開する上で必須となる越境する情報ネットワークを当事者の国や人々のアクセスを阻むようなシステムの構築をも含意している。「非個人的で匿名のデータ」はビッグデータの解析技術を前提すれば、言われているほど確実な匿名性を担保しうるものにはならないだろう。安倍はこのスピーチで現代のデータを20世紀初めの石油になぞらえている。データは富をもたらす「資源」なのだ。この観点からすると、越境するデータとは、日本の政府と資本が、海外の資源(データ)を収奪するための新たな構想でもあるということだ。

こうした情報をコントロールする体制を安倍は「DFFT(データ・フリー・フロー・ウィズ・トラスト)と呼び、膨大なデータを社会基盤とする構想をSociety5.0と呼んでいる。そしてこのような社会が地域格差を解消する鍵を握る「格差バスター」にもなるという。そして安倍は、二つの主題を指摘する。

成長のエンジンは、思うにつけもはやガソリンによってではなく、ますますもってデジタル・データで回っているのです。(略)新たな現実とは、データが、ものみな全てを動かして、私たちの新しい経済にとってDFFTが、(略)最重要の課題となるような状態のことですが、そこには、私たちはまだ追いついていないわけです。

(略)私たちがインターネットを壮大な規模で使うようになったのは、1995年頃です。でも、21世紀も20年を数えようという頃になって、データが、我々の経済を回している事実にようやく気がつきました。この際、大阪トラックを始めて、それをとても速いトラックとする。そのための努力は、私たち皆が共にできるといい、米国、欧州、日本、中国、インドや、それに大きな飛躍を続けているアフリカ諸国が、努力と共に成功を共有し、それでもって、WTOに新風が吹き込まれるというふうになればと願います。

1.4 情報フェティシムズ:データが「資源」となり、私たちはもはや生身の人間としては扱われなくなっている

資本主義は、脱工業化[1]のなかで新たな「資源」として情報あるいはデータという分野を見い出した。かつて、社会のなかの多様な自然エネルギーが石炭、石油などに置き換えられたように、データが「資源」になるということは、「世界」がデータという「資源」に置き換えられてゆくことを意味している。もともと人間は、情報やデータに還元できるものではない。コンピュータが処理可能な二進法の数字に置き換え可能な遺伝情報は、「遺伝子」そのものではない。しかし、「遺伝子」それ自体が二進法の数値に置き換え可能であり、しかも、このような遺伝情報をもとに、遺伝子組み換えによってもともとの生体に変更を加えることが可能になると、あたかも情報やデータが生命体の実体であるかのような転倒現象、情報フェティシズム(物神化)が生み出される。

こうした転倒は、私たち一人一人が何者であるのかを決定する権利が私たちから奪われていることを意味している。私が何者であるのかを銀行や職務質問する警察官は、「私」ではなく私が所持している身分証明書というデータによって確認するように、現代ではコンピュータが私の生体情報によって私であるかどうかを確認する。

こうしたデータとしての私が資源になることによって、資本は利益を上げ、国家は権力の再生産を実現する。そして、私たちが情報、データに転換されて、彼等の利益のために犠牲にされる。マルクスは資本主義の搾取の根拠を労働者の「剰余労働」に求めた。しかし、これは搾取の一部に過ぎない。人間がその存在を資本や国家に依存しなければ維持できないような構造に否応なく組み込まれ、その結果として存在の意味を奪われ、この意味の剥奪を埋めるために、資本と国家の意思を内面化するような社会に私たちは生きている。搾取とは、資本と国家への依存を強いられて生存の意味を剥奪される状態を指す。人間のデータ化は、こうした搾取の構造に人間を総体として組み込むためのひとつの技術である。[2]

2 5G、AI、IoT(5AI)は悪夢のトライアングル

2.1 グローバル資本主義の覇権を狙う日本政府の戦略

Society5.0は2016年に策定された『科学技術基本計画』[3]のなかで、ドイツの「インダストリー4.0」、米国の「先進製造パートナーシップ」、中国の「中国製造 2025」」を念頭に置いて、「世界に先駆けた「超スマート社会」の実現」として、定義された。つまり、現在のグローバル資本主義の覇権を狙おうとする日本政府の戦略なのだ。こうしたグローバルな戦略が家庭や地域コミュニティの細部、日常生活から構想されるような構図になっていることが特徴的である。私たちの日常のライフスタイル、とりわけネット環境が、そのまま国策とリンクする。同じネット環境が私たちのコミュニケーションの権利を支える社会インフラでもあることを念頭の置くとき、ネットのこの両義性は深刻な問題を提起することになる。私たちが沈黙してしまえば、国策、国益が優先され、私たちのコミュニケーションの権利が脅かされることは目にみえている。

近代資本主義は、国民国家とグローバルな市場からなる矛盾にみちた構造をもつ。どの資本であれ、世界市場で主導権を握るためには、価格競争における優位の他に、次の条件を満たさなければならない。

  • 生産される商品が、グローバルな市場において、技術的な標準化の主導権獲得できていること。
  • いかなる国であれ、その国の国内法と抵触しない仕様を満たしていること。
  • 本籍国[4]の軍事外交政策が資本の多国籍的な展開の後ろ盾になっていること。

技術の標準化は、他の資本(とりわけ異なる本籍国の資本)との協議が不可欠であり、多くの場合政府間の協議が不可欠になり、政府の外交力が重要な条件をなす。国家を越える経済的な規模を誇る資本であっても法制定の権力は持てない。様々な経済法、企業関係法規、労働法制から環境法などに至るまで、法を公然と無視することはできない。そして、現在の米中関係のように、政府間の摩擦を資本独自の力で解決することもできないし、市場の交渉に還元できるわけでもない。すでに、「スマートハウス」関連では、経産省が電気、ガス・水道といった家庭のインフラを可視化して一元的に管理するHEMS(Home Energy Management System)の導入にやっきになっている。[5]このHEMSに対応した家電や住宅設備を「制御」する共通の通信プロトコルとしてECHONET liteが2012年に経産省の肝煎りで策定されている。しかし、この「日本発」の技術の標準化仕様が国際標準になるのかどうかは未知数だ。経産省は「日本発のこの国際標準が成立・発行され、家庭用エアコンが当該標準に基づき普及すれば、HEMSの導入が国内外で促進され、世界的な省エネルギーに貢献することが期待されます。また、国際市場における日本製品の優位性向上や、これらに関するサービス事業の市場拡大を目指すことができます。」[6]と述べているが、いったいどこの国が日本の製品や海外市場展開に有利だが自国にとっては相対的に不利になるような技術の標準化を受け入れるだろうか。米国、中国、EUなど技術覇権を目指す諸国との競争激化のなかで、私たちは、実際にスマートハウスという名の監視型住宅に住むことを強いられる。

現在のグローバル資本主義のなかで、日本がもっぱら「デジタル」の領域に関心を示すのは、長期の不況のなかでこの分野だけが例外的に「成長」しているからだ。言い換えれば、この分野で日本が国際競争力を失なえば、更なる苦境に陥いる可能性があるということでもある。この意味で、日本資本主義がその再起を賭けて、人々の日常生活やコミュニティを実験台あるいはショーケースにしながら、世界に日本のデジタル技術を売り込むことがアベノミクスの成長戦略の最後の賭けでもある、ということである。

『科学技術基本計画』では次のように述べている。

生活の質の向上をもたらす人とロボット・AIとの共生、ユーザーの多様なニーズにきめ細かに応えるカスタマイされたサービスの提供、潜在的ニーズを先取りして人の活動を支援するサービスの提供、地域や年齢等によるサース格差の解消、誰もがサービス提供者となれる環境の整備等の実現が期待される。また、超スマート社会に向けた組の進展に伴い、エネルギー、交通、製造、サービスなど、個々のシステムが組み合わされるだけにとどまらず、来的には、人事、経理、法務のような組織のマネジメント機能や、労働力の提供及びアイデアの創出など人が実施る作業の価値までもが組み合わされ、更なる価値の創出が期待できる。

一方、超スマート社会では、サイバー空間と現実世界とが高度に融合した社会となり、サイバー攻撃を通じて、現実世界にもたらされる被害が深刻化し、国民活や経済・社会活動に重大な被害を生じさせる可能性がある。このため、より高いレベルのセキュリティ品質を実していくことが求められ、こうした取組が企業価値や国際競争力の源泉となる。

この極めて退屈な報告書の社会認識は、全体主義国家の特徴でもある社会を構成する人間像が端的に反映されている。政治的な主体としての人間への視点が全く欠如しており、社会を構成する人々の意思決定は民主主義ではなく、AIを介在させた高度な統制モデルに基いている。この報告書には民主主義も人権も一切登場しない。個人情報は2箇所、プライバシーは1箇所で言及されているが、これらは、権利概念として言及されているわけではない。Society5.0は、こうした個別資本を越える課題を複数の資本の利害を束ね、家庭を基礎単位として、コミュニティ全体を巻き込んで、政府が主導して新しい社会のコミュニケーションインフラを構築しようというものであって、ここには政治的な意思決定のプロセスが完全に欠落している。

2.2 隠蔽される問題群

上で引用した抽象的で曖昧な文言をより具体的にイメージしたときに、問題の在処が明確になる。

  • 生活の質の向上をもたらす人とロボット・AIとの共生。 「共生」の定義がない。ロボットやAIには省力化の傾向があり、これらの機械によって職を奪われる人達が必ず生み出される。AIやロボットによる経済の活性化が新たな雇用を生むという反論は、的外れでもある。というのは、AIやロボットで職を奪われた労働者がAIやロボットが創出する新たな職に就けることもこれまで以上の所得も保証されていないからだ。
  • ユーザーの多様なニーズにきめ細かに応えるカスタマイされたサービスの提供。 「ユーザ」の多様なニーズに対応するためにはユーザがどのようなニーズを持っているのかを把握できるシステムが必要になる。「きめ細か」であるためには、日常生活の詳細にわたるデータを収集し、解析することが必要になる。確かに「便利」なようにみえる。朝食で食べるパンがなくなる前に注文してくれる、帰宅すると風呂が涌いている、エアコンを快適な温度に調整する、聴きたい音楽を選んでかけてくれる….。しかし、こうしたテレビCMが提供するシチュエーションだけが「多様なニーズ」というわけではない。夜中にトイレに行く回数が多いとか、セックスの回数より消費されている避妊具の数が多い(どこで「消費」したんだろうか)とか、風邪で医者に行くと職場に連絡したのに医者に行っていないとか。多様なニーズやきめ細かなニーズに応じようとすればするほど、人には知られたくないちょっとした嘘やプライバシーが「機械」に晒されることになる。親の目を盗んで子どもたちはちょっとした悪戯をするものだが、こうした経験をする余地がますます狭くなるかもしれない。
  • 人事、経理、法務のような組織のマネジメント機能。 「組織のマネジメント機能」は、基本的に資本(経営者側)の立場にたった言い回しである。上の引用にある「ユーザーの多様なニーズにきめ細かに応えるカスタマイズされたサービスの提供」という文言を職場にあてはめたとき、「ユーザ」は会社の経営者なのか、現場の労働者なのか、労働者であっても正規なのか非正規なのかで「ニーズ」は対立するのではないか。Society5.0は、経団連が全面的に支援しているように、「ユーザ」として前提されているのは企業の経営者たちである。[7]労働者の多様なニーズを労働組合が組織として受け取るためのプラットームとしてのロボットとかAIは想定されていない。ロボットやAIが人事に介入すると、あたかも客観的な「データ」に基いているかのように誤解されてしまう。使用者側は、この「データ」を客観的で人間の主観が入っていない「証拠」として人事や労務管理の正当性を主張する。労働者たちは、こうした労使関係の意思決定のメカニズムに対抗するには、ロボットやAIが用いている解析プログラムそのものの妥当性を検証できなければならない。労働者の権利が明確に組み込まれていないプログラムは認めてはならない。とすれば、労働運動は、会社のAIが収集したデータと同じデータを取得して独自にプログラムを組んで会社の判断の不当性を主張するか、あるいは会社がデータを収集することそれ自体を認めずに、データの消去と解析に用いないことを認めさせなければならない。コンピュータは労資関係が内包している対立を対立としてそのままプログラムすることはできない。
  • 企業のマネジメントと消費者運動 同様に、資本と消費者の間にも対立がありうる。電力会社が原発を保有すべきか廃棄すべきかという重大な経営問題について対立があるとき、企業のロボットとかAIは、原発容認の政策を掲げる会社の方針に沿ったプログラムで動くだろう。消費者のニーズは無視されることになるが、ここでも、無視の口実としてあたかも客観的なデータでもあるかのようにして、コンピュータがはじき出した様々なデータが用いられる。それだけでなく、会社のAIは、会社に異論を唱える消費者たちの身元を詳細に調査して会社の「ニーズ」に応えるだろう。逆に消費者たちが自分たちのニーズを満たすようなデータを要求してもSociety5.0はこうしたニーズを無視するか、会社を代弁するだけになる可能性が高い。そもそも会社のAIが収集する社内のデータを社外の消費者運動が利用でき、しかもそれを消費者運動が独自に構築したプログラムで解析できなければならない。あるいはそもそもの会社が解析に用いた消費者の個人情報そのものの廃棄を求めることができなければならないだろう。労資関係の場合同様、対立する企業と消費者の利害をロボットやAIは解決できないにもかかわらず、あたかも「解決」が可能であるかのようにして企業によって利用される。

2.3 そもそも問題の根源はコンピュータ科学の社会認識の枠組みにある

コンピュータ科学は、弁証法と実証的な検証不可能性に基く資本主義批判という反資本主義の理論的な基礎を根底から覆すものだった。コンピュータ科学が前提とする「方法」は、社会制度ばかりか社会認識から人間の基本的な存在様式に至るほとんどあらゆる分野を支配してきた。[8]

コンピュータは確かに、ある種の計算領域においては、正しい結果を生み出すことは多分、議論の余地はない。しかし、実は、こうした「正しさ」は見た目ほど広範囲に及ぶわけではない。むしろ極めて限定された領域でしか機能していない。たとえば、商店が一日の売り上げを計算して、そのなかから8パーセントの消費税がどれだけの金額になるのかをコンピュータに計算させることはできても、コンピュータに「なぜ消費税が8パーセント」なのかは理解できないし、理解する必要のない前提とされている。現在世界規模で大問題になっているトランプ政権による対中国貿易での関税引き上げ政策も同様で、多くのアナリストたちは、関税引き上げの影響を推計するためにコンピュータを駆使し、金融市場もまた、コンピュータにその影響を計算させる。この貿易戦争は、このようなコンピュータによる世界理解の観点からすると、全てが、経済成長や資本の利益という「結果」だけが「経済」の主要な問題であり、これまでの通説では、自由貿易が最適な「解」を与えるとされていたのだが、トランプはむしろ保護主義という「解」を政治的に最適な「解」として選択したために、市場経済の前提が崩れたと感じられた。(人間には。コンピュータは何も感じないだろうが)

新自由主義の時代は、経済の領域にコンピュータ科学が、実務においても、また、学問分野においても大規模に導入された時代である。現実の複雑極まりない事実の世界を抽象的な統計データに還元し、経済システムの最適な状態を一定の数式から導く「方法」が唯一科学的な方法だと信じられてきた。このようにして構築された経済の理想的なモデルが一旦人々に受容され、実務の世界でも「正しい」経済のありかたであると信じられるようになると、人々は、今度は、この理想的なモデルを物差しにして、現実の社会の問題や未解決の難問の原因を「現実が理想的なモデルのようには存在していないのが問題なのだ」と考えるようになる。こうした本末転倒が蔓延した時代が、新自由主義とこれを支えた経済学や関連する社会科学の理論だった。だからといって、その前に隆盛を誇ったケインズ主義が正しかったわけではない。マクロ経済学やミクロ経済学のパラダイムは資本主義を歴史的な社会としては理解できないモデルであるだけでなく、そもそもここでは人間は生産要素でしかなく、コストでしかない。しかし、こうした「理論」が正しいとされて、政策が策定され、この理論を前提にしてデータが収集され、統計が整備される。このある種の「神の世界」はそれなりの完結した整合性のあるシステムを構築する。実証もできれば様々な予測も可能だ。しかしこの理論ではこの社会で人々が置かれている「搾取」を問題にする枠組みがないのだ。コンピュータ科学はこの限界と問題をそのまま継承している。

Society5.0には、社会関係に内包されている様々な対立や矛盾として表われている多様な要求と闘争を受け入れる枠組みそのものがない。社会は、企業の意思によって束ねられた社員や消費者たちから構成される。多様な「ニーズ」は相互に対立することもない。コンピュータの膨大なデータが解析されるときも、こうした摩擦や闘争は、たぶん社会を危険に晒す問題として警察が取り組むべき「犯罪」のカテゴリーに含まれるかもしれない。

労働運動も消費者運動もこうした社会ではその存在意義を削がれる。人々はどこまでも非政治的であって、政治という領域への関心が全くない存在であることがあたかも理想的な市民であるかのように描かれている。Society5.0ではたびたび福祉の領域に言及される。福祉は高度に政治的な課題であるが、それが人々の配慮や倫理・道徳に転嫁される。いずれ公共交通の車内の監視カメラが人々を監視し、優先座席に座ろうとする若者を選別して警告したり、ペナルティを課すような時代になりかねない。人々は「叱られたくないから」という理由でこうした警告に従い、あたかも公衆道徳が守られた社会であるかのようなうわべの体裁が整えられる。

3 いったいどのようなことが現実に可能なのか。

3.1 政府が描く「スマートハウス」―現代のビッグビラザー?

Society5.0が高度が監視社会になるだろうという予測は、それが予測の域を出ないのであれば、私たちのような反政府運動の担い手によるプロパガンダとしか受け取られないかもしれない。将来についての口当たりのよいハッピーな社会像ではなくて、実際にこれまで、どれほどのことが監視社会として実現されているのか。

図1: 総務省が構想するSociety5.0

各家庭を単位とした「スマートハウス」からコミュニティを基盤とした「スマートシティ」へ、という展開の延長線にSociety5.0がある。しかし、こうしたスマートナンチャヤラという取り組みは思うように進展してこなかった。そのなかで唯一実用化の水準を強引に達成したのが曰く付きの電力のスマートメータだった。ここから家庭内の機器を統合して監視するシステムへの展開がとどこおっている間に、世の中はあっという間にIoTと5Gの時代へと展開してしまったために、むしろ出遅れ感が強く、これが官民の危機感になっている。[9]

上の夢物語のようなSociety5.0が監視社会の観点からみたとき、どのような問題があるのか。企業や政府の情報共有は進むだろうし、AIによって調整・操作された情報、過疎化されたまま機械に監視される地方、高齢者や障害者の自立が阻害される社会になるだろう。それだけでなく、社会の構成にとって重要な政治的社会的な意思決定の基盤をなす行政、立法、司法といった制度とこれらへの私たちの関わりが一切登場しない。Society5.0とは政治の領域が排除された社会、言い換えれば、私たちが否応なく非政治化されざるをえない社会を意味している。その一方で、行政組織が官僚制度をコンピュータのネットワークとアルゴリズムに置き換えはじめたことによって、情報処理能力を急速に高度化してきたのに対して、立法と司法(とりわけ裁判制度)は、人による討議や審理が中心的である。意思決定を機械に委ねるところまではまだいっていないが、その結果として、行政による機械化=スピードアップに追い付けなくなっている。早晩、AIの導入は司法、裁判制度をAIに依存させることになりかねないし、代議制民主主義よりも行政によるビッグデータ解析などのデータ分析が優位を占めるようになることは目に見えている。

Society5.0は、コミュニティの監視、あるいは人口統制(住民コントール)を基盤として、その有機的なネットワークとして国家レベルの、つまり国民レベルの統制を実現しようというものだ。このコミュニティレベルでビッグデータの仕組みを用いることはすでにある種の実証実験が行なわれている。[10]現実空間で行なわれている様々な振舞いをビッグデータとして蓄積し、AIを駆使して解析し、その結果を現実世界にフィードバックするような社会システムが構想されている。従来と大きく異なるのは、ネットを介した情報のやりとりが個別のサービスとして企業や行政によって個々に縦割りになっている構造を、企業相互、行政の部門あるいは行政間でデータを共有して展開できるような統合的な社会インフラを構築することにある。こうした構造を可能にするには、膨大なデータの流通を円滑に行えるだけのネットワーク(5Gがこれを担う)と、蓄積されたビッグデータを解析するAI、そして現実世界に張り巡らせられる人とモノ双方と繋がるIoT機器の三位一体である。

以下に紹介するのは三菱総研が経済産業省の助成金を受けて実際に実施した実証実験である。

家庭内のIoT機器は、機器の動作状況だけでなく、たとえばドアホンは来訪者のログや画像を取得するなど様々な情報を取得し、利用者のスマホのデータも取得する。これを実証実験に参加した企業が共有する。こうした実証実験は、比較的単純なモデルとして実施されており将来はより高度で複雑なシステムとなるととが想定されている。プライバシー情報の扱いについては、家電などのメーカーごとに個別に個人情報の取り扱いのルールを決める煩雑さへの反省が述べられている。統合的なルールの策定への期待があるが、そうなると、企業が個別に、自社のポリシーや機器の仕様に合わせて個人情報を扱うのではなく、統合的な個人情報の扱いを決める方向に進むだろう。そうなると、個人情報の取得範囲が広い機器(例えば、対話型ロボットや監視カメラ機能がついている室内の機器など)に合わせて個人情報の取得を容易にする方向に流れるだろう。また、一般に個人情報の取得やプライバシーポリシーは、実施前に承認をとることになるが、実際の実施ではプライバシーポリシーのルールや合意事項ではカバーできないような事態が生じうる。こうした場合に企業側に有利になりかねない。今後統合的な運用が進めば、事実上個人情報が全ての企業や政府機関で共有されることが当然という方向になる以外にないだろう。[11]

こうした機器に対して、私たちがプライバシーを防衛するための自衛の手段として何らかの技術的な対抗策をとることが、もしかしたら、これらの機器を設置している企業のサーバやネットワークなど、企業などの財産への侵害行為とみなされるかもしれない。どこまでが私の所有に帰属し、どこからが企業や行政などの所有なのか、その境界が曖昧なまま、ネットワークの社会基盤を保護する名目で私たちの介入が犯罪化されてしまうかもしれない。

3.2 スマートホームを支えるイデオロギーとしての温情主義的な家族国家観―デジタル天皇制?

本稿の冒頭で引用した安倍のスピーチのなかで、「我々自身の個人的データですとか、知的財産を体現したり、国家安全保障上の機密を含んでいたりするデータですとかは、慎重な保護の下に置かれるべきです。」と述べていた。ここで彼が「我々自身の」と述べたときの「我々」が誰を指すのか、という問題は脇に置き、とりあえず全ての人々の、といった意味合いとして解釈しておこう。

上で用いられた「保護」という言葉の微妙なニュアンスに注目しておく必要がある。たとえば「国民の権利としての個人デ=タを保護する責任と義務が政府にはあります」という言い回しであれば、「保護」は権利と義務の関係のなかに位置付くが、そうではない。むしろ「国民の個人データを政府の保護下におきます」ということであって、ここでいう「保護」は、権利の保護ではなく、権力を維持する上で必要な「監視」に近いニュアンスだろう。

「我々自身の個人的データですとか、知的財産を体現したり、国家安全保障上の機密を含んでいたりするデータですとかは、慎重な監視の下に置かれるべきです。」

彼は個人データを私たちの権利に関わるものであるという原則を立てるのではなく、国家が私たちの個人データを監視する義務がるとみなしている。これを「保護」と言い換えるのは、「保護観察」とか精神病院の「保護室」などで用いられる意味があることを想起すれば、保護=監視という等式は決して強引な解釈ではないことは理解していただけるのではないかと思う。更に付言すれば、国家安全保障上の機密は、時として(常にと言い換えたいくらいだ)私たち民衆の安全とは真逆であって、むしろ公開されることこそが私たちの安全、あるいは権力の腐敗を正す重要な機会となる。

私たちは、国家の監視や権力の支配の手段として利用されることから私たちの個人データを防衛なければならないのだが、安倍は、逆に、国家こそが個人データの保護者=監視者になるべきと主張している。安倍に限らず権力者の個人データへの関心は、ビッグデータの時代にはリアルタイムでの私たちの動静をプライバシー領域にまで踏み込んで監視=保護することを意味している。これは私たちの関心とは根本から対立している。

家族を基盤に地域から国家へと積み上げる構図を国家がトップダウンで構想する監視=保護のスタイルは、コンピュータ化された高度な情報通信インフラという現代的な装いをとってはいるものの、発想そのものは、日本の近代国家がその出発点から持ちつづけている家族国家観とコミュニティによる相互監視のシステムを基盤にしている。個人はこの監視=保護の網の目のなかで家族か地域、あるいは職場に帰属する従属変数であって、自由で自立した個人は想定されていない。国家は、生活の細部に至るまで介入し保護者の役割を演じつつ、監視者としての動機を背後に持ち続ける。

これは、同時に、スマートホームあるいはSociety5.0のイデオロギー構造を示している。こうした家族から国家へと至る社会統制のイメージがコンピュータによって制御可能なアルゴリズムに変換され、機器に実装される。アイデアそのものは資本主義で歴史の終焉とする凡庸な文明史観だ。これが露骨なイデオロギーとならないのは、テクノロジーのもつ「中立性」や「科学」の装いをとっているからだ。「日本」という国家は、近代の始めから、科学の普遍性と神話の擬制をイデオロギーの両輪しとしてきた。戦後、この両輪は、日本のナショナリズムの中核をなす「経済ナショナリズム」を支える構造をとるようになった。天皇は宗教的な祭司として神話の世界を体現しつつ「文化」や「学術」といった普遍的な世界に「日本」というシンボリックな権威を付与する役割を担ってきた。科学技術を「平和」という文言に言い換え、経済帝国主義を支える生産力と労資関係の基盤をなしてきたテクノロジーを「日本の繁栄」として意味づけ、学術や文化イベントを権威づける権力儀礼の制度として高度なテクノロジーがナショナリズムを支える。監視=保護のネットワークが情報化やコンピュータテクノロジーによる社会開発として展開されるということは、この国にあっては、端的に言えばデジタル天皇制と言っていいようなナショナリズムと不可分なものとして機能することになる。天皇制がインターネットの時代に、どのようにしてイデオロギーの再生産装置として構造化されるのかという問題は、SNSやネットの右翼言説の蔓延(これは世界的な現象でもある)を踏まえれば無視できない重要な課題だ。Society5.0を推進する政権が極右であるということの関係性に注目しておく必要がある。

4 捜査機関はどこまでの技術をもっているのか

Society5.0には、明示的に犯罪などへの対処については言及がない。上記の経産省の実証実験報告書でも、かろうじて、「防犯・見守り」「防犯センサー」というキーワードが登場するくらいである。しかし、「防犯」が組み込まれている以上、防犯に関連するデータを警察などとどのように共有するのかは当然課題になる。その場合、単に、防犯センサーが警察とネットワーク化されるだけではなくて、犯行現場の室内のあらゆるIoT機器などが収集しているデータが犯罪の裏付けとなる証拠であるとされるならば、こうしたデータを捜査機関に提供できる仕組みが必要になる。そうなると、データのやりとりの統合機能となる「統合WebAPI」が捜査機関のネットワークと相互接続する可能性も否定できない。

室内はプライバシー空間なので、捜査機関が直接監視するような仕組みを導入することは容易ではないが、これはあくまで法的な制約に関する問題であって、技術的に不可能ではない。

すでに海外では、かなり深刻な警察による監視システムが稼動している。たとえば、ロサンゼルス警察は、Palantirという民間のデータ分析企業のシステムを導入し、2010年頃に既に、リアルタイムで事件を分析するための部署、Los Angels Police Department’s Real-Time Analysis Critical Response(RACR)を設置した。Palantirは次のように説明している。

Palantir Law Enforcementは、既存の事件管理システム、証拠管理システム、逮捕記録、令状データ、召喚状データ、RMSまたはその他の犯罪報告データ、コンピューター支援派遣(CAD)データ、連邦機関リポジトリ、ギャングの諜報情報、容疑者の記録、自動車免許をサポートしており、ナンバープレート自動読み取り(ALPR)データ、およびドキュメントリポジトリや電子メールなどの非構造化データを扱う。[12]

このシステムは、リアルタイムに、事件の発生現場に関連するデータを表示(地図、過去の事件発生履歴、関連する人物など)し、現場のリスクを推測して、パトロールする警察官のスマートフォンに情報を送信する。あらゆる関連情報を統合的に扱えることがPlantirのシステムの「売り」とされている。このシステムは、テロ対策でも用いられており、海外のテロ事件についても、テロ容疑者のデータベースを活用するなど治安管理のシステムとしての機能も持っている。[13]

こうしたシステムができてすでに10年になるのだ。まだ顔認証などのシステムが実用化される以前に、これだけの統合的なデータ分析の技術を捜査機関が保有できるということを念頭に置いて「スマートホーム」や「スマートシティ」を理解することが必要だろう。

Palantirは、政府などのシステム開発を行うわけだから、外部には公開されていないデータを用いた治安管理を実施するわけだが、公開された情報だけでかなり深刻な問題を引き起しかねないようなデータ分析もまた現実に行なわれている。FacebookなどのSNSやブログのメッセージの内容を分析することによって、人々の人間関係を大量に解析するソーシャルネットワーク分析も行なわれてきた。こうした分析を通じて人々の繋りが可視化され、ビジネスに使われる場合もあれば、治安監視や弾圧の手段にも使われるものになっている。こうした解析技術がアラブの春の弾圧に使われてきたのだ。[14]

上の図は、英語でのブログ投稿の内容をいくつかのカテゴリーに分けてマッピングしたものだ。捜査機関による解析ではないが、こうした解析から、誰がどのような話題を投稿し、どのような人間関係を構築しているのか、といった社会関係の解析に利用できる。こうした社会ネットワーク分析を政府が治安弾圧などの目的に利用することも可能なのだ。

5 コンピュータが理解する社会と私たちが理解する社会の本質的な違い

5.1 Society5.0の抽象的な「人間」モデル

Society5.0がデジタル全体主義になるのは、社会の内部にある様々な矛盾や対立を無視して、社会がシステムにとって都合のよいような均衡を実現できるようなモデルになっていることによる。

とはいえ、「社会」であるから、全ての人々を完全に抽象的な「個人」に還元するといったモデルになっているわけではない。Society5.0を支える人間像は、「表向き」は次のようなものだろうと思われる。

  • 性別はあるが、LGBTQのような性的マイノリティは想定されていない。
  • 年齢あるいは世代が社会構造のなかに存在していることは想定されている。
  • 国籍や民族の違いなどは想定されていない。
  • 企業の価値観に同調することが想定されている。
  • 政治的な関心に基づく多様性は想定されていない。
  • ネットを介した市場経済が提供する商品の消費に無条件に同調する消費者が想定されている。

5.2 実際の社会は矛盾や摩擦があり、AIもまた差別する

しかし、実際にSociety5.0が社会のなかに実装された場合、このモデルが想定している予定調和の世界から逸脱する様々な人間の行動が、このSociety5.0の阻害要因とみなされることになるだろう。実際には上のような抽象的なモデルではなくて、たとえば

  • 性別のデータベースが人口政策とリンクすれば「生む性」としての女性への差別的な扱いを助長する可能性がある。
  • 国籍や民族のデータが実際には重要な監視のために取得される可能性がある。
  • 労働組合、社会運動など人々の権利としての抵抗権や異議申し立ての行使がコミュニティの治安維持を口実に監視される。
  • 投票行動は匿名性を保証されず、ビッグデータから予測される各個人の投票行動が推測できるようになる。
  • 医療情報、逮捕歴、前科、職場や学校での懲戒処分の履歴、交通違反、クレジットの未払いや債務、近隣住民とのトラブルなどネガテイブな情報がコミュニティの「安全」にとって必須の情報として蓄積される。
  • 生体認証情報はこれらのデータを束ねる上で重要な鍵となる。
  • 移動情報(室内での人の動きから、GPSによる位置や路上の移動、職場の出退勤などまで)がリアルタイムで蓄積される。

こうしたデータが何らかの「意図」に基づいて処理されるとき、あるいは、処理のためのプログラムがAIに組み込まれるとき、そしてAIが自律的に学習するとき、この「意図」に込められている既存の社会の偏見や差別を機械が学習してしまうことが知らている。これまでもよく指摘されてきたのは、犯罪発生率が高い地域が有色人種の居住区であるという「データ」から、黒人であることを犯罪の原因に結びつけるという考え方が導かれたりする。データ相互を因果関係として結び付けようとする「人間」の発想には偏見が関与していることがあるが、これに気づかれないことが多々ある。こうなると、警察のパトロールや監視が特定の地域で強化されることが正当化されて、それが再び犯罪率の偏った統計に反映する。人間の差別や排除をAIが助長してしまうのだ。機械はあたかも中立的な装いをもち、数学的なアルゴリズムは「正しい」のだから結果もまた正しく、その価値判断も中立で客観的だという誤解を人々は持ちやすい。たとえ差別的な結果となっても、それが「差別」であることを証明することすらできない。

既に個別のデータベースとしては存在しており、これらを統合するシステムが構築されて横断的に参照されて将来の行動予測などに利用できるようにするための法的な条件さえ整えば決して難しいことではない。こうして、差別や特定の社会集団への監視がより強固なシステムとして構造化される。

5.3 政治的異議申立ての「犯罪化」がすすむ?

自由と人権を防衛するために、IoTの監視を拒否してこうしたシステムに対して抵抗する人達が、この統合的な監視のシステム全体に対して異議申し立ての行動をとるとすれば、こうした行動は、このシステムの側からはどのようにみなされるのだろうか。労働者のストライキの権利がこのスマートシティやスマート工場で行使されることを、システムは労働基本権の行使とみなすだろうか。あるいは、消費者がIoTの監視をボイコットする行動をとるとしたら、どうだろうか。こうした行動は、現実の世界であればイメージしやすいが、サイバー空間で行使されるということは、ある種のハッカーのような行動として「犯罪化」されてしまうのではないだろうか。サイバー空間では、私たちは、ストライキ、デモ、座り込み、ピケッティングなど現実の空間では、ネットワークの遮断、DOS攻撃、ウィルス作成、ハッキング、著作権侵害などとして権利行使の大半が犯罪化されている。Society5.0そのものは、ある種の絵に描いた餅のような空疎なモデルだが、こうした社会へと向おうとする資本と国家の意図は確実にあり、そのために財政や資金が投資に回されている現実がある。その最も典型的な状況が、次世代通信インフラとされる5Gへの投資であるもは間違いない。

5.4 コンピュータが描く社会システムには「弁証法」がない

たとえば、データの収集から意思決定までのプロセスは下記のようになる。[15]

何らかの解決したい課題があるとして、収集されたデータを用いて、ある種の「加工」をほどこして、何らかの意思決定を下すことによって、当初に設定された課題の解決に導く。この過程で生成されたデータや解析結果は現実の世界の一部を構成することにもなる。たとえば、失業率の実態を調査して対策をたてる場合、データ処理の結果は政策策定の意思決定に利用されると同時に、失業率がどれほどなのかというデータが「現実世界」の一部を構成することによって、人々の意識に影響を与えることになる。こうした作業をするためには、誰が失業者なのかを判断する基準が必要になる。総務省の労働力調査では、調査対象者(毎期10万人)がたまたま調査期間の1週間の間に短期のアルバイトをしていたら失業者にはカウントされない。就業していても食えるだけの賃金を得ていなくても失業者とはならない。

現実世界は無限に複雑であり、それをまるごとデータにすることは不可能である。何らかの方法で現実の世界からデータのもとになるものを抽出するわけだが、そもそもの「生データ」を作成する段階から多くの前提条件―そのなかには偏見がまぎれ込んでいたり、新自由主義的な経済理論に基づく処理がなされているかもしれない―によってデータが選別されざるをえない。

上記のフローチャートのうち、現実の世界からデータが整理されるまでの間には下記のようなデータを解析する人間の意図や意思が深く関わる。どのようなデータを収集するのか、収集したデータのなかからどのようなデータを組合せたり比較するなどの作業をするのかは、一定の「理論」や社会認識なしにはなしえず、最終的にコンピュータに解析させることができるようなデータに加工されて、「出力」されたときには、システムが内包しているイデオロギー的な偏りが科学や数学の客観性の装いのなかに隠されてしまう。(下記の図)[16]

図8: データサイエンティストの関与(Rachel Schutt、Cathy O’Neil『データサイネンス講義』、オライリージャパン、p.45)

このような一連のデータの解析の流れに特徴的なのは、どのような出来事であれ、その出来事がこの一連のコンピュータによってあらかじめプログラムされた世界の外には出られないということだ。あるいはフィードバックえを通じて現実の世界を変える余地があるとしても、それは、このシステムを根本的に破壊するような過程をとることもない。言い換えれば、社会が歴史的な存在として変化し、別の社会へと転換する過程を最初から排除しているのだ。

しかし、現実の世界は、むしろ、このような一連の流れのなかでデータとして収集、処理され、解析されるような領域には含まれない外部が常に存在する。上のフローチャートに「オリンピック」の項目があるが、ここにはオリンピックを廃止するという選択肢はどのように組み込まれるのだろうか。ありうるとすれば、財政的な観点から、その是非を問うという選択肢はありそうだが、そもそもオリンピックに内在している身体の資本主義的な偏向といった本質的な批判の観点は入れないのではないか。社会を変えようとする政治的社会的な人々の力は、データとして量化することができない価値観やイデオロギーと不可分だが、こうした観点は、このような社会ではシステムの円滑な運用にとっての阻害要因として否定されるのではないだろうか。

6 私はデータではない。私が何者かを資本や政府に決めさせない。サイバー空間での抵抗の権利へ

私が「データ」とされた瞬間から、私が何者なのかを決定する権限が奪われ始める。自己情報コントロールの権利や「忘れられる権利」は重要で、基本的人権の再定義の重要な課題であることは確かだが、それだけでは不十分になっている。そもそも、データとされること自体を拒否することが必要なのだ。そのためには何をなすべきなのか。何ができるのだろうか。技術はブラックボックスになり、その多くは極めて難解な代物だ。言論表現の自由、思想信条の自由がこうした難解で不可解な技術によって支配されるような事態になったのはここ半世紀のことだ。まだ半世紀である。この事態の方向を切り替える余地はいくらでもありうるだろう。

少なくとも、データを取得されないことの積み重ねは、このビッグデータの信頼性を損うことになりうる。些細なことのようにみえるが、些細なデータの欠落が重要なことに繋るものなのだ。ビッグデータの時代に、私たちがほんの数分であれ、身を隠すことができれば、それはもしかしたら大きな意味をもつかもしれない。Facebookにアカウントをもたない。Amasonでの買い物の履歴がない。クレジットカードの利用履歴がない。インスタグラムに写真がない。しかし、他方で、確実に多くの人々とのコミュニケーションの回路は維持できている…。政府にも資本にも理解しえない「私」のアイデンティティを自覚的に構築することは、反政府運動、反資本主義運動の重要な運動課題になるだろう。17

脚注:

1

脱工業化とは、資本主義中枢諸国が物的生産や農業などを周辺部へと再配置しつつ、国内の<労働力>構成がもっぱら金融、サービス、情報、経営マネジメント、物流などの分野にシフトする状態を指す。世界人口を食べさせる上で不可欠な食料や、生活必需品の生産そのものが世界規模で脱工業化するわけではない。

2

私の搾取概念については、拙著『搾取される身体性』、青弓社参照。

4

本籍国とは、一般には多国籍資本の本社が立地している国を指すが、それだけでなく、その資本が「我が国の企業」というナショナルなアイデンティティを満たすものとして、その国あるいは「国民」が認知するようなナショナリズムの心情が動員されるような国を指す。

6

経済産業省「ECHONET Liteのアプリケーション通信インターフェース(AIF)仕様に関する国際標準化の検討が始まります。―家庭用エアコンとHEMSコントローラーの相互接続性向上を目指して」2019年2月6日 https://www.meti.go.jp/press/2018/02/20190206001/20190206001.html

7

経団連は毎年のようにSocetyl5.0関連のレポートや提言を出している。「Society 5.0実現による日本再興 ~未来社会創造に向けた行動計画~」https://www.keidanren.or.jp/policy/2017/010.html 2019年の事業計画は「『「Society 5.0 for SDGs』で新たな時代を切り拓く」がタイトルにもなっている。https://lnews.jp/2019/05/l0531305.html

8

サイバネティクスをはじめとするコンピュータ科学の方法の問題については、拙著「サイバースペースにおける闘争と「主体」」『ポリロゴス』2号、2000年、『絶望のユートピア』桂書房に再録。

9

「2010 年に ECHONET Lite が HEMS の標準規格として推奨され、HEMS 補助金政策も開始されたことから、「スマートハウス」=「HEMS」=エネルギーを最適制御する住宅として世の中に浸透した背景がある。当初は一つのきっかけとして環境・エネルギー対策に取り組み、その後防犯や健康、快適サービス等に展開する予定であったが、エネルギー観点から抜け出せないまま現在に至っている。その間、各種センサをクラウドと連携させることで、多様なデータを安価に収集・分析し付加価値を高める取り組み、いわゆる IoT 機器が普及することとなった。Bluetooth や Zigbee 等の通信プロトコルを採用し、専用のゲートウェイを通じてクラウドと直接接続されるこれらのデバイスを、今更 ECHONET Lite 化して欲しいと要求するのも無理がある。また、そもそも ECHONET Lite 規格は家庭内のローカルネットワーク内での利用を想定しているため、クラウドから ECHONET Lite 機器を制御する汎用的なしくみが無いこともネックである。」 「IoT 機器の課題については、以下の二点が考えられる。 (1)個々のデバイス(サービス)がスマートフォンアプリと紐づいており、機器が増えてくると使い勝手が悪くなる (2)一つ一つは便利であっても、機器間の横の連携が取りにくい

(1)については、機器の設定や操作は全てスマートフォンアプリに統合されており、設定手順もアプリの指示に沿って行うようになっている。ただ、利用する機器が増えてくるとスマートフォンがアプリだらけになってしまう。(2)については、例えば帰宅した際は、スマートロックアプリを起動し鍵を開け、Hue アプリで照明をつけ、赤外線リモコンアプリでテレビやエアコンをつけるという、あまりスマートとは言えない使い方になってしまう。そこで、両者の機能をクラウド上で連携させることで課題を解決しようというのが本提案の主旨である。すなわち、ローカルネットワーク内の ECHONET Lite 機器を汎用的にクラウド接続するしくみを構築し、各社の IoT 機器のサーバーと連携させ、例えばスマートロックが開いたら、ECHONET Lite の照明やエアコンを ON し、赤外線リモコンでテレビをつけるといった連携動作を実現させる。」(三菱総研、「IoT を活用した社会システム整備事業(スマートホームに関するデータ活用環境整備推進事業)」第三分冊)

10

『調査報告書:平成 28 年度補正IoT を活用した社会システム整備事業(スマートホームに関するデータ活用環境整備推進事業)』三菱総合研究所、本論を収めた第一分冊の他に下記がある。第二分冊「新規サービス創出のための情報クラウド間連携基盤の実証」、第三分冊「IoT を活用したスマートホームクラウド構築及び検証」

11

経産省は、その後、2017年になって、国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構によるIoTを活用した社会システムの実証実験に産業保安分野・製造分野を加えた。 https://www.nedo.go.jp/news/press/AA5_100832.html

12

https://www.palantir.com/solutions/law-enforcement/ 下記の参照。Andrew Guthtie Ferguson, The Rise Of Big Data Policing, Surveillance, Race, and the Future of Law Enforce,ment, New York University Press.

13

Palantirによるデータ分析 https://www.youtube.com/watch?v=f86VKjFSMJE

14

ゼイナップ トゥフェックチー『ツイッターと催涙ガス ネット時代の政治運動における強さと脆さ』 毛利嘉孝(監修)、中林敦子訳、エレキング。

15

データサイエンスのプロセス(Rachel Schutt、Cathy O’Neil『データサイネンス講義』、オライリージャパン、p.45)

16

ウエッブスクライピング:入手したひとまとまりのデータを解析し、不要な部分を削ったり、必要な部分だけを取り出したり、一部を置き換えたり、並べ替えたりして、目的に適う形式に整形することをスクレイピングということがある。特に、WebページやWeb上で公開されているデータについてこのような処理を行うことをWebスクレイピングという。Webスクレイピングにより、Webページとして人間が見やすい形で公開されているデータを、ソフトウェアが自動処理しやすい形式に変換して活用することができるようになる。 クリーニング:データベースに保存されているデータの中から、重複や誤記、表記の揺れなどを探し出し、削除や修正、正規化などを行い、データの品質を高めること。 データマンジング:あるフォーマットのデータを別のフォーマットに変換すること。データランジング:取得したデータの型などを調整して統計分析や機械学習に適したデータにすること (http://e-words.jp)

17

かなり前に書いたものだが、下記も参照。「サイバー・スペースの階級闘争」金田善裕編『サイバー・レボリューション』第三書館、1995年。『絶望のユートピア』に再録

本稿は、つくばで開催された「6.8 集会とデモ: ビッグデータがもたらす監視社会 G20デジタル経済・貿易会合への批判」で発表しました。主催者のみなさんに感謝します。

ProtonMailをめぐる疑念から、問題の深刻さを考えたい

先月からProtonMailをめぐってネット上での議論が起きています。やや沈静化した模様ではありますが、私も含めてProtonMailを使っている方もいるので、ちょっと書きます。

発端は、Martin Steigerというスイスの法律家がブログに、ProtonMailが令状なしで、リアルタイム盗聴に協力しているのではないか、ということを書いたことにあるようです。
ProtonMail voluntarily offers Assistance for Real-Time Surveillance

この記事で彼は、チューリッヒのCybercrime Competence Center の検察官、Stephan Walderが昨年5月に刑法、刑訴法デジタル化のセミナーで、たまたま、捜査機関にとって都合のよい実例として、ProtonMailがリアルタイムの盗聴に令状なしで協力していると言及しました。

これに対して、ProtonMailはその事実を否定し、セミナーで発言したとされるWalderも、不正確な引用だとして、否定しました。

●スイスにおける監視法制の改悪

Steigerは、スイスの法規に厳格に従っていることをウリにしたビジネスをProtonMailは行なっているが、実は法律そのものに欠陥があると指摘します。

– スイスのデータ保護法は絵に描いた餅であって、しかもEUのGDPRより遅れていること
– 郵便と通信の監視に関するスイス連邦法(BÜPF)は、特に電子メールのプロバイダー、インスタントメッセージング、VPNサービスなどのインターネットサービスを監視できるように2018年3月1日に改訂されたこと

を指摘しています。 改正前のBÜPFは、インターネットサービスを除外していましたが、現在はProtonMailのようなサービスも監視対象になる、ということのようです。

ブログの記述からははっきりしませんが、ProtonMailのようなサービス業者は、メタデータへの捜査機関のアクセスについては令状なしでも応じる義務があるようにも読めます。しかし、このBÜPF法改正には、捜査機関によるリアルタイム監視を令状なしで行なうことに協力する義務は含まれていません。にもかかわらずProtonMailは任意で協力したことが批判されたわけです。日本のプロバイダーの任意の捜査協力にも通じる問題です。

●無令状盗聴をやっているのか?

議論になったのは、法的な義務がないのに、任意で、捜査機関のリアルタイう盗聴に協力しているという指摘は事実なのかどうか、という点にあります。Steigerのブログに対して、ProtonMailもセミナーで発言したWalderも、令状なしのリアルタイム盗聴を否定しており、このことをSteigerは後にブログに追記します。しかし、当事者が言葉の上で否定したとして、この言葉に信憑性があるのかどうかという疑念が残ってしまったわけです。

令状なしのリアルタイム盗聴をもし、実際にやっていたとすれば、ProtonMailにとっては大変なビジネス上のマイナスになります。広告で強調されているように、顧客のプライバイーを守ること、そのために、極力顧客の個人情報を取得せず、コミュニケーションのコンテンツ内容を知らることができない技術を用いることだけがビジネスの「信用」の基盤なので、下手したらこの信用が一挙に崩れかねないことにもなります。捜査機関側にとっても、本来令状をとるべきなのに令状なしで盗聴すれば、違法捜査になります。双方ともこの「事実」を認めることに何ひとつメリットはありません。だから当事者が否定しても、にわかに信じがたい、ということになるのは当然ともいえます。

スイスのインターネット関連の法律では、そのサービスや規模によって、当局に対するデータの提供などの義務に濃淡があり、SteigerはProtonMailはインバウンドコミュニケーションサービスの企業だと指摘しています。これに対して、ProtonMailは自らを監視義務が軽減された電気通信サービス提供者(FDA)だと主張しており、法的な位置付けでも解釈の対立があります。私のようにスイスの法規に疎い者には判断しかねるのですが、当事者にとってすら、法の適用や解釈であいまいな点があるということ自体が問題だといえます。

ではProtonMailは全く顧客に対するリアルタイム監視をやっていないのかというと、そうではないとSteigerは指摘します。ProtonMailは最近のリアルタイムモニタリングの事例について以下のように述べているからです。

「2019年4月、明確な犯罪行為の場合に、スイスの司法裁判所の要請により、スイスの法律に違反する特定のユーザーアカウントに対するIPログ記録を有効にした。」
(ProtonMailの透明性レポート )

Steigerは、このProtonMailの態度は、推定無罪の原則に違反するものだと批判しています。この批判は重要な問題を指摘してるともいえますが、捜査段階で推定無罪を捜査機関に求めるのは、無理があることも事実でしょう。ProtonMailは、裁判所の令状があっても、明確な犯罪行為があったとは認められなければ裁判所の要請を拒否するのでしょうか。そうではないでしょう、たぶん。ProtonMailは「明確な犯罪行為」とか「スイスの法律に違反する」という判断を下せないはずです。

また、Steigerはメタデータを捜査当局に提供できる点への危惧をユーザはもっと自覚すべきだと指摘しています。メタデータには、IPアドレス、送信者、受信者のアドレス、個々の電子メールの件名、日付と時刻、電子メールの長さなどが含まれ、これらから、かなりの情報が収集可能だという点を軽視すべきでないとも指摘しています。これはスノーデンも指摘していることだとSteigerは、スノーデンの言葉を引用しています。

●スイス法の限界

では、ProtonMailが宣伝で強調しているスイスのプライバシー法制や中立国としての立場の優位性は、ProtonMailのユーザを保護できるのでしょうか。この点についてもSteigerは悲観的です。

– 改訂BÜPFは、特にProtonMailなどのインターネットサービスを対象としている。
– 新しいインテリジェンスサービス法 (NDG)により、ProtonMailの使用は、 ケーブル監視その他の多くの監視手段による大量監視の対象となる可能性がある。
– スイスのデータ保護法は、絵に描いた餅であるか、諜報機関、警察当局、および検察官による監視には適用されない。
– スイスでの監視措置は強制措置裁判所 (ZMG)の秘密の司法機関によって承認されるもので、セキュリティ当局の効果的な監督下にはない。

上で述べられた法や制度の詳細を私は知りませんが、どこの国にも共通する諜報機関や国家安全保障、捜査機関への例外的な特権付与がスイスでも変りない、ということです。議論の余地ああるとすれば、スイスが他の欧州諸国よりマシなのかどうか、でしょう。この点でSteigerはEUに軍配を上げています。

最後にSteigerは、ProtonMailの広告に偽りあり、として、次のように述べています。

ProtonMail(またはProtonVPN)のユーザーは、サービスが信頼できるかどうか自分で判断する必要がある。

●ProtonMailの反論

これに対して、ProtonMailはブログで反論を書いています。
Response to false statements on law enforcement surveillance made by Martin Steiger

この反論では、リアルタイム盗聴については言及されていませんが、厳格に法を遵守していることを強調しています。ただし、Steigerも指摘しているスイスの関連法規の解釈にあいまいさがあることは認めていますが、解釈はSteigerとは異なるものだと言い、法解釈にあいまいさが残らないような措置を求めてもいます。

●私たちの問題として

これまで、私は日本のプロバイダーが日本の国内法に縛られ、また任意に個人情報を捜査機関や企業に提供してきたことから、よりプライバシー保護にシフトしているメールサービスのひとつとして、ProtonMailを紹介してきましたし、日本語化にも協力してきました。こうした私の行動で、ProtonMailにアカウントをもった方を何人も知っています。この意味で、今回、ProtonMailをめぐって起きている批判をきちんと紹介することも私の責任だと感じています。

やっぱりProtonMailもヤバいんじゃない?という声が聞こえてきそうです。これまでセミナーなどでProtonMailなどを紹介するときにコンテンツは暗号化されるがメタデータは暗号化されないこと、メタデータの重要性などを指摘してきました。その上で、やはりコンテンツの暗号化サービスは私たちにとっては重要であることに違いはありません。

Steigerは、サービスの信頼性は自分で判断すべきだという言葉で締め括っていますが、ではどうやって信頼性を確認できるのでしょうか。広告であれ透明性レポートであれ、いずれも「言葉」であって、実装されているプログラムそのものではありません。オープンソースとして公開されているプログラムの場合であれば、まだ実際の仕組みを技術的に確認できるかもしれませんが、果して皆が理解できるでしょうか。私たち皆がプライバシーの権利を守るための前提知識として、こうしたプログラムを理解することは、ほぼ不可能に近いでしょう。たとえ自分では理解しがたいプログラムであっても、知的財産権などでブラックボックスになっている技術よりは、公開されていることの方が、ずっとよいことは間違いないとも思います。

ProtonMailに疑問があるという場合、代替的なサービスとして何があるの、ということになります。この点についてSteigerは言及していません。私は、Tutanotaをもうひとつの選択肢として推薦してきました。では、Tutanotaは、ProtonMailよりも信頼できるのかどうか。Tutanotaも任意で捜査機関に協力することはないのかどうかは、わからないとしか言えません。ドイツに拠点がありますから、5Eyesと連携する(日本同様の)諜報機関を抱えている国でもあります。

日本のコミュニケーション法制が政府の監視や民間営利企業による情報収集に対して、プライバシーの権利や、自己情報コントロールの権利を優先させていないことは繰り返し批判されてきました。しかし、技術を法で規制できるというのは、幻想だと私は感じています。そしてまた、ITの技術者のなかに、コミュニケーションの権利を支えるような強固なコミュニティが生まれていないこと、政治や人権や市民的自由に深い関心をもつハッカーコミュニティがとても小さいということもまた問題だと思います。明らかにインターネット草創期にあった、企業や政府から自立した技術者たちの姿が、見えにくくなっているように感じるのは多分私の年のせいだろうとは思いますが。あるいは、国家安全保障や捜査機関のセキュリティがIT業界全体にとってビジネスチャンスとなってしまった結果かもしれません。

今、世界各国で、民衆が政府や巨大企業と対峙して大衆的な運動を展開するときに、ネットの世界は重要なコミュニケーションの武器になります。しかし同時に、権力による反政府運動への監視の道具となって人権弾圧の手段にもなっています。同じことは日本にもいえることです。5Gになればこうした動向は、ますます法の支配を逃れて技術のブラックボックスに支配される危険性があります。日々のコミュニケーションの権利をどう確立するのか、という問題は、非常に深刻な状況にきているといえます。

ProtonMailの問題を考えながら、監視されずに自由にコミュニケーションできる環境を、日本でどのように構築するのか、この問題への「答え」が出せないといけないと改めて感じています。

Statewatch:盗聴なき世界? 公式文書、5G技術が「合法的傍受」に及ぼす影響に対する懸念を強調

このレポートについては、先に「EUにおける盗聴捜査をめぐる新たな動き(5G、IoTの動向踏まえて)」として投稿したStatewatchのプレスリリースで言及されているものです。

なお、5Gについての技術的な記述については、服部武、藤岡雅宣編『5G教科書』(インプレス)を参照してください。

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分析
盗聴なき世界? 公式文書、5G技術が「合法的傍受」に及ぼす影響に対する懸念を強調
Analysis
A world without wiretapping? Official documents highlight concern over effects 5G technology will have on “lawful interception”
Chris Jones
June 2019

はじめに
現在、西欧諸国に設置されている5G通信インフラストラクチャを管理している中国のテクノロジー企業Huaweiが、メディアと政治の大きな問題となっている1。しかし、5Gは同時に、ヨーロッパの治安当局の間でパニックを引き起こしている。法執行機関が電気通信の「合法的傍受」(より一般的には盗聴として知られている)を実行する能力を劇的に損なう可能性があるからだ。

この状況に対処するための提案には、国際規格策定機関の活動に影響を与えること、および電気通信会社に[盗聴可能な]技術的要件を強制する新たな法律を導入することが含まれる。EuropolとEUのテロ対策コーディネーターによると、これは盗聴の可能性を確実に維持するために必要であるという。一方、5Gが「モノのインターネット」のバックボーンを提供すると考えられていることを考えると、既存の合法的傍受の慣行が依然として可能かどうかにかかわらず、膨大な数のデータが法執行機関に利用可能となるだろう。これまでのところ、この問題に関する議論はもっぱら密室で行われてきた。しかし、市民的自由への影響を考えると、もっと大衆的な議論を行う必要がある。

2 合法的傍受にとっての難問

「ファイブアイズ」スパイアライアンスの諸国(オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、イギリス、アメリカ)の中でも、法執行機関にとっての5G技術が提起した問題は、オーストラリアでしか公に提起されていないようだ。2018年2月、オーストラリアの内務省および法執行機関は、「電話会社[通信会社]と政府にとって5GおよびIPv6テクノロジは通信にアクセスすることを著しく困難にする」と主張して議会調査を提起した。2

現在議論はEUでも行なわれているが、現時点でそれは密室で行われているだけだ。 EUのテロ対策コーディネーターであるGilles de Kerchoveは、5月初めにEU理事会でEU加盟国の代表団に説明会の文書を送付した。 彼はそれをわかりやすく説明している。

「5Gは、法執行機関および司法当局による合法的傍受の実施を困難にする。5Gの高いセキュリティ基準と細分化された仮想化アーキテクチャにより、法執行機関および司法当局は貴重なデータへのアクセスを失う可能性がある。」3

技術的問題についての詳細は、Europolが作成し、4月中旬に理事会法執行作業部会(LEWP)に送付する文書に記載されている。4 この文書では、「ユーザの特定とローカライゼーション」および「情報へのアクセシビリティ」という二つを主題としている。

2.1。 個人やそのデバイスの位置と特定

現在、IMSI(国際移動加入者識別)、すなわちあらゆる通信プロセスの間にバックグラウンドで送信され、識別および位置特定のために使用することができる装置に添付された固有のコードを通じて個々の携帯電話を個々に識別することが可能である。 “Europol文書の言葉では、5Gネットワークとデバイスの計画ではIMSIが暗号化される。つまり、「セキュリティ当局はモバイルデバイスを見つけたり識別することができなくなり」、ユーザーデータに対する電気通信会社へ要求によって「デバイスを特定の人物に割り当てることができなくなる」。

同時に、5GはIMSIキャッチャーを時代遅れにする可能性がある。米国およびカナダでは「stingrays」とも呼ばれるIMSIキャッチャーは、Privacy Internationalによって次のように説明されている。

「IMSIキャッチャーは、特定の地域で電源が入っているすべての携帯電話を見つけて追跡するために使用できるプライバシー侵害技術だ。IMSIキャッチャーは、携帯電話の中継基地になりすますことでこれを実現する。 IMSIキャッチャーに接続し、そこからあなたの知らないうちにあなたの個人的な詳細を暴露する。」5

IMSIコードの情報にアクセスする機能は、コードがSIMカードではなく個々のモバイルデバイスに付属しているため、警察にとっては非常に有用なのだ。SIMカードは、デバイス自体よりも安価で簡単に変更できるからだ。 Privacy Internationalは、IMSIのキャッチャーは「誰が政治的デモに参加したのか、フットボールの試合のような公のイベントに参加したのかを追跡するために使用できる無差別監視ツール」だと延べている。一方、Europolの論文では、それらを「最も重要な戦術的な運用および捜査ツールの1つ」、および「加入者識別モジュール(SIM)を頻繁に変更する人に対する合法的監視を実施するために不可欠」としている。

その是非はどうあれ、5GはIMSIキャッチャーを根絶させるだろう。5Gは「偽中継基地検出false-base detection」と呼ばれるものを採用する。これはプロバイダーのモバイルネットワークとユーザーの携帯機器の両方がIMSIキャッチャーのような「偽」の基地局を検出するのをを可能にする。 その結果、警察当局は、「法的に許容される技術的な捜査および監視措置を実行することがもはや不可能になる危険性がある」と警告している。

2.2 情報の可用性とアクセス可能性
Europolはこの見出しの下で3つの問題を提起している。 “ネットワークスライシング network slicing”、”マルチアクセスエッジコンピューティングMulti-Access Edge Computing(MEC)”、法執行機関やセキュリティ機関にも古くから知られているものの1つである、端末間の暗号化、である。

2.2.1朝飯前

ネットワークスライシングを使用すると、同じ物理インフラストラクチャ上でさまざまな機能やアクティビティを実行しながら、多数のデジタルネットワークをセットアップできる。業界団体のGSMAは、移動体通信ネットワークを使用するさまざまなタイプのビジネスにはそれぞれ異なる要件があると述べている。たとえば、あるビジネスカスタマーは超高信頼サービスを必要とし、 他のビジネスカスタマーは、超広帯域幅通信または超低遅延時間を必要とするかもしれない。

ある意味では、「最も論理的なアプローチは、1種類の法人顧客にサービスを提供するように適合された専用ネットワークのセットを構築することである」とGSMAは言う。しかし、「はるかに効率的なアプローチは、共通プラットフォーム上で複数の専用ネットワークを運用することである。「ネットワークスライシング」が可能にするものがこれだ。6

Europolの文書は、ネットワークスライシングの技術的な利点を認識しているが、法執行機関への影響について、より一層の関心をもっている。

「将来、合法的傍受を実行するためには、法執行機関は国内外の多数のネットワークプロバイダの協力を必要とすることになろう。多くが(国内の)規制対象となる一方で、こうした帰省に従わないかもしれない「民間のサードパーティ」ニヨッテ担ワレテイル「プライベートスライス」が潜在的にありうる。」いずれにせよ、情報が細分化されているため、ネットワークスライシングの存在は、法執行機関によるアクセスが可能とならないという潜在的な課題をもたらす。」

EU加盟国の当局が別の加盟国の電子サービスプロバイダから直接データを要求することができるようにする「電子証拠」に関する新しいEU法の提案は、すでに多くの理由で物議をかもしていることが明かになってきている7。5G技術も、類似の問題をはるかに大きな規模で複雑で解決困難な問題を提起する可能性がある。

2.2.2 エッジの近くに

「エッジコンピューティング」とは、個々のデバイスから中央のデータシステムにデータを送信したり、返したりするのではなく、コンピュータネットワークの「エッジ」にあるシステムを使用して機能を実行することを指す。つまり、遅延時間(コマンドの発行から応答の受信までの時間)が短くなり、帯域幅の使用量が少なくなり(デバイスからの特定のデータのみを中央の場所に送信する必要があるため)。特定のデータがデバイスから送信され、安全でないネットワークを経由したりしないようなセキュリティの利点がある。欧州電気通信標準化機構によると、「マルチアクセスエッジコンピューティング(MEC)は、アプリケーション開発者とコンテンツプロバイダーに、クラウドコンピューティング機能とネットワークのエッジにあるITサービス環境を提供する。」9

これは純粋に一元管理されたシステムを使用するよりはるかに便利で効率的かもしれないが、警察にとって明らかに不便だ。 Europolは以下のように延べている。

「…デバイスは将来、ネットワーク事業者のコアネットワークを使用せずに互いに直接通信できるようになるだろう。ユーザー間のこの直接通信は、法執行機関のデータ検索に重大な結果をもたらす。コミュニケーションの内容と識別子はもはや中央ノードを介して指示される必要がなく、これは情報が法執行機関に利用可能またはアクセス可能でないくなるかもしれないことを意味する」

2.2.3 エンドツーエンドの暗号化

一般的なメッセージングアプリケーションによる端末間暗号化のデフォルトの使用に関する開かれた討論が何年も続いている。議論は一般的に、政治家や公務員が、法執行機関のために暗号化されたデータへのアクセスを促進するように企業に呼びかけ、これに対して、セキュリティや技術の専門家は、こうしたことを行うのは、取り返しのつかないセキュリティ欠陥を招かずに行なうことはできないと指摘してきた。

5Gが広く使用されるようになると、国際的な標準化機関がすべてのネットワーク通信の端末間暗号化を必須にすることを検討しているため、法執行機関にとって事情がさらに複雑になる可能性がある。Europolの論文によると、

「5G規格ではE2E(端末間)暗号化は必須ではないが、関連プロトコルは関連プロトコル規格(リリース15)に組み込まれている。したがって、将来の標準化プロセス(りりーす16)で標準にE2E暗号化が含まれる可能性がある。代替案は、端末[すなわち機器]製造業者が(自発的に)この機能を実装することだが、いずれにしても、E2Eは、合法的傍受の枠内で通信コンテンツ分析を実行することを不可能にするだろう。」

現在のケースでは、暗号化された通信のテレコミュニケーションメタデータ – 誰が、いつ、どこで電話をかけるのか – にアクセスすることは依然として可能だが、特定の通信の内容または通信の理由を発見するのははるかに困難だ。IMSIコードの暗号化と「ネットワークスライシング」の導入によって提起された問題を考えると、メタデータもより困難になるかもしない。

2.2.4 セキュリティ問題:ネットワーク機能の仮想化

5Gネットワークの開発はまた、法執行機関が、通信監視対象者数のリストの機密性を維持する可能性に関する問題も提起する。この問題は、ネットワーク機能の仮想化と呼ばれるものが原因で発生する。これにより、以前は特定のハードウェアで行われていたタスクをソフトウェアを使用して実行できる。以前の法執行機関の「ターゲット」リストは、アクセスとセキュリティチェックに制限がある電気通信会社のオフィスに保管されていたが、ハードウェアの「仮想化」は、伝統的に使用されてきた傍受タスクを時代遅れする。

Europolによると:

「このNFVは、犯罪者が監視対象の電話番号(ターゲットリスト)にアクセスしたり番号を変更したりするために攻撃を仕掛けることができることを意味する。現在のところ、これらの攻撃シナリオを防ぐ市販のハードウェアはない。例えば、モバイルマストの保守、中央管理サービス(顧客/ユーザーデータベースなど)の提供など、海外への移動が可能になるため、監視対象の電話番号/人物のリストを他の国に転送する必要がある。したがってここでの課題は、上記の課題とは対照的に、合法的傍受に関して、特に標的リストに関する法執行情報の機密性と完全性である。」

●3 何をすべきか:法執行機関の見解

Europolとテロ対策コーディネーター(CTC)は、伝統的な合法的傍受措置の陳腐化が迫り来るのに対処するために、国内およびEU当局が講じうるさまざまな行動を強調する。CTCは、この問題に取り組むための3つの「一般的な考慮すべき事項」を提示ている。

3.1。基準の設定

まず、CTCの文書では、「標準の定義に影響を与えるのにまだ遅すぎるとはいえないだろう。法執行機関の懸念を考慮に入れるために政治的圧力を強めることが重要になるであろう」と述べている。5G技術の標準化の開発は3GPP、12と呼ばれる機関で、SA3-LIと呼ばれるサブグループにおいて、合法的傍受の標準とともに議論されている。Europolの文書は以下のように指摘している。

「……比較的少数の人々が合法的傍受の問題を代表している。一部の者にとっては、この問題を推進するのは副次的な作業である。したがって、5G開発グループとLI [合法的傍受]標準化グループの間には不均衡がある。プライバシーとセキュリティへの配慮の重要性を考慮し、これらを支持する一方で、現在の設計によるプライバシーのアプローチは、5G開発の犯罪的的な乱用を制限する合法的傍受の分野における法執行機関のニーズとのバランスのとれた検討の余地がほとんどない。

標準は、「リリース」と呼ばれる一連の文書を通じて開発されている。3GPPは、2019年12月に5G規格の最終リリース(Release 16)を公開する予定だ。CTCは次のことを強調している。

「一部の技術仕様は以前のリリースですでに凍結されていたが、法執行機関の懸念を表明する時が来ている。リリース16の一部として、合法的傍受規格、および端末間暗号化の可能性とともに、ついてさらに議論されるであろう」

しかしCTCは、当局の拒否権や全会一致の原則にはよらずに、3GPPが「出資者に依存する議決権」や「業界の利益によって推進される」と警告している。それゆえ、EuropolとCTCは、より多くの法執行官を作業部会に送り込もうという考えを支持している。CTCは、次のように主張している。「合法的傍受サブグループ[SA3-LI]における法執行当局のプレゼンスの向上が重要であろう」。法執行機関はまた、「他のサブグループで起きていること、および通信以外の新しいプレーヤーの役割の拡大についての全体的な概観を把握する必要がある(例:衛星プロバイダー、ワイヤレスキャリアなど)」。具体的には、CTCは、この委員会が参加している標準化団体でこの問題を取り上げること、およびEuropolがETSIおよび3GPPの合法的傍受サブグループの両方のメンバーになることを検討するよう提案している。加盟国の当局も「参加することが奨励されている」。

立法化は、法執行機関の要求を満たす選択肢となる可能性があるが、「同時に標準にも要件を盛り込むことが望ましい」とCTCは結論付けている。これに続いて、この文書では法執行機関が特定の方法でネットワークを設計するように会社に圧力をかけるべきであると主張する。

「標準化とは無関係に、ネットワークの特定の構成を設計することによって、法執行機関および司法上の懸念を考慮に入れるよう運営側と対話することが必要である。」

3.2。新しい法律

国際標準に影響を及ぼそうとすることが潜在的にな困難であることを考えるた場合、設定体、CTCは、国内での立法化を優先して「法執行機関のニーズを実現する立法化も必要である」と考えている。Europolの文書はこの点について次のように同意している。

「したがって、現在進行中の5G標準化プロセスの枠組みの中で、また将来の技術開発を視野に入れて、合法的傍受に関する現状を少なくとも確実にするために、国内立法措置が優先事項と見なされる」。

加盟国は立法活動を調整すべきであり、CTCと法執行当局は多くの問題を考慮に入れるように各国政府に働きかけるべきだと論じている:

「すべてのプロバイダーの登録と、IMSIキャッチャーのような技術手段の実施を確実にするための協力を行なうために、位置データが常に利用可能なようにネットワークを構築するために、完全かつ復号化されたモニタリングのコピーを抽出する領土上のサービスを提供するようすべてのプロバイダーに強制すること。」

これらの提案の最初のものはどちらかといえば不明瞭だ。例えば「コピー」が何のコピーのことなのかはっきりしない。また、暗号化「バックドア」の必要性を暗示しているようでもある。もしこれが正しいなら、近い将来再び問題にされるだろう。前述のように、これは公民権団体、技術者、セキュリティ専門家が政治家や関係者にそのような「バックドア」が彼らが思うようにはうまく機能しないのか、その理由を正確に知らせる必要がある。

2つ目の提案はもっと直接的だが、おそらく通信ネットワークインフラストラクチャを構築し運営する企業や、おそらく追加の費用を支払うことになる顧客から大きな抵抗を受けることになろう。3番目と最後の提案は、5Gネットワ​​ークにおける「偽通信基地検出」機能が無効にされるかバイパスされる可能性におそらく依存する。

CTCはまた、「共通のEU立法の枠組み」は、サービスプロバイダーに対してより強い影響を与える」ことになるから、法執行機関の利益に有益かもしれないし、標準の細分化を避けることになろうし、「EU内部で遂行される一定の機能を要求しうるものとなり」、EU以外の国で複数のプロバイダからデータを取得する可能性を容易にするだろうと述べた。EU内部の共通の法的枠組みは「時間がかかるので、それはすぐの解決策にはならない」としながら、以下のように述べている。

「この技術を考えると、今日の純粋に国内の傍受が5Gのもとでは、国境を越える側面が増える可能性があり、EU内での合法的/リアルタイム傍受の国境を越える面を促進しうるであろう。この点については、電子証拠の立法化の草案ではカバーできず、5Gの将来の展開を考えると、立法には別の意味での緊急性と必要があるかもしれない。」

3.3。警察ワーキンググループ

これらの優先事項を超えて、CTCはまた、「通信傍受ユニットの長」が集まる5Gに関するEuropolの新しいワーキンググループの継続を望んでいる。Europolの文書によると、このグループは2018年4月に「限られた数の専門家」で開始されたが、この問題が2018年9月に欧州警察署長会議the European Police Chiefs Conventionの議題に入れられた後、ドイツのBundeskriminalamtはこのイニシアチブを支持し、2019年2月にさらに大きな会議が開かれた。CTCは、Eurojustと全国の通信会社がこのワーキンググループに参加するよう招待されることを提案している。

「サイバーセキュリティの懸念は、時には法執行の懸念と矛盾する可能性があるため」、法執行機関や司法当局がサイバーセキュリティ機関に関与する必要がある。たとえば、データの暗号化に対する要求とそのすぐに利用可能にできることへの要求。

CTCとEuropolはEUの機関でさらに議論すべきと考えている。Europolは、委員会と評議会議長国の役割、および「ヨーロッパの安全保障当局レベルでの相互の交流の必要を述べるが、また、これを越えて、「米国、CAN [カナダ]、AUS [オーストラリア]などの国際協力パートナーとの」交流をも指摘している。CTCは、この問題を評議会の内部安全保障委員会(COSI)、そして最終的には司法内務(JHA)評議会に持ち込む必要性を強調している。実際、JHA評議会は今後数日以内にこの問題を議論するようだ。 – 「内部安全保障の分野における5Gの影響」は6月7日金曜日11時30分の議題にある。

4.古きを捨て、新しきを得る

5G技術の導入がある種の「伝統的な」法執行措置をより一層困難にするか、あるいはおそらく時代遅れのものにするだろうことは明らかだが、Europolもテロ対策コーディネーターも、これらの文書では、他の諸変化についても紹介している。5Gネットワ​​ークをめぐる誇大宣伝を信じるならば、その主な機能の1つは、「モノのインターネット」を通じて、個人、物、デバイス、そして環境に関する膨大なデータの生成、保存、共有を可能にする。これは、本質的に考えうるほとんどすべてのものにセンサーや無線ネットワーク技術を設置して、それをインターネットに接続するということを意味している。

2015年3月、Gunther Oettinger(当時のデジタル経済社会評議員)は、バルセロナで開催されたMobile World Congress見本市で、5Gの謎を観客に説明した。スピーチの中で、彼は5Gが「唯一つのインフラストラクチャ。誰もが5Gを使用するようになります。いつでもどこでも、移動中も、ほぼゼロ遅延と無限の知覚能力で常に最上の接続が可能になります」と主張した。ヨーロッパは明らかに「この明るい5Gの未来への旅」の最前線にあり、そこではネットワークは「私たちが吸う空気と同じくらい広く行き渡り、あらゆる種類の様々な用途に使うことができることになるでしょう」。 「冷蔵庫から暖房まで、病院から工場まで、あらゆる産業」 – そしておそらくすべての人にいたるまで – 「この新しい現実に適応する必要があるでしょう」15

法執行当局とその職員は、これらの迫り来る技術開発に長い間関心を持ってきた。 2007年に、ポルトガルの当局者によって書かれた「コンセプトペーパー」は、個人によって作成された「デジタルトレース」の数が「今後10年間で数桁増加する可能性がある」と主張した。ますますつながりが増す世界では…セキュリティ機関はほぼ無限の潜在的に有用な情報にアクセスできるようになるであろう。」17

ごく最近、Police Foundation(「英国の警備シンクタンク」)も同様の主張をしていル。IoTは「警察の捜査のゲームを変えることになるだろう」、この素晴らしい新世界[ハクスレイの同名の小説を示唆している]で生成された膨大な量のデータにアクセスすることは「作業量の点で警察にとって潜在的に大きな挑戦となる」ことをを示している。18 学者、市民社会組織および米国の諜報機関職員によって書かれ、ハーバード大学のバークマンセンターが出版した論文では、次のように主張している。

「IoTが予測どおりの影響力を持っているとすれば、将来、法執行機関監視の命令で作動するセンサーであふれることになろう。これは監視の機会が消え去るような世界とはかけ離れた世界だ。こうした傾向を理解し、私たちの構築された環境は、家庭や外国政府、そして私たちの個人的な空間を変える製品を提供する企業によって、どの程度広く監視へと開かれているのか、こうした傾向を理解し、慎重に決定を下すことが不可欠だ。」19

企業はもちろん、法執行機関がこうした動きに適応することに加担している。世界中の警察が使用する携帯電話のデータ抽出システムの大手メーカーCellebriteは、法の執行を容易にし、作業を自動化し、手動レビューを排除するため、AIと機械学習によって強化された「デジタルフォレンジックソリューション」を自慢している。」20

工業化された(またはポスト工業化の)西洋社会に住む個人によって生み出された「デジタル痕跡」の数は過去10年間で大幅に増加したことは明らかであり、今後も増加し続けるだろう。EuropolとCTCはこの事実を熟知している。そして彼らは論文の中でこの点を取り上げないのには理由があるのは間違いない。しかし、「伝統的な」監視戦略を維持するために政府によってより厳しく規制されなければならないと彼らが主張しているまさにその同じ技術が、さらに新規の侵入的な技術の可能性を生み出すであろう。

この点について、バークマンセンターの調査は「機械や家電製品におけるネットワーク化されたセンサーの普及の増加は、監視の機会を増やすことを意味している。これの意味合いは以前に引用された警察財団の論文で提起されており、そこでは、「特定の個人にリンクされているデバイスを介してデータにアクセスすると、プライバシーの侵害や基本的な問題が発生する可能性があり、規制のない現段階では、警察と一般市民との関係の変化をもたらす」と述べている。

5. 開かれた議論の必要性

米国では、近年いくつかのケースで、法執行機関が「スマート」機器の収集データにアクセス可能になるという問題が提起されている。2018年11月、裁判所は、殺人事件捜査の一環として、Amazonに、Echo機器の1つの録音を警察に提供するよう命じた21。2年前、警察は殺人容疑者が「2時間の窓に使用した水量から」現場を掃除したと考えて「スマート水道メーター」だけでなくEchoデータへのアクセスをも要求した。22

同じ年に、男性のペースメーカーのデータへのアクセスから、彼は放火と保険詐欺で起訴されることになた。2015年にペンシルベニア当局は女性のFitbit[フィットネス用のデバイス]のデータが犯行当時の彼女の居場所と矛盾したことから、強姦罪を却下した。 23 2003年にまでさかのぼって、米国の裁判所はFBIが自動車の車内のシステムの安全機能を無効にする必要があるという理由で、車内安全システムを車内盗聴装置として使用することを認めた判決を覆した。しかし、この決定は、車載オーディオ機器を盗聴するためにドアを開けることは容認した。24

大西洋のこちら側では、このような問題はまだ一般的には注目されていないが、通信やデバイスデータへのアクセスに関する警察の権限の限界について長年にわたって議論が続いている。英国では、Privacy InternationalやBig Brother Watchなどの団体が、携帯電話内に保存されているデータの令状なしでの抽出の問題を提起し、EUの団体は、多くの監視問題についてのキャンペーンを続けきた。より広範には、データ保持に関する重要な法的基準ガ、キャンペーン団体や個人が提起した訴訟を通じて定められてきており26、(各国政府は依然としてEU全体の規則を再導入することを望んでいる27)。そしてここ数年、EUの新たなデータ保護法が制定されてきた。これには、警察および刑事司法部門におけるデータ保護に関する措置が含まれている。しかし、これらの枠組みが将来の技術的な発展の可能性に照らして十分であるかどうかは未解決の問題である。

政策や標準設定の議論において、警察や内務省の代表者の出席が増えれば。これらの機関の管理や監督の責任者の一層の参加を求めることになるだろうか。「可用性の原則」に基づいて相互運用性を確立し、データベースを統合し、警察の目的に合うように技術的進歩をしていくことは、EU全体の州政府機関が個人に関する詳細で親密な情報にアクセスする可能性を著しく高める可能性がある。5Gネットワ​​ークとIoTの宣伝があふれているnakade、民間企業だけでなく公的機関によっても新技術が監視に提供sareru可能性について、より広範な議論が必要だ。伝統的な電気通信の傍受や5G技術に関するEuropolやCTCのような機関の要求は、こうした文脈で理解すべきであり、さらにオープンに議論されるべき問題である。彼らの問題提起は、5Gと関連技術が可能にする広範囲で危険な監視の可能性について、より幅広い議論うする上での有益な出発点として役立つかもしれない。

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1
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2
Allie Coyne,‘Aussie law enforcement warns telcos of 5G, IPv6 data access ‘burden’, itnews, 26 February 2018, https://www.itnews.com.au/news/aussie-law-enforcement-warns-telcos-of-5g-ipv6-data-access-burden-485897; Australian Government Department of Home Affairs, ‘Joint Submission to the Inquiry into the Impact of New and Emerging Information and Communications Technology’, http://www.statewatch.org/news/2019/jun/aus-interior-ministry-submission-new-technologies-2-18.pdf
3
‘Law enforcement and judicial aspects related to 5G’, Council document 8983/19, LIMITE, 6 May 2019, http://statewatch.org/news/2019/jun/eu-council-ctc-5g-law-enforcement-8983-19.pdf
4
‘Position paper on 5G by Europol’, Council document 8268/19, LIMITE, 11 April 2019, http://statewatch.org/news/2019/jun/eu-council-ctc-5g-law-enforcement-8983-19.pdf
5
‘IMSI Catchers’,Privacy International, https://www.privacyinternational.org/explainer/2222/imsi-catchers
6
GSMA, ‘An introduction to network slicing’, 2017, https://www.gsma.com/futurenetworks/wp-content/uploads/2017/11/GSMA-An-Introduction-to-Network-Slicing.pdf
7
‘New EU laws on e-evidence are being negotiated – but what about human rights?’, Fair Trials, 18 April 2019, https://fairtrials.org/news/new-eu-laws-e-evidence-are-being-negotiated-%E2%80%93-what-about-human-rights
8
Eric Hamilton, ‘What is Edge Computing: The Network Edge Explained’, 27 December 2018, https://www.cloudwards.net/what-is-edge-computing/
9
‘Multi-access Edge Computing (MEC)’, ETSI, https://www.etsi.org/technologies/multi-access-edge-computing
10
Amie Stepanovich and Michael Karanicolas, ‘Why An Encryption Backdoor for Just the “Good Guys” Won’t Work’, Just Security, 2 March 2018, https://www.justsecurity.org/53316/criminalize-security-criminals-secure/; ‘Issue Brief: A “Backdoor” to Encryption for Government Surveillance’, CDT, 3 March 2016, https://cdt.org/insight/issue-brief-a-backdoor-to-encryption-for-government-surveillance/; Bruce Schneier, ‘Ray Ozzie’s Encryption Backdoor’, Schneier on Security, 7 May 2018, https://www.schneier.com/blog/archives/2018/05/ray_ozzies_encr.html
11
It would not be impossible, however. Europol’s work programme for 2019 shows that the agency’s “decryption platform” was used 18 times during 2018 (from January-September), and in eight of those cases it was able to decrypt material. See: http://statewatch.org/news/2019/jun/eu-council-europol-work-programme-2019-7378-19.pdf
12
“The 3rd Generation Partnership Project (3GPP) unites [Seven] telecommunications standard development organizations (ARIB, ATIS, CCSA, ETSI, TSDSI, TTA, TTC), known as “Organizational Partners” and provides their members with a stable environment to produce the Reports and Specifications that define 3GPP technologies.” See: ‘About 3GPP’, https://www.3gpp.org/about-3gpp
13
Council of the EU, ‘Indicative programme – Justice and Home Affairs Council of 6 and 7 June 2019’, https://www.consilium.europa.eu/en/press/press-releases/2019/06/04/indicative-programme-justice-and-home-affairs-council-of-6-and-7-june-2019/
14
Some more mundane ‘innovations’ unveiled in recent years include “smart” (i.e. embedded with sensors and Wi-Fi -enabled) toothbrushes, toilets, ovens and scales.
15
Gunther Oettinger, ‘The road to 5G’, speech given at the Mobile World Congress, Barcelona, 2 March 2015, http://europa.eu/rapid/press-release_SPEECH-15-4535_en.htm
16
‘Concept paper on the European strategy to transform Public security organizations in a Connected world’, p.8, http://www.statewatch.org/news/2008/jul/eu-futures-dec-sec-privacy-2007.pdf
17
Tony Bunyan, ‘The “digital tsunami” and the EU surveillance state’, March 2009, http://www.statewatch.org/analyses/no-75-digital-tsunami.pdf
18
Ian Kearns and Rick Muir, ‘Data-driven policing and public value’, The Police Foundation, March 2019, http://www.police-foundation.org.uk/2017/wp-content/uploads/2010/10/data_driven_policing_final.pdf
19
Urs Gasser et. al., ‘Don’t Panic: Making Progress on the “Going Dark” Debate’, The Berkman Center for Internet & Society at Harvard University, 1 February 2016, https://cyber.harvard.edu/pubrelease/dont-panic/
20
Ariel Watson, ‘How 5G Challenges and Benefits Law Enforcement’, Cellebrite, 28 February 2019, https://www.cellebrite.com/en/blog/how-5g-challenges-and-benefits-law-enforcement/
21
Chavie Lieber, ‘Amazon’s Alexa might be a key witness in a murder case’, Vox, 12 November 2018, https://www.vox.com/the-goods/2018/11/12/18089090/amazon-echo-alexa-smart-speaker-privacy-data
22
Kathryn Gilker, ‘Bentonville Police Use Smart Water Meters As Evidence In Murder Investigation’, 5News, 28 December 2016, https://5newsonline.com/2016/12/28/bentonville-police-use-smart-water-meters-as-evidence-in-murder-investigation/
23
Rob Lever, ‘Secrets from smart devices find path to US legal system’, Phys.org, 19 March 2017, https://phys.org/news/2017-03-secrets-smart-devices-path-legal.html
24
Adam Liptak, ‘Court Leaves the Door Open For Safety System Wiretaps’, The New York Times, 21 December 2003, https://www.nytimes.com/2003/12/21/automobiles/court-leaves-the-door-open-for-safety-system-wiretaps.html
25
‘Push this button for evidence’, Privacy International, 16 May 2019, https://www.privacyinternational.org/news-analysis/2901/push-button-evidence; ‘ Victims Not Suspects’, Big Brother Watch, https://bigbrotherwatch.org.uk/all-campaigns/victims-not-suspects/
26
For example, the Digital Rights Ireland case in the Court of Justice of the EU and the Tele2/Watson case in the European Court of Human Rights.
27
‘Council of the EU wants data retention without cause – Germany joins in’, Statewatch News, 29 May 2019, http://statewatch.org/news/2019/may/eu-council-data-retention.htm

​出典: http://statewatch.org/analyses/no-343-5g-telecoms-wiretapping.pdf

EUにおける盗聴捜査をめぐる新たな動き(5G、IoTの動向踏まえて)

以下、簡単なコメントのあとに、英国の反監視運動団体、Statewatchの記事(プレスリリース)を転載します。

(コメント)

5Gへの移行は同時にIoTの普及でもあり、私たちは、単純に監視社会化が進むと考えてきましたが、捜査機関からすると、従来の盗聴捜査が不可能あるいは時代遅れになる危険性があるとみており、法制度による対応や、そもそもの5Gの技術が法執行機関の盗聴が可能なのような技術仕様にすることを、国際的な技術標準に盛り込むことをも画策しているようです。こうした動きが、EUであり、英国が同調していれば当然、米国や日本も同調するでしょう。5Gの技術で支配力をもつ中国のHuaweiがやっかいな存在だと考えられているのもこうした文脈から理解するべきなのかもしれません。

また、日本のIoT調査もこうした監視技術の確保のための実験という側面があることは前から疑念がもたれていましたが、それが国際的な文脈も更に背景としてあるとすると、5G、IoTなどと監視社会問題の広がりはかなり大きいように思います。

早晩日本でも5GとIoTを念頭に置いた盗聴法や関連する監視法制の改悪は必至と思います。

EUの個人情報保護の法制度がこうした法執行機関の動きにどう対応するのか、注目する必要があります。どこの国もそうですが、プライバシーや人権を担う機関と法執行機関は別の組織で、相互の関係は力関係で決まりますね。この力関係を規定する重要な要因が世論や選挙ですが、右派の影響力が世論のなかでも大きくなっているので、この点も踏まえておく必要があると思います。

(以下、Statewatchのプレスリリース)


Statewatchが入手したEU内部文書によると、5Gの通信ネットワークは、EUと各国政府が行動を起こさない限り、伝統的な警察の「合法的傍受」技術を時代遅れにする可能性がある。 [1]

今週の金曜日(6月7日)、EU司法・内務評議会は、「国内の安全保障分野における5Gの意味するもの」について議論する。これは、Statewatchが分析を含めて公表したEuropolとEUテロ対策コーディネーター(Europol and the EU Counter-Terrorism Coordinator)が最近作成した文書で取り上げられているトピックでもある。 [2]

これらの文書は、5G通信ネットワークを支える様々な技術が、従来の方法による盗聴をはるかに複雑にしたり無用にする可能性があり、法執行機関が個人のデータにアクセスする新たな大きな課題となると警告している。

こうした状況に対処するため、関連する技術標準の確立を担う国際機関に影響を与えることを試みるべきだとの提案している。警察の要求を執行するために(国内およびEUレベルで)新しい法律を制定すること、例えば、米国、オーストラリア、カナダなどの主要な監視機関と、EU内外の関係者間での幅広い議論を確実にすることを提案している。

5Gの主な機能の1つは、モノのインターネットを通じた個人、物、装置そして環境の膨大なデータの生成、保存、共有を可能にする時代を可能にすることにあるという誇大宣伝を信じられるものだとすれば、5G技術が法執行機関によるある種のデータへのアクセスを制限する可能性がある。

この分析では、法執行機関は、現在の権限の一部を失う可能性があると同時に – 広大な新しい監視の可能性が開かれる面があり、公的に議論すべきであると主張している。

Statewatchの研究者であるChris Jonesは次のように述べている。

EUの当局者は、電話盗聴の可能性を失うことを当然懸念している。しかし、彼らが危惧するまさにその技術が、法執行機関や安全保障機関に、個人の活動を追跡してそのデータにアクセスすることを可能にするという権利侵害を可能にするかもしれない。これは「伝統的な」盗聴力の喪失の可能性と同じ問題の一部と見なされるべきだ。技術の標準化の設定や法律制定に影響を与えようと秘密裏に試みるのではなく、登場しつつあるテクノロジーに照らして、監視と盗聴の力について受容しうる限界についての公的な議論が求められている」

Contact

Statewatch office: +44 203 691 5227
chris [at] statewatch.org

Notes

[1] The analysis can be found here (pdf).
http://statewatch.org/analyses/no-343-5g-telecoms-wiretapping.pdf
[2] The agenda of the JHA Council meeting can be found here.
https://www.consilium.europa.eu/en/press/press-releases/2019/06/04/indicative-programme-justice-and-home-affairs-council-of-6-and-7-june-2019/

The official documents (pdfs) examined in the analysis are:

出典:Press release: EU officials in a panic over the possibility of a world without wiretapping

G20批判

Table of Contents

  • 1 はじめに
    • 1.1 G20とは何なのか―外務省の解説
    • 1.2 変質しつつあるG20
  • 2 G20と国際関係 経済の政治学
    • 2.1 ポスト冷戦の資本主義が抱え込んだ危機
    • 2.2 グローバル資本主義の基軸変動によるG20の変質
    • 2.3 G20大阪の議題
  • 3 G20の何が「問題」なのか
    • 3.1 市場と制度の相克
    • 3.2 資本に法制定権力がないという問題
    • 3.3 市場のルールの覇権の揺らぎ
  • 4 G7、G20と対抗する民衆運動
    • 4.1 オルタ/反グローバリゼーションをめぐる運動
      • 4.1.1 運動の多様性と限界
      • 4.1.2 伝統主義というオルタナティブ
    • 4.2 植民地からの独立、ケインズ主義、新自由主義、どれも不平等を解決してこなかった。
      • 4.2.1 現代にも続く「本源的蓄積」過程
      • 4.2.2 グローバルな格差は解決できていない
    • 4.3 メガイベントとしてのG20
  • 5 移民をめぐって
    • 5.1 民衆という主体の不在
    • 5.2 〈労働力〉とはナショナルなものとして構築され、資本は越境する〈労働力〉の流れを生む
    • 5.3 文化的同化
  • 6 情報通信インフラの国際標準をめぐるヘゲモニーと私達の「自由」の権利
    • 6.1 収斂技術としてのコンピュータテクノロジー
    • 6.2 自由の社会的基盤としてのコミュニケーション環境
  • 7 「テロ対策」名目の治安監視と超法規的な 市民的自由の剥奪―それでも闘う民衆たち
    • 7.1 異常な規模の治安対策予算
    • 7.2 トロントの場合
    • 7.3 治安監視の国際ネットワーク:スノーデンファイル
  • 8 おわりに:シンボリックな外交儀礼とナショナリズムだとしても、だからこそ…
  • 9 (補遺)簡単な年表

1 はじめに

1.1 G20とは何なのか―外務省の解説

外務省のウエッブでは次のように説明している。 https://www.mofa.go.jp/mofaj/ecm/ec/page25_001040.html

リーマン・ショック(2008年19月)を契機に発生した経済・金融危機に対処するため、2008年11月、主要先進国・新興国の首脳が参画するフォーラムとして、従来のG20財務大臣・中央銀行総裁会議を首脳級に格上げし、ワシントンDCで第1回サミットが開催。以降、2010年まではほぼ半年毎に、2011年以降は年1回開催。

参加国は、G7(仏,米,英,独,日,伊,加,欧州連合(EU)のほかに、アルゼンチン、豪、ブラジル、中、印、インドネシア、メキシコ、韓、露、サウジアラビア、南アフリカ、トルコ(アルファベット順) メンバー国以外に招待国や国際機関などが参加

その特徴として、

G20サミットは,加盟国のGDPが世界の約8割以上を占めるなど、「国際経済協調の第一のフォーラム」(Premier Forum for International Economic Cooperation:2009年9月のピッツバーグ・サミットで合意・定例化)として、経済分野において大きな影響力を有している。

1.2 変質しつつあるG20

G20の当初の主要課題は、グローバルな金融危機が体制的な危機へと転化することを阻止することだった。グローバル資本主義のヘゲモニーをG7中心として、G20にその影響力を拡大しつつ、途上国を含むグローバルな政治経済秩序を維持することが目論まれた。

米国をはじめとして各国政府も大企業も、リーマンショックを招いた企業や金融制度の責任をとるどころか、むしろ政府は、破綻に瀕した金融資本や金融システム救済のために莫大な公的資金を投入する一方で、緊縮財政政策を採用ことによって、人々の生存権を支えてきた福祉、社会保障、教育などの公的サービス1を削減する方向をとり、更に公共サービス部門を益々市場に統合することで資本の投資機会を拡大してきた。こうした方向をG20は、非公式な国際的な枠組みで合意しつつ、この外圧を利用して国内の政策を強行した。その結果として、資本蓄積の基盤を貧困層の切り捨てが進んだ。

しかし、経済の欧米諸国による影響力は相対的に低下し、中国を中心とする新たな世界秩序が形成されつつあるなかで、G20の性格も変質する。グローバル資本主義の基軸が欧米中心に構築されてきた「西欧近代」という枠組みからずれ、経済的な下部構造は資本主義ではあっても、その統治機構や意思決定、文化的な社会的な規範や価値観は、欧米のそれとは異なるだけでなく、欧米が構築してlきた規範とは異なる規範が対置されるようになる。

この構図がG20の当初のものだとすると、その後の世界情勢は狭義の意味でのグローバル資本主義の土台(下部構造)の維持というレベルでは収拾できない状況をまねいた。それが、アラブの春からオキュパイ運動への流れとともに急速に台頭してきたイスラーム原理主義と欧米極右の「主流」化である。日本の安倍政権はこの傾向を先取りする政権でもあった。

2 G20と国際関係 経済の政治学

2.1 ポスト冷戦の資本主義が抱え込んだ危機

G20の設立そのものが、グローバル資本主義の脆弱性を端的に物語っていた。G7/8は、ベトナム戦争の敗北と石油危機、第三世界における社会主義国家の伸長といった事態のなかで、戦後国際経済秩序の主導権を先進国が維持するための枠組だった。ここでは、資本主義的な自由主義を表向きの共通の価値観に据えて、社会主義と国連の経済ガバナンスを抑えこむ役割を担った。

G7/8とIMF、世銀、WTOは、ポスト冷戦のなかで、社会主義ブロックが崩壊したにもかかわらず、世界規模の反対運動にみまわれつづけた。20世紀の権威主義的な社会主義(あるいは社会主義と呼ぶべきかどうかの論争があることからすれば、何と呼ぶべきか)とは一線を画した民衆運動の草の根のなかで、既存の支配的な経済秩序へのオルタナティブへの模索は続いた。

リーマン・ショックは、1929年の世界大恐慌や1970年代の二度の石油危機などの大きな危機にはない特徴があった。かつての危機は、社会主義という対抗的な勢力が無視できない力を発揮していた時代であったのに対して、リーマン・ショックは、社会主義の敗北=資本主義の勝利という公式イデオロギーのもとで起き。しかも、G7/8の枠組みでは収拾できないようなグローバルな金融システムの構造を抱えていたことを示していた。

第二に、G7/8とダボス会議を車の両輪として、IMF、世銀、WTOといった国際経済機関による国際経済秩序の主導権を維持して、国連による公的なグローバルガバナンスを抑えこむという構造が、十分機能しなくなったことも示していた。この意味でG20の存在が注目されること自体が、欧米(+日本)を基軸とする戦後のグローバル資本主義の危機を体現している。

経済や金融の問題は、財やサービスの生産や貿易、あるいは通貨や金融商品の取引などから各国の財政まで、幅広いが、こうした問題を扱う主流の経済学や政治学が脇に追い遣っているのが、社会(地域コミュニティから国民国家の枠組み、そしてグローバルな「社会」まで)を構成しているのは人間なのだ、という当たり前の事実である。常に関心の中心にあるのは、産業資本による生産であり、金融市場のマネーゲームであり、政府の債務と財政問題であり、政府間関係としてのみ論じられる国際関係である。<労働力>としての人間も社会保障や公共サービスも、彼等にとっては節約すべきコストでしかない。

国際政治や外交が対象にする課題では、一般に、「アクター」とみなされるのは、国家を代表するとされる人格、「首脳」とか大臣や高級官僚たちである。また、経済においても、「市場」があたかも一個の人格であるかのようにみなされ、「市場」を体現する「アクター」もまた、大企業、あるいは多国籍企業の経営者たちである。

国家、市場、資本といった制度の人格的な表現としての「首脳」や「経営者」たちは、言うまでもなく、民衆の利害を代表するものではない。国際政治や国際経済の理論的な枠組そのものが、実は、民主主義や民衆を意思決定の主体とするような理論になっておらず、こうした権威主義的な理論を前提にして、政治や経済の政策が正当化されている。

2.2 グローバル資本主義の基軸変動によるG20の変質

上述のように、G20は、経済金融危機への対応から始まったが、むしろ現状は、グローバル資本主義の基軸国が欧米から中国をはじめとする新興国へとシフトし、戦後の国際経済覇権を支えてきたゲームのルールが揺らぎはじめているなかで、その役割は大きく変質した。

変質は幾つかの複合的な要因からなる。たとえば、

  • 中国など非欧米諸国の台頭
  • 新自由主義政策の結果としての国内外の格差拡大が国境を越える出稼ぎ労働者や移民を大量に排出(東ヨーロッパ、南ヨードッパから西ヨーロッパへ、中南米から北米へ)
  • 情報コミュニケーションテクノロジーが「成長」を牽引する位置に
  • 気候変動の深刻化
  • 中東やアフリカなどでの戦争と、その結果としての大量の難民
  • 宗教原理主義とナショナリズム(自国第一主義)に基づくポピュリズムの台頭(極右の主流化)
  • 社会主義ブロックを後ろ盾にしない、反権威主義的な広い意味での左翼大衆運動(階級+ジェンダー+エスニシティ+エコロジー+対抗文化)

こうした課題をG20という枠組みの会合によって効果的に「処理」できるとは思えない。日本政府はG20を「国際経済協調の第一のフォーラム」と評価するが、実態は、むしろ世界のGDPの8割を占める諸国が相互に合従連衡を繰り返して覇権を争奪する場になっており、協調どころかむしろ政治的経済的な不安定から更に危機的な敵対関係へと転換しかねない危うい場所になっている。

2.3 G20大阪の議題

日本政府にとってG20の大阪会合とは何なのか。今通常国会で外務省大臣官房審議官、塚田玉樹政府参考人は以下のように答弁している。

六月のG20大阪サミットにおきましては、主催国として、世界経済の持続的な成長に向けたリーダーシップを発揮していきたいというふうに考えております。

貿易におきましては、グローバル化によるさまざまな不安や不満、こういったものに向き合いまして、公正なルールを打ち立てるということで自由貿易を推進していく所存でございます。また、データガバナンス、電子商取引に焦点を当てる大阪トラックの開始を提案しまして、WTO改革に新風を吹き込みたいというふうに考えてございます。

また、それ以外でも、女性のエンパワーメントですとか、あるいはジェンダーの平等、気候変動、海洋プラスチックごみ対策、質の高いインフラ投資、国際保健、こういったテーマを取り上げまして、国際社会における取組をリードしていきたいというふうに考えております。(衆議院外務委員会 外務委員会 2019年、04月12日 )

また、麻生財務大臣は次のように多国籍企業への課税強化を強調している。

BEPSと称するベーシック・エロージョン・プロフィット・シフティング、略してBEPSと略すんですけれども、まあ早い話が課税限度額の低いところに法人格を移す、個人の居住地域を移した形にする等々、いろいろ手口はあるんですけれども、そういったものによってかなりなものが起きているのではないか。

(略)GAFAとよく言われる話がその最たるものなのかもしれませんが、これに限らずほかにもいろいろありますので、そういったものに関してはきちんとすべきだと。六年前に日本が主張してこれは始まって、今まで約丸六年ぐらい掛かったことになりますけれども、おかげさまで、少なくとも来週からIMF等々でこの話を、もう一回OECDも含めてこの話をワシントンでする形になって少し形が見えてきて、今、ヨーロッパ方式、アメリカ方式、いろいろ各国出してきましたので、それまではもう俺たちは関係ないという感じで逃げていたのが全部出してきましたので、一応そういったものになりましたので、六月の、そうですね、G20の財務大臣・中央銀行総裁会議をやらせていただきますけど、そのときまでにはかなりのものができ上がるというところまで行かせたいと思っております

こうした議題への解決を、G20に期待することは、二つの意味で間違っている。

ひとつは、これらの議題は、各国の国内政治上のプロパガンダであって、その実効性を担保するものは、ないに等しい。第二に、首脳たちの非公式の話し合いによって「解決」するという国際政治のスタイルは、意思決定のプロセスのどこにも民主主義は存在しない。だから、あたかも「市民社会」へのアウトリーチを演出するために、民間団体などをG20のプロセスに包摂しようとしている。しかし、どの団体であっても、公正な代表としての権限が与えられうるものではない。政府がそうした「代表」にお墨付きを与えるのであれば、もはや「市民社会」は政府や市場から自立した第3の対抗勢力にはなりえないだろう。

3 G20の何が「問題」なのか

3.1 市場と制度の相克

上述した意味とは別の意味で、G20あるいはG7/8といった非公式の首脳会合については、その影響力が果して政府やメディアが宣伝するほど大きなものかどうか、グローバル資本主義を肯定する立場からも疑問視する考え方がありうる。たとえば、

  • もし、世界経済の主要な動向が、市場経済によって規定され、市場経済が越境的で国家をしのぐ経済力を駆使する多国籍企業によって支配されているとすれば、首脳が集まって会議することで市場経済の動向が左右されるようなことがどうして起きるのか。むしろ毎年冬にスイスのダボスで開催される多国籍企業と各国の主要政治家たちが集まる世界経済フォーラムの方が経済への影響力が大きいのではないか。
  • 国連のような公式の各国代表による公式の討議や条約法条約で定められたような国際法上の正統性を有するルールの制定の枠組をもたない非公式の会合にすぎず、むしろ条約や協定の締結を目的とした公式の外交交渉などの方が重要なのではないか。

グローバルな市場経済の複雑な利害とメカニズムを公式であれ非公式であれ国際的な会合という仕組みがコントロールできるとみなすことは、通常の「経済学」の教科書では説明されていないことだ。むしろ市場が国家や国際機関では手に負えないある種の「自律性」があり、これが資本主義のやっかいな側面であって、リーマンショックもまた、こうした市場の制御不可能性から国際的な経済危機が起きたのは事実だ。国家は「資本の国家」でもありながら、資本を制御しきれないというの資本主義の矛盾をG7/8やG20が解決できるわけがない、というのはその通りである。

3.2 資本に法制定権力がないという問題

だからといって政府の役割を過小評価すべきではない。グローバル資本主義が国家を越えた多国籍資本の強い影響下にあるとしても、多国籍資本にできないことが二つある。

ひとつは、資本そのものには法制定の権力がない、ということだ。そもそも資本が「企業」あるいは「法人」としての法的正当性を獲得できるのは、法人格を定めた法制度に依存する。また、各国の国内法の制定と政府間の国際法の秩序は、議会や政府の専権事項である。IMF、世銀、WTOであれ国連であれ正式の構成員は政府代表であって、多国籍企業のトップが議決権を持つことはできていない。市場経済が国際的な市場として機能する上で必要なルールは未だに資本の専権とはなっていない。各国の市場を外国の資本に開放するかどうか、関税や非関税障壁、税制など資本の利潤に直接関わる事項の多くが自国あるいは覇権を握る先進国など有力国の法制定と法執行のプロセスに縛られる。もうひとつは、「人口」の管理である。あるいは、〈労働力〉の管理といってもいい。この問題は後に「移民問題」の箇所で言及する。

非公式会合は、民主的な意思決定の体裁を維持しながら、この決定プロセスをメタレベルで規定することによって、民主主義のプロセスそのものを既存の統治機構が骨抜きにする上で効果を上げてきた。非公式会合による事実上の合意形成を踏まえて、国内法や制度の整備あるいは国際法の枠組の主導権を維持しようとする。非公式会合の議論のプロセスは透明性を欠き、各国とも自国にとって都合のよい内容を国内世論形成に利用する。こうした情報操作の手法は、オリンピックなどの国際スポーツが自国選手の活躍ばかりを報じることによって、そもそもの競技全体のイメージを歪め、ナショナリズムを喚起することに加担する結果を招いている手法とほぼ変わるところがない。

3.3 市場のルールの覇権の揺らぎ

G20は、こうした状況のなかで、当初は、金融危機への対応の必要から、後には、中国やロシアなどとの対抗と牽制の駆け引きの必要から、非西欧世界の「大国」、地域の有力国を巻き込むことによって、これら諸国を欧米が戦後築いてきたグローバル資本主義のルールの枠内に抑え込むことを目論むという一面があったように思う。しかし、逆に、G20は、新興国が従来のゲームのルールを覆して新たなルールを欧米諸国に要求する場にもなりうることもはっきりしてきた。これまで、欧米が戦後構築してきたルールを前提に市場の秩序と競争が展開されてきたが、ここにきてむしろ新興国自身がルールメーカーになろうとしており、その結果としてルールの揺らぎが顕著になってきた。しかも、トランプ政権の自国第一主義もまた、ルールの恣意的な変更を厭わないという態度をとることによって、そもそもの「ルール」への信頼性が更に揺らいでいる。この意味で、日本政府が宣伝するようなG20の「協調」は存在していないばかりか、覇権の構造がG20内部で深刻な亀裂を生み出してさえいる。

このルールの揺らぎが最も端的かつ明瞭な形で表出してきたのが、Huaweiをめぐる情報通信技術の分野だろう。これは、単なるスマホの市場の争奪という問題ではない。次世代情報網の基盤となる5Gをめぐる情報通信の社会インフラというフロンティア市場の争奪であり、同時に、この同じ情報通信インフラが、「サイバー戦争」の戦場でもあるとみなされるなかで、現状では政府間国際組織が主導権を握れていないインターネットのガバナンスに影響しうる問題にもなっている。2

4 G7、G20と対抗する民衆運動

社会主義圏の拡大が続く70年代に、グローバルな資本主義経済秩序の再構築を目指したのがG7/8だった。G7サミットは「G7サミットでは、その時々の国際情勢が反映された課題について、自由、民主主義、人権などの基本的価値を共有するG7首脳が一つのテーブルを囲みながら、自由闊達な意見交換を通じてコンセンサスを形成し、物事を決定」3と説明されてきた。一切の国内の民主主義的あるいは法的な意思決定の手続に関わりなく首脳間の討議で合意形成するシステムである。G7/8は、冷戦期に、ベトナム戦争の敗北と石油危機によって米国の覇権の構造が揺らぐなかでの西側資本主義のグローバルは覇権再構築を国連の枠組に対抗して目指した。IMF、世銀、GATT(後のWTO)というブレトンウッズ体制とサミット、ダボス会議によって築かれた冷戦期のグローバル資本主義のゲームのルールは、国内的には、公共部門の民営化にる市場経済の拡大、冷戦後の旧社会主義圏の資本主義世界市場統合のなかで維持される。この戦後のグローバル資本主義のゲームのルールそのものが、内部から危機にみまわれる。アジア通貨危機やリーマンショックは、資本の競争原理に支配された規制なき市場がいかに制御しがたいものであり、危機に際して政府は資本の延命を優先していかに民衆に犠牲を強いる存在であるかが明かになった。

4.1 オルタ/反グローバリゼーションをめぐる運動

4.1.1 運動の多様性と限界

オルタ/反グローバリゼーションの運動は、周辺部の民衆運動として、多様な姿をとって80年代から登場してきた。90年代以降、こうした運動が(組織的イデオロギー的な繋がりがあるわけではないが)、先進国の大衆運動へと拡大してきた。もはや社会主義はブロックとしては存在しない。冷戦に勝利したかにみえる資本主義が歴史の最終的な勝者であるかのようにしきりに自画自賛してきた支配層やイデオローグたちにとって、反グローバリゼーション運動は理解を越えた。当時、世界の政治と経済を動かアクターは三つあると言われた。ひとつは、従来からの主権国家。もうひとつは、主権国家の経済力を凌駕しさえする多国籍企業、そして三番目に様々な民衆運動である。国際NGOから草の根のコミュニティの運動まで、女性、移民、労働運動、環境など課題も様々、ラディカルな民主主義、マルクス主義、アナキズムなど思想背景も様々である。世界社会フォーラムやグローバルレジスタンスの運動など、国際的な連帯は、反戦運動からコミュニティの環境・反開発、先住民運動など多様な運動をゆるやかにネットワークする上で貴重な役割を担った。

しかし、こうした運動の限界もあった。それは、新自由主義グローバリゼーションへの批判ではあっても、資本主義グローバリゼーションへの批判が共通の了解事項にはなりえなかったのではないか、という点であり、資本主義に代替する社会が何なのかを、社会主義といった概念で共有できなかったということである。資本主義を否定する明確な方向性をもつイデオロギーのなかで、たぶん、最も有力なのは様々な傾向をもつマルクス主義とアナキズムだが、このそれぞれの内部でも相互においても、「次」を見通すための建設的な議論が積み重ねられてきたとはいえない。

このことは、リーマンショックや緊縮財政といった危機に際して、多くの運動は、この危機をグローバル資本主義の衰退への引き金として、衰退を加速化させる戦略を見出せなかった。新自由主義批判のなかで、国家はあたかも中立の存在であるかのようにみなされることがあった。資本の国家であるにも関わらず。福祉や社会保障、公共サービスを資本のための〈労働力〉や家族政策への思惑から切り離し、資本主義としては成り立ちようのない要求へとは転換できなかったのではないか。資本主義への態度が運動のなかでは、かなりの温度差があったし、今もあると思う。資本主義でもよいのか?「よい」のなら、なぜ?資本主義ではダメだというなら、どうであればいいのか。この凡庸だが、しかし根源的な問いでもある。

正解がひとつではないにしても、資本と国家を廃棄するとして、また、20世紀型の社会主義や既存の社会主義を標榜する体制を範例とはしないとして、経済において、資本に何が代替すべきなのか、政治において国家に何が代替すべきなのか、自由、平等、民主主義はどのような内実をもつものでなければならず、その内実を実現できる制度とはどのようなものであるべきなのか、こうした一連の問いに応じうる運動が模索段階に留まってきた。(思想家や理論家の議論はともかくとして)

4.1.2 伝統主義というオルタナティブ

反グローバリゼーション運動が新自由主義グローバリゼーションへのオルタナティブを既成の社会主義ではない「何か」への模索のなかで、決定的な答えを出しあぐねているなかで、アジア諸国の権威主義や独裁、イスラーム世界の非世俗的な国民国家など、多様なオルタナティブは、近代が否定してきた近代以前の諸々の「伝統」への回帰を通じたアイデンティティの再構築を企図し、ある種の民衆運動がこうした傾向を支えて表出してきたようにみえる。諸々の伝統主義への回帰を内包した運動だ。4イラン革命(1979年)は、イスラム復古の民衆運動であった。他方で、80年代のレーガン・サッチャーの新自由主義は、イデオロギー政策の場面では「自由主義」とは真逆の時代となる。人工妊娠中絶、同性愛への弾圧、移民や少数民族排斥は、復古的な家族イデオロギーを強化する傾向を顕著にもち、AIDS被害の蔓延を同性愛への格好の攻撃の手段として用いた。キリスト教原理主義がリベラリズムを攻撃し、言論表現の自由がマッカーシズム以来最大の危機を迎えた。これ以降、現在に至る極右の運動のひとつの源流がこの時代にあるといってもいい。5

先進国でも途上国でも、ポスト冷戦後、こうした諸々の宗教原理主義、復古主義、伝統主義が、新自由主義グローバリゼーションによって犠牲となってきた貧困層から中間層を組織化する流れを形成しはじめ、これがもうひとつの反グローバリゼーション運動とも呼びうる潮流となる。

サミットのありかた自身が「自由、民主主義、人権などの基本的価値」を裏切る存在である。首脳たちの密室での合意のどこに自由、民主主義、人権があるというのか。この欺瞞が当初から批判されてきた。言い換えれば、先進国は、その掲げている理念とは裏腹に、自由も民主主義も人権も不在なのだ。とりわけ国際関係において、これらの国々にとっての「外国」への政治や軍事などの力の行使に関しては。一国一票の国連の「民主主義」すら疎んじて、国連のガバナンスに縛られることを嫌う態度が如実にあらわれているのがG7/8だった。同様に、「国民」という枠組によって国内の人口を分断し、移民を常に国内の治安に観点から「問題」視し、排除か同化的統合のための口実を探し続けてきた。

欧米の民主主義や自由主義、あるいは平等に代表されるような普遍的な人権の理念は、これら諸国内部から、形骸化してきた。かつての植民地宗主国は一貫して植民地支配と侵略の犯罪から目をそむけ、近代の普遍的な価値を享受できるのは、自国の「国民」の、もっぱら異性愛者である白人男性にそに優先権が与えられてきたにもかかわらず、あたかも万人が享受できるかのような見せ掛けを作り、その理念故に、差別と排除の実態が隠蔽された。日本の場合、高邁な理念を掲げて、現実を隠蔽するという近代国民国家のイデオロギー作用は、戦後憲法によってその枠組みが与えられてきた。

非西欧世界の民衆にとって、欧米先進国は、歴史的には植民地支配者であって、植民地解放の「敵」でありながら、欧米の「豊かさ」、価値観やライフスタイルへの憧憬も共存してきた。しかし、独立と近代化は、欧米資本主義であれ20世紀の国民国家を基盤とする社会主義であれ、その理念と現実との間には多くの矛盾があり、とりわけ、経済成長=豊かさは一握りの国々にしかその「席」は与えられず、必然的に貧困の「席」しか割り当てられない諸国が存在するような構造が維持されてきた。国際政治と国家を主体とする軍事安全保障は、植民地体制とは異なる国際的な政治的軍事的な支配と従属の重層的な構造を維持してきた。世界規模の資本による搾取と先進国による政治的な覇権の構造にとって、独立国家か植民地であるかの違いは見掛けほど大きくはないことが明かになった。それが20世紀後半以降の世界である。

4.2 植民地からの独立、ケインズ主義、新自由主義、どれも不平等を解決してこなかった。

4.2.1 現代にも続く「本源的蓄積」過程

国連の人間開発報告書のデータを概観してみると、GDPが高い国と低い国との格差は歴然としている。6その差が縮まっていることを強調して、貿易や投資の自由化を擁護する主張は、全体の構造的な格差を解決最も有効なシステムが資本主義的な自由主義であるという「答え」の正しさを証明しているわけではない。

経済的な貧困を貨幣で評価することは必ずしも正しい評価とはなりえないが、他方で、市場経済が浸透する過程で、自律的な非市場経済の構造に依存してきた社会が解体されて、人々の生存の基礎構造が破壊されることによって、経済を支えてきた共有の構造と、労働市場に依存しない労働=生産組織もまた破壊され、人々は、労働市場で〈労働力〉を売り、生活必需品の調達を市場に依存するようになる。このよく知られた資本の本源的蓄積とマルクスが呼んだ資本主義成立期のプロセスは過去の歴史的な出来事ではなく、むしろ現在においても、日々進行しているものだ。

資本にとっての〈労働力〉は、国家にとっての国民であり、国家権力の正統性を支える人的な基盤をなす。独裁であれ民主国家であれ、王制であれ共和制であれ、「国民」による支持は必須であり、同時に、この「国民」が〈労働力〉として資本によって統合されて市場経済的な意味での「価値」を資本にもたらす存在になることが経済的な基盤にとっての最低限の条件となる。

この構造は、先進国の側からの眺望と低開発国の側からの眺望とでは全く異る風景を描くことになるが、それだけではなく、それぞれの国のなかで、人々が帰属する所得階層、性別、年齢、エスニックグループ、宗教グループなどによっても大きな違いがある。所得の低い女性は、同じ階層の男性とは同じライフコースを歩むことはできないだろう。貧困層の幼い子どもは、自分が大人になるまで生きられるかどうかの確率について、富裕層の子どもとは全く異なる運命にみまわれる。

4.2.2 グローバルな格差は解決できていない

グーバルな貧困問題が国際的な課題になったきっかけのひとつが、国連の人間開発報告1999年で示された19世紀以来の長期的な格差の拡大だった。(巻末の図「Widening gaps between rich and poor since the early 19th century, United Nation, Human Development Report 1999,参照) 1820年から1990年代にかけて、その国別構成が変化しつつも、最貧国は一貫して貧しいままであり、富裕国は、一貫して豊かになり続けてきた。この傾向は、G20や国連などが提唱する持続可能な経済成長や格差の解消という掛け声にもかかわらず構造的には変化がない。GDPの指標や国別の統計なので、こうした数値では表面化しない深刻な格差や貧困があることを留意したとしても、この格差は異常な状態である。同様に、19世紀以降、工業化のなかで、以上な増大をみせているのがCO2の排出である。(巻末の図「化石燃料等からのCO2排出量と大気中のCO2濃度の変化」7、CDIAC, Global Fossil-Fuel Carbon Emissions, 参照)

そもそも、一方に500ドル足らずのGDPの国があり、他方で3万ドルから5万ドルあるいはそれ以上のGDPとなる国がある原因が、それぞれの国に暮す人々の経済活動に関わる「能力」とか「資質」に基づくとはとうてい考えられないだろう。とすれば、問題はこうした格差を数世紀にわたって再生産してきた構造的に問題があるとみるべきである。とりわけ20世紀以降の格差の拡大が顕著であるようにみえる。

一般に、新自由主義グローバリゼーションに反対するという主張を打ち出す場合、「新自由主義」という限定をつける理由は、1980年代のレーガン=サッチャー(そして中曽根)の時代以降の規制緩和や民営化、市場経済原理主義と呼ばれる時代が問題の元凶にあるという見方になりがちだ。しかし、明かに言えることは、グローバルな格差や貧困の問題は、もっと長期的だということである。新自由主義よりもケインズ主義や福祉国家の政策への評価が高かった時代であれ、多くの植民地が独立を果した時代であれ、格差と貧困のグローバルな構造は大きな変動をこうむらなかった。

言い換えれば、保護貿易や福祉国家やケインズ主義といった「大きな政府」も公共部門を民営化し自由貿易を採用しようと、どちらであれ、最貧国の地位を割り当てられる国が存在し、世界の富を独占する国が生み出されてきた。

なぜ、このした構造が数世紀も続いてきたのか。数世紀という長い歴史的な尺度のなかで、一貫して見い出せる構造があるとすれば、それは、国民国家と資本主義市場経済の構造以外にはない。現在のグローバルな資本主義がもたらしている深刻な問題の解決のためには、これらを前提にした部分的な改革は意味をもたない。解体のための挑戦として20世紀最大の実験が社会主義だったわけだが、社会主義は、国民国家の問題を棚上げにした。近代国民国家の枠組みを(当初は国家廃絶のために戦略的に、後にはむしろ権力の正統性の基盤として)受けいれた。統制経済が戦争を総力戦として遂行するための基盤を提供したという観点からみたとき、ナチスやイタリアのファシズム、日本の総動員体制とニューディールの間に本質的な違いはない。

一人当りGDP(ドル) 2015年(国連人間開発計画2016年版)
最貧国
Central African Republic 562
Burundi 693
Congo (Democratic Republic of the) 737
Liberia 787
Niger 897

最富裕国 日本 35,804(19425)
韓国 34,387
中国 13,400
インドネシア 10,385
インド 5,730
オーストラリア 43,655
米国 52,549(21558)
カナダ
メキシコ
英国 38,658
ドイツ 44,053(19351)
フランス 37,306
イタリア 33,587
ブラジル 14,455
アルゼンチン
サウジアラビア 50,284
南アフリカ 12,390
トルコ 18,959
ロシア 23,895
— カタール 135,322
ルクセンブルク 93,553
シンガポール 80,192
ブルネイ 66,647

人は、出身地、性別、民族は選択できない。こうした格差は、構造的人為的に生み出されてきた歴史的な構築物である。これは少なくとも、近代資本主義にその原因の主要な部分があることは間違いない。このとうてい容認できない格差は、単なる所得再配分とか金融所得課税といった分配によって解決できるだろうか。「持続可能な成長」は、持続可能な資本にとっての成長でしかない。そうではなく、むしろ持続可能な資本主義の衰退のプログラムとして構想しなければならない。伝統主義を排して、資本と近代国家を安楽死させる戦略と制度設計が必要なのだ。「衰退」を目的意識的に追求することは、政治的な革命のプログラムに還元できない。衰退を肯定的な価値としてポジティブに構想することは、資本主義的な「豊かさ」を内面化している大衆にとって容易なことではない。短期的な「文化革命」は成功しない。数世紀の長い革命を構想する必要がある。

4.3 メガイベントとしてのG20

G20は、同床異夢の不安定な覇権争奪の場であり、誰も決定的な主導権をとることはできず、いくつかの課題となる分野で、相互の牽制あるいは妥協を通じて、自国の国益を最大化するための努力を繰り返す不毛な会議である。犠牲になるのは世界中の民衆たちである。

しかし、プロパガンダとしての国際会議の効果は無視できない。特に、日本の場合、G20を開催する地域の自治体とメディアが一体となった国際イベントを盛り上げるプロパガンダによって、G20を、その実態とはかけはなれた国威発揚のためのイベントに仕立てることによって、ナショナリズムを刺激する効果をもつことになる。

国際イベントはどこの国のメディアも自国中心の視点から情報を発信する。先にも伸べたように、オリンピックなどの国際的なスポーツ競技が自国の選手や自国が得意とする競技を中心に報道されることによって、あたかも自国の選手が国際競技大会の主役であるかのような印象が演出される。同じことは政治や外交の国際会議にもあてはまる。特に日本の場合、日本語環境が国境とほぼ重なり、大半の日本の民衆は、自国の報道や政府の発表を他国のそれと比較しながら評価できる言語環境にない。日本の民衆はメディアや権力の情報操作に左右されやすい。

国際イベントはある種の儀礼的な行為、国家の権威や威厳を端的に象徴する場でもある。儀礼や儀式は、差異や矛盾を棚上げした国民統合を演出する仕掛けであって、それ自体が、多様な異論や異議申し立て、言論表現の自由を前提として成り立つ民主主義的な政治空間の本質とは相容れない。国際イベントに必須ともいえる場の威厳は、あらゆる混乱が排除された整然とした秩序を生み出すための権力作用を伴う。これが治安維持や治安弾圧を正当化してしまうことになる。

G7/8や国際機関の会合が大衆的な反グローバリセーションの抗議行動によって「混乱」に直面してきた90年代から2000年代初めの状況は、私たち(あるいは反政府運動の側)からすれば、民主主義の正当な表現行為であるが、このような異議申し立てそのものが、主催国内部の分断を可視化することになる。

従って、こうした儀礼的な効果という観点からすると、G20が、その内実として、空疎で実質的な国際政治や外交の意思決定において効果をもちえず、矛盾を糊塗するだけのものであったとしても、そのこととは別に、既存の権力基盤を固め、対抗的な勢力を統合と排除のゲームのなかで抑え込むという国内政治に及ぼす効果は、決して軽視することはできない。

5 移民をめぐって

5.1 民衆という主体の不在

G20の議題でも明らかだが、「人」が議題にのぼるのは、あくまで国益の従属変数としての「人」でしかない。大阪のG20の主要議題のひとつとされている女性の問題も、女性を国民的〈労働力〉として活用することに主要な関心がある。最大の課題は、国民的〈労働力〉の周辺部に形成されている移民や難民の問題だ。G20の首脳たちにとって、移民、難民問題は国家安全保障の問題でしかなく、国際政治のなかでの国益に関わる問題でしかない。

G20の舞台上の登場人物であれ、政治や経済の専門家たちの言説であれ、マスメディアの報道であれ、その構図のなかで明らかに登場人物として欠けているのは、75億人の民衆である。民衆を主体とした国際政治や経済、あるいは社会、文化を理解する視点ではなく、国家や資本(市場)を主要なアクターとしてしか世界を見ないことが当たり前のようになってしまっている。しかし、問題は、この75億の民衆が不可視の存在として、あるいは、事実上の意思決定の場から排除されていることに怒りの声を上げるよりも、むしろこうした指導者たちの振舞いを黙認するか、ありおはより積極的に支持する者たちが、その多くを占めているということである。残念なことに、民衆の多数者は、また、支配者を支える多数者であるか、あるいは黙従を選択せざるをえないか、あるいは無関心であるか、であり、可視化された権力に抗う民衆の姿は、常に相対的に少数である。

支配的多数者は、諸々のマイノリティを抑圧することによって、既存の資本と国家の権力の再生産構築してきたた。多様な民衆が抱える、自分たちの生存とアイデンティティに関わる問題は、既存の資本と国家のシステムを前提にして解決できるものではない、という感情が世界規模で拡がってきたのは、冷戦末期から新自由主義グローバリゼーションと呼ばれる時代、あるいは、湾岸戦争以降のテロとの戦争の時代であった。私達からすれば、この時代は、オルタ/反グローバリゼーション運動としての世界規模の社会運動の時代として位置付けたい誘惑に駆られるし、私もこれまでそのようにたびたび述べてきた。しかし、無視できない数の民衆は、私達とは別の方向へと向う。反グローバリセーションであり反新自由主義であるとしても、彼等が依拠するのは諸々の伝統への回帰という「オルタナティブ」だった。その力をあなどったために、日本では、安倍が、世界に先駆けて極右政権を樹立してしまった。その後の世界規模での多様な極右、伝統回帰、宗教原理主義、不寛容な排外主義に状況が今に至る。8

5.2 〈労働力〉とはナショナルなものとして構築され、資本は越境する〈労働力〉の流れを生む

資本主義は人間を<労働力>商品として労働市場で調達する仕組みのなかでしか「人間」を理解できない。このことの問題性をマルクスは搾取として批判したが、マルクスが見落したのは、人間には性別があり、<労働力>再生産は家族によって担われるというジェンダーと家父長制の問題、そしてもうひとつが、<労働力>は、無国籍なのではなく、常にナショナルなアイデンティティとの関係のなかで再生産される、という<労働力>のナショナリズム問題である。

国内の労働市場のように、物やサービス、資金の移動がグローバル資本主義の構造のなかで、とりわけ資本にとって困難なのは、〈労働力〉の制御である。経済学が扱う労働市場の〈労働力〉には国籍がない。(性別も民族もない)。しかし現実の〈労働力〉の担い手は国籍によってその移動を厳しく制約されている。言いかえれば〈労働力〉は国民的〈労働力〉なのである。膨大な移民は、この枠組を逸脱する流れである。これを資金の流れのように市場に還元したり、金融工学のようなコンピュータのプログラムで処理することはできない。ここに資本にとっても国家にとっても困難な課題があるからこそ、情報処理の技術は人への「監視」技術の開発へと向う。

近代国家では、〈労働力〉の理念モデルは「国民」としてのアイデンティティ形成と表裏一体のものとされてきた。これが様々なレイシズムを生み出す背景をなしてきた。「国民」としてのアイデンティティ形成を資本が直接担えるわではないが、階級意識を抑制して国民意識に統合することが資本に同調する労働者を形成する上で有効である限りにおいて、「国民」的〈労働力〉は資本の利害と一致するというに過ぎない。移民や難民を「国民」へと同化させるメカニズムそのものは国家が担う領域と大きく重なり、資本の領域には収まらない。国境を越える人口移動の動因を多国籍企業は様々な策略で生み出すが、国境を越えて人口を量的にも質的にもコントロールする裁量権も与えられていない。9

以下にあるように、ほとんどの先進国の人口に占める移民の割合は10%台である。これに対して、日本の移民の人口比は極端に低い。この低さは、ひとえに、入管政策によるものであり、自民族中心主義の政策をとってきた結果である。

人口比率(国連、人間開発報告書2016)
日本 1.6
韓国 2.6
中国 0.1
インドネシア 0.1
インド 0.4
オーストラリア 28.2
米国 14.5
カナダ 21.8
メキシコ 0.9
英国 13.2
ドイツ 14.9
フランス 12.1
イタリア 9.7
ブラジル 0.3
アルゼンチン 4.8
サウジアラビア 32.3
南アフリカ 5.8
トルコ 3.8
ロシア 8.1

国境を越える移民たちの動向は、人間開発指数の高い国(総じて所得が高い先進国)への貧困地域から移動する傾向がはっきりしている。こうした構造的な格差は、グローバル資本主義が生み出した経済的な搾取、政治的な覇権主義、そして軍事的な破壊行為の結果である。現代の不安定な構造の背景にあるのは、単純な多国籍資本の権益に還元することができない。むしろこうした多国籍資本が、その利益の源泉としてきた社会進歩や人々が理想とするライフスタイルを実現するための財やサービスの提供そのものにある。言い換えれば、「貨幣的な価値」だけではなく、この価値を実現するために資本が市場を通じて提供する人々の日常生活のための―つまり〈労働力〉再生産のための―生活の「質」そのものが、人々を物質的肉体的なだけでなく、精神的にも心理的にも、そして文化的な貧困に追いやってきた。

5.3 文化的同化

排外主義と差別の問題は、ヘイトクライムやヘイトスピーチの問題だけではなく、むしろ自民族文化に対する同化を暗黙のうちに強要するような同調圧力によって生み出される心理作用への対抗的な取り組みが必要であり、あからさまな誹謗中傷とは逆に、ポジティブな言説のなかに内包されたレイシズムであるために、固有の困難な課題でもある。あからさまな差別的な言動や暴力に多くの「日本人」が積極的に同調することは想像しづらい。逆に、日本の伝統文化や生活習慣の肯定的に評価されてきた側面を移民や外国人たちが受け入れずに、出身国・地域の言語や文化を持ち込む場合に生まれる日常的な些細にみえる摩擦が生み出す感情的な齟齬こそがヘイトスピーチといった突出した暴力の温床になる。

運動の側も含めて、多様な言語や文化を背景としてもっている人々との共同の行動の経験が持てている人達は多くはないと思う。異なる文化の人々と接することは、自分たちが当たり前と思っていた(運動や活動家も含む)文化の常識を相対化することになる。彼等が日本の文化やライフスタイルに同化することだけが求められるなかで、運動の側が私達のライフスタイルや文化を変えるための工夫をもつことが必要だろうと思う。

安倍政権は、移民受け入れ政策へと大きく転換した。この政策転換は、安価な〈労働力〉の調達政策として、研修生制度への批判をかわしつつ、労働市場の供給圧力を高めることによって、人件費を抑えこみたいという資本の論理が働いていることは間違いない。では、こうした政権の思惑があるから移民の日本への入国に反対すべきなのか。この政策だけを見るのであれば反対する以外にないが、しかし、他方で、私達がまず何よりも第一に考えなければならないのは、移動の主体は、日本政府でもなければ私達でもなく、日本で働く意思をもつ移動する人々である。彼等の意思が最大限尊重される必要がある。この点で、「日本の労働環境は過酷で差別もひどいよ」といった忠告は余計なお世話である。長い移民受け入れの歴史をもつ欧米であっても、数世代にわたる移民の経験があっても差別は解消されていない。しかし、そうであっても移動する人々がいるのだ。逆に、門戸を閉ざす日本の入管政策は、移民排除を掲げる欧米の極右にとっての理想モデルとすら言われている。彼等の国境を越えて来たいという意思を歓迎することが第一である。彼等の意思は、彼等を安価に搾取しようとする資本の意思とはそもそもの「労働」への向き合い方が違う。また、日本政府のように〈労働力〉でありさえすればいい、というのでもない。

6 情報通信インフラの国際標準をめぐるヘゲモニーと私達の「自由」の権利

6.1 収斂技術としてのコンピュータテクノロジー

コンピュータ技術は私生活から軍事技術まで広範囲に及ぶ様々な技術を支える技術の位置を占めている。生物の基本的な構造は分子生物学や遺伝子工学のコンピュータで解析可能と信じられている。工場では機械を制御するシステムになり、事務所では経理や人事の管理に用いられ、学校では生徒の個人情報から成績の管理に用いられる一方で、情報リテラシーやプログラミングの教材になる。人々のコミュニケーションは、不特定多数を相手に双方向の通信が可能になる。エネルギー革命といわれた産業革命やオートメーション技術の発明もこれほどまでに広範囲に、人々の日常生活から世界規模のシステムまで、分子レベルから宇宙規模までを包含して世界の理解を規定するような技術はなかった。

この技術の基礎を築いてきた欧米の科学技術は欧米を基軸とする国民国家と資本主義の制度的な前提なしにはありえなかった。しかし、今、グローバルな資本主義の基軸が非欧米世界へと移転するなかで、コンピュータ技術は欧米の覇権を支える技術ではなく、逆に欧米の覇権を脅かす技術になりつつある。

欧米のICT技術に支えられてきた資本主義と国家は深刻な難問が最も端的に表われているのが、Huaweiへの米国の苛立ちである。その背景にあるのが、Huawaiが構築してきた5Gネットワークの主導権である。既に、私達にはお馴染の話だが、スノーデンやWikiLeaksなどが暴露してきた欧米先進諸国による情報通信の監視や盗聴、そしてFacebookがトランプ政権の選挙に協力してきた英国のCambledge Analyticaを通じて米国の有権者動向分析のための膨大な情報を提供してきた問題など、ネットワークの世界は同時に、諜報活動や情報収拾活動の重要な基盤になっている。さらに、5Gになれば、このネットワーク同時に社会インフラを支えるコンピュータシステムと密接に統合され、いわゆる「サイバー攻撃」のリスクが高まるとも言われている。

6.2 自由の社会的基盤としてのコミュニケーション環境

コミュニケーションは私達の基本的人権の核でもある言論表現の自由、思想信条・信教の自由を支えるものだ。このコミュニケーションの権利が資本と国家の利害に私生活プライバシーのレベルから統合される事態が生まれている。その結果として、資本と国家の利益が私達の自由の権利を抑圧することが正当化される傾向が生まれている。

しかも、こうした抑圧は、鎖に繋がれた苦痛のような実感を伴うことなく、人々の一見すると自由な動きそのものを規制しコントロールするようになっている。指紋認証、顔認証、行動分析から将来の犯罪予測まで、コンピュータは広範囲の監視と規制の警察や軍隊の技術としてIT産業を支えるようになっている。米中でHuaweiを槍玉に上げて起きていることは、コンピュータ技術とコミュニケーション技術の主導権の転換を象徴している。

7 「テロ対策」名目の治安監視と超法規的な 市民的自由の剥奪―それでも闘う民衆たち

7.1 異常な規模の治安対策予算

テロなどの警備対策予算は約333億円。前年度予算から207億円の増加。代替わり関連は38億円に対してG20警備関連予算が120億円。警備費用は異常という他ない膨大な金額である。G20開催国は、いずれも膨大な警備費用と反対運動をはじめとしてテロ対策のために、 市民的自由を公然と制約し警察力を強化し、監視社会としてのインフラを構築する。その結果として、こうした警察-監視の体制が構造化される。

G20の会合は、これまでのオルタ/反グローバリゼーション運動が活発な国でも大規模な大衆運動が展開されてきた。たとえば、2010年トロントのG20では、史上最大の警備費用を投じ、警察の過剰警備によって反対運動参加者700名が逮捕される事態になった。警察の弾圧は無差別に近いもので、その後警察の行動については多くの批判的な検証が行なわれた。

7.2 トロントの場合

トロントの反g20運動が大きな高揚を実現できたのは、リーマンショック以降のG20諸国がおしなべ公的資金を金融機関救済に投じる一方で、緊縮財政と新自由主義政策をとったことへの強い異議申し立ての問題だけではなかった。むしろ、こうした狭義の経済問題に連動する形で起きてきた、多くの社会問題に対して、コミュニティの活動家からグローバルなNGOまで、いわゆる市民運動からマルクス主義左翼、アナキストまで、非暴力のストリートフェスティバルといった趣きからブラックブロックによる多国籍企業店舗への攻撃まで、アーティストや先住民運動まで、移民の権利から性的マイノリティの権利運動までが参加したことによる。

トロントのG20反対闘争は10日ほど続いた。

  • 2010年19日、20日(日)ピープルズ・サミット。労働組合や環境運動団体、NGOなどが主催。カナダ-EU自由防疫協定から先住民運動かで100以上のワークショップなどを開催。
  • 21日(月) 南オンタリオの反貧困運動が主に組織た抗議行動。数百名のデモ。数名逮捕。旗を持っていたとか、デモの規制地域にある自分の職場に入ったことなどが理由。
  • 22日 ジェンダーやクィアの権利のデモ。ダウンタウンでは同性愛嫌悪に対抗した「キス・イン」。
  • 23日 環境や気候変動を中心としたこの時点まででの最大規模のデモ。音楽、ダンス、ドラム、フェイスペイントなどの陽気なデモ。
  • 24日 Indigenous netwoark Defenders of the Landが組織した先住民の権利デモ。前日のデモ参加者を上まわる。
  • 25日 「わたしたちのコミュニティのための正義を」を掲げコミュニティの運動を中心としたデモ。移民の市民権や主権の問題から福祉切り捨てまで。最後はブロックパーティが路上で行なわれ終夜の「テント村」が出現。

ほぼ毎日1万から4万人のデモ

  • 26日(土) 「People’s First」をかかげて、組合やNGOがデモを組織。ブラックブロックを含む反資本主義、反植民地主義を掲げるデモの一部が警戒区域へと向う。銀行、スターバックスなどの多国籍企業の店舗が破壊される。この日以降、警察による報復攻撃が始まり、非暴力デモに対しても弾圧が始まる。
  • 27日 警察も暴力が顕著になる。ほとんどの市の主要な活動家たちが逮捕され、路上の抗議行動参加者の疑いがあるというだけで拘束。
  • 28日 逮捕された人達との連帯デモ。釈放された人達も再び路上へ。
  • 25日から27日だけで700名が逮捕される。10

こうしたカナダでの弾圧は例外ではない。むしろ毎年のG20の開催に伴って、どこの国でも同様の弾圧が繰り返されてきた。G20は、グローバル資本主義を中枢で担う諸国が、その「価値観」や利害を異にしながらも、国内の反政府運動を弾圧するための格好の口実であるという点では利害の一致をみている。G20にとってこうした国内治安弾圧は、副次的な意義しかないのだが、現実政治のなかでは、むしろこの治安弾圧が主要な獲得目標になっているとみてもよいくらいなのだ。

7.3 治安監視の国際ネットワーク:スノーデンファイル

トロントのG20会合について、カナダの公共放送が興味深い記事を配信した。11

https://jp.reuters.com/article/l4n0jd1iv-nsa-tronto-idJPTYE9AR04E20131128

NSAがトロントG20で諜報活動、カナダ政府は黙認=報道 [トロント 28日 ロイター] -カナダの公共放送CBCは27日、2010年にトロントで行われた20カ国・地域(G20)首脳会議の際、米国家安全保障局(NSA)が諜報活動を行うことをカナダ政府が認めていたと伝えた。

これはCBCが、NSAの元契約職員エドワード・スノーデン容疑者が持ち出した機密文書を引用する形で伝えたもの。それによると文書は、オタワの米国大使館が諜報活動の司令部となり、オバマ米大統領など各国首脳が相次いで会談する中、6日間にわたりスパイ活動が行われていたことを示しているという。

ロイターはこの文書を確認しておらず、報道の内容を確認することはできない。

また報道によるとNSAのメモには、この作戦は「カナダのパートナー」と緊密に連携して行われたとする記載があり、カナダ当局が米国の諜報活動を黙認していたと伝えている。

報道は具体的な諜報活動の対象については明らかにしていない。

カナダのハーパー首相の報道官はCBCの報道についてコメントを拒否した。

ここで言及されているスノーデンの暴露した機密文書には、アルカイダなどの国外のテロリズムの他に次のような記述がある。

「情報機関は、課題別の過激派がサミットに登場するとみている。こうした過激派は、これまでのサミットでも破壊行為を行なってきた。同様の破壊的活動がトロントのG20の期間中に集中する可能性がある」12

報道にあるスパイ活動には、G20に反対する運動へのスパイ活動も含まれていることが上の文書からも明かである。治安監視問題は、国内の警察問題ではなく、G20参加諸国の情報機関も関与する問題になっている。同盟国が相互に相手国の情報収集するだけでなく、開催国の国内治安問題いも関心を示す。オルタ/反グローバリゼーション運動が国境を越えるとともに監視のネットワークもまた国際化していることが如実にあらわれている。

8 おわりに:シンボリックな外交儀礼とナショナリズムだとしても、だからこそ…

G20で議長国が、リーダシップを発揮して、何らかの政治的な合意をとりつけることは、容易ではないし、たとえ合意があっても、ほとんど実効性のない空手形の類いに終るであろうことは明白だ。そうであればあるほど、G20の性格は、実質的な政治や外交の交渉の場というよりも、このメガイベントをまさにイベントとして演出することによってもたらされるある種の祝祭効果のようなものが期待されるようになる。

国家が内包する人々の意思は多様であり、支配的な制度の意思やイデオロギーに還元するとはできない。儀礼や祝祭を権力が演出するとき、これらに冷水を浴せるような民衆の怒りや嘲笑は、儀礼や祝祭が隠蔽しようとする空疎な内実を白日のもとに晒すことになる。権力者が恐れるのは、彼等の側には、現在のグローバルな資本主義が抱えている、制度そのものの内在的な矛盾を解決する道筋を見出せていないばかりか、逆に、制度内部で、権力者達がお互いに啀み合い、敵対せざるをえないようなヘゲモニーの交代に直面しているからだ。私達にとって、トランプや安倍を肯定しないからといって、G20のどの国が主導権をとろうとも、歓迎することも「敵の敵は味方」といった安直な王様選びのゲームには加担しない。

外交や国際関係は、コミュニティをベースにした直接民主主義が成り立ちにくい分野だ。なぜなら、利害関係者が国境を越え、国家によって分断されるからだ。多国籍資本の投資であれ、政府による開発援助であれ、あるいは軍事的な介入であれ、当事者の主体となるべき民衆の側は分断されたまま、「首脳」を名乗る者たちが、あたかも主権者の代表であるかのようにして、物事を決めていく。ネットワークがグローバル化したからといって、人々のコミュニケーションが言語の壁を越えるのは容易ではない。そして、こうした越境する連帯を阻害しているのは、G20のような首脳たちであるだけでなく、そもそもの国民国家が国益のために築いている「壁」、現代の関所ともいうべき国境である。もし民主主義を語るのであれば、その最低限の条件は、国境を越えた民主主義でなければならない、ということである。一方の当事者だけで物事を決めるべきではないからだ。とすると、そもそも、国民国家が国別に定めた憲法のような法の支配の体制もまた相対化されざるをえない。G7が傲慢に宣言した共有された自由や民主主義の価値を私達は共有するつもりはない。概念を再定義する力、ことばを取り戻すことを、言語の壁を越え、文化を横断して実現するにはどうしたらいいのだろうか。権力者のいう自由や民主主義にはうんざりだ。デモをする自由も異議申し立ての自由もろくに与えないこの国の主権者たちはその責任を自らとる必要がある。しかし、それが一国の内部に留まるなら、グローバル資本主義には立ち向かえないが、同時に、私達の日常生活は、ほとんどコミュニティや地域を越えることもない。しかし100年後、1000年後を夢見ることはできる。こうした意味での想像力を鍛えることだ。

私達が目指すのは、資本主義衰退であって、繁栄ではない。ひとつの国家が、文明が、没落し滅びることに期待を寄せ、無上の喜びを見出すためには、どのような夢を見たらいいのだろうか。

9 (補遺)簡単な年表

2009年 ティーパーティ運動始まる
2010〜15 ギリシア危機。15年、チプラス政権誕生
2010〜12年 アラブの春。この民衆運動はほとんど全てのアラブ中東諸国に波及
2011年〜12年 オキュパイ運動
2011年 シリア反政府運動から内戦へ
2011年 リビア内戦
2013〜14年 ウクライナ、ユードマイダンの反政府運動
2014年 イスラム国宣言
2014年 クリミア独立宣言
2014年 スコットランド独立投票(否決)
2014年 米国と有志連合、シリア空爆開始
2014年 スペイン、カタルーニャ独立投票
2014年 香港雨傘運動
2014年 台湾ひまわり運動(国会など占拠)
2015年〜 ヨーロッパへの難民の急増(世界の難民は2100万人:UHCR)
2016年 英国、EU離脱国民投票(可決)
2017年 トランプ政権成立
2019年 ブラジル、ボルソナーロ極右政権誕生

歴史は繰り返さないが、こうした歴史の教訓を念頭に置くことは、極右の台頭とグローバル資本主義の揺らぎに時代にあって、決して無意味なこととはいえないだろう。

Footnotes:

1 公共サービスとしての教育や社会保障、社会福祉のイデオロギー上の目的は、人間としての最低限の文化的な生活の保障といった憲法上の要請によるものとされている。しかし、資本主義システムの構造的な機能との関係でいえば、資本による賃金コスト抑制のために政府がそのコストを肩代わりすること、賃金はあくまで〈労働力〉の価格でしかなく、人々が生涯にわたって生存できるだけの所得とは関わりがない。貧困は、資本による直接的な搾取の他に、生存を保障できない労働市場の構造にもその原因があり、資本主義経済のこの矛盾を政治的に(財政によって)解決することによって、階級闘争を抑制し、生存を国家に依存する従属の構造(ここには、心理的な従属を含む)を生み出す。資本主義国家における社会保障や社会福祉は労働者階級あるいは民衆が資本と国家から自立した生存の構造を自律的に生み出すような運動を抑制して、生存を国家に統合するという性質をもつ。社会保障、福祉はこの意味で、手放しで肯定できるものではない。

2 インターネットのガバナンス組織は、ICANNである。米国に本社を置く非営利民企業。インターネットの技術仕様や資源(IPアドレス)などや、ルートサーバの管理などの中心的な課題がICANNの理事会で決定される。

3 外務省ウェッブ https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/summit/ko_2000/faq/index.html

4 欧米近代の相対的な後退のなかで登場てしきた「極右」と呼ばれる様々な反近代=伝統主義の運動は、今回が始めてのことではない。20世紀初頭、第一次世界大戦による惨劇は、「西洋の没落」(シュペングラー)の最初の出来事だった。西欧近代の諸国は、価値観を共有しながらも、総力戦によってお互いに膨大な数の殺し合いを繰り広げた。その後、この戦争を帝国主義として再定義し、西欧近代を支えた資本主義を否定する社会主義運動が大衆的な高揚のなかで受容されるなかで、資本主義近代でもなく社会主義・共産主義でもない第三の道が伝統主義として呼び出された時代でもあった。同時に、ロシア革命からイタリア、ドイツへと拡がった革命のなかから、ファシズムが登場する。ファシズムは、高度な科学技術と生産力と近代以前に遡る民族主義や伝統主義によって、国家の正統性を再定義しようとする運動でもあった。ここで鍵を握ったのは、労働者、農民を、その家族とともに、国家に統合するためのイデオロギーの創造だった。

5 近代資本主義体制は、経済的価値増殖を自己目的とする資本、権力あるいは政治的な「価値増殖」を自己目的とする国家という二つの側面をもつ。経済的政治的な「価値増殖」に帰結する構造はひとつではない。しかし、この構造にとって、資本にとっては〈労働力〉が、国家にとっては国民が、社会的な人間のアイデンティティの核をなすものとして要求される。しかし、この二つの構造にとって必須でありながら、そのいずれのメカニズムにも完全に包摂していていないもうひとつのサブシステムがある。それが、親族組織(あるいは家族)である。家族は、〈労働力〉再生産の基礎をなす。国民として、また〈労働力〉として訓育するための国家の組織、教育制度は、家族による子どもの養育を前提とした組織である。失業者、高齢者などの非〈労働力〉人口を生活の基盤として支えるのは家族(単身の場合も含む)である。家族は、資本や国家に超越した普遍的な親族組織なのではない。むしろ逆である。〈労働力〉市場と国家の人口政策が家族の構造を規定する。資本主義は、体制として世代の再生産を資本と国家の組織内部で自己完結的に実現できない。家族はこの意味で必須の前提になる。資本主義が中心的に要請する世代の再生産の役割が家族に振り分けられる結果として、家族イデオロギーもまた世代の再生産を中心に構築される。世代の再生産と関わらない家族は周辺化され差別化される。

6 GDPは問題の多い指標である。しかも一国単位のデータは国内の格差を明示しないという問題もある。しかし、長期的な傾向がどのようであるのかを概観することがここでの目的である。

7 この図は電力各社のウエッブにも掲載されている。原発を正当化するためのデータとして用いられるようだが、むしろ注目すべきなのは、工業化がいかにイエネルギー過剰消費の構造をもっているか、である。 https://www.eneichi.com/useful/2192/

8 イスラム教徒が少数のミャンマーでは仏教徒が多数者として加害者になる。イスラム教徒が多数のパキスタンとヒンズー教徒が多数のインドとでは、同じ宗教に属する人達の加害と被害の構図は異るが、マイノリティへの抑圧という構造は共通する。言うまでもなく、日本の多数とは天皇信仰を持つ者たちである。民主主義は多数決原理に還元できないといわれながら、現実の政策や法制度は多数決原理による民主主義によって正当化されることを考えると、民衆内部の多数と少数の複雑な構図がもたらす問題は無視できない。

9 人口の質的コントロールとは、イデオロギー装置による「国民」としての形成を指す。「国民」という枠組を人口のカテゴリーとして構築するということは、国境内部の人口の周辺に国民とは定義されない人口を抱えていることを意味している。

10 ここでの時系列の出来事は、以下による。Tom Malleson and David Wachsmuth eds., Whose Streets?, Between the Line, Toronto,2011.

11 下記も参照。 http://metronews.ca/news/canada/868200/u-s-spied-on-g20-summit-in-toronto-and-canada-knew-about-it-cbc/

12 TOP SECRET // SI / TK // REL TO USA AUS CAN GBR NZL https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3965/snowden/snowden6.pdf

国連人間開発報告書。19世紀以来貧富の格差は拡大しつづけた。新自由主義だけが貧富の差を拡大させたわけではない。
19世紀から20世紀にかけてのCO2排出量は異常な増加を示している

Date: 2019-05-16 22:12:00 JST

Author: 小倉利丸 (ogr@nsknet.or.jp)

Org version 7.6 with Emacs version 25

出典:https://www.alt-movements.org/no-g20/blog/index.php/g20hihan/

6.8集会とデモ:ビッグデータがもたらす監視社会、G20デジタル経済・貿易会合への批判

G20サミットを持続させるな!

G20サミットを持続させるな!

集会やります

日 時 2019年5月17日(金)18:30~
場 所 文京シビックホール 会議室1(3階)    
資料代 500円


G20(金融・世界経済に関する首脳会合)が大阪で6月28、29日に開催されます。アルゼンチン、オーストラリア、ブラジル、カナダ、中国、フランス、ドイツ、インド、インドネシア、イタリア、日本、メキシコ、韓国、南アフリカ共和国、ロシア、サウジアラビア、トルコ、英国、米国、欧州連合(EU)が参加する会議で、G7以上に注目されています。首都圏では、つくばで6月8、9日に貿易・デジタル経済大臣会合が開催されます。新自由主義グローバリゼーションによって金融危機、貧困、気候変動と環境破壊、戦争などを世界中にばらまいてきたG20の国々の多くでは、日米を含め極右が政治の中枢に入りこむようになっています。


発言者

藤田康元(戦時下の現在を考える講座、つくば市在住)
デジタル技術神話を解体する

内田聖子(NPO法人アジア太平洋資料センター(PARC)共同代表)
自由貿易にNOを突きつける国際市民社会の運動

稲垣豊(ATTAC首都圏)
「造反無理、革命有罪」のデジタル毛沢東の矛盾論と実践論

☆司会および問題提起:小倉利丸(盗聴法に反対する市民連絡会)
G20やってはいけない5つの理由

つくばでは、自由貿易の問題に加えて、米中の緊張関係の一つともなっているデジタル技術や知的財産をめぐる貿易が議論され、新自由主義+監視資本主義という流れが作り出され、知識も情報もコミュニケーションを売り物にしたり、政府や企業の所有にするような動きがあります。また福岡では世界中に金融危機と債務をばらまいた金融機関の政府代表であるG20財務大臣・中央銀行会合が開催されます。危機の根本解決は先送りされ、金融資本主義の後押しをする議論がされます。

つくばや福岡、そして大阪など全国各地で開催される関連大臣会合やグローバルな運動の現場でNOの声をあげる人々とも連携して、抗議の声を上げたいと思います。

主催:戦時下の現在を考える講座、ATTAC Japan(首都圏)、盗聴法に反対する市民連絡会

賛同団体:JCA-NET、日刊ベリタ、聖コロンバン会

連絡先
070-5553-5495(小倉)
no-g20@protonmail.com
https://www.alt-movements.org/no-g20/blog

G20大阪NO! アクション・ウィーク(6月28−29日、大阪)お知らせと賛同のお願い


G20大阪NO! アクション・ウィーク実行委員会

代表(五十音順)

斉藤日出治(大阪労働学校アソシエ学長、大阪産業大名誉教授)

高里鈴与(基地・軍隊を許さない行動する女たちの会)

服部良一(元衆議院議員)

 

6月28−29日に大阪・インテックス大阪でG20サミットが開催されます。日本で初めて開催される2019年G20サミットにあたって、私たちは世界の人々と連帯して、私たちの未来を構想し、実現に向かって着実な一歩を踏み出すための取り組みを呼びかけます。

 

当実行委員会では、以下の行動を計画しています。

5月11日(土)プレ企画☆小倉利丸さん講演会

□講演:「G20の混迷と私たちの未来」

小倉利丸さん(批評家、ブログ「no more capitalism」を主宰、著書に『絶望のユートピア』など)

□海外からのビデオメッセージほか

午後6時半からエルおおさか南館5階ホール

地下鉄谷町線/京阪・天満橋下車・土佐堀通り沿いに西へ300m(松屋町筋との交差点の手前)

参加費500円

5月26日(日) (トランプ来日。トランプ・安倍会談) なんばで街頭宣伝、午後11時半から1時間ほど

6月23日(日)午後1時 新町北公園、3時ごろからデモ

6月28日(金)集会・デモ(時間・場所未定)

 

詳しくは↓をご覧ください(随時更新しています)

ブログ:https://nog20osaka.socialforum.jp/

Facebookイベントページ:https://www.facebook.com/events/646009015850782/

 

実行委員会への参加・賛同をよびかけます

 

*第4回実行委員会 5月23日(木) 午後6時半 エルおおさか南館71(定員30人)

*第5回実行委員会 6月10日 (月)午後6時半 エルおおさか701(定員54人)

1部:ミニ学習・討論会

626-27日に市民フォーラムを開催するNGOとの交流・討論。ゲスト講師として武田かおりさん(AMネット)に市民フォーラムの取り組みや海外ゲストの顔ぶれなどについて報告していただきます。

海外からのビデオメッセージも紹介します。

2部:6・23と28の直前打ち合わせ

 

実行委員会に賛同していただける方は賛同金として個人11000円、団体13000円を下記にお振込みください。

*振替口座 00930-4-196796 G20大阪サミット・アクション・ウィーク」

*実行委員会連絡先:市民共同オフィスSORA 06-7777-4935(月~土 午後2-5時)

 

4/27~5/1 終わりにしよう天皇制!反天WEEK!

気候変動に抗議する非暴力直接行動、Extinction Rebellion

昨年から、英国を中心にして起きている気候変動に抗議する非暴力直接行動、Extinction Rebellionが4月15日から集中行動を呼びかけ、公共交通を遮断する行動をおこなっている。

これまでに、300人以上が逮捕されている。私のアンテナになぜかひっかかってこなかったのだけれども、日本語の情報がなかなかみつからない。気候変動に関心のある日本の運動体がどのくらいこの運動を報じているのか。

国際的な運動も呼びかけられており、オーストラリアでも地方議会占拠。
https://wattsupwiththat.com/2019/04/16/extinction-rebellion-occupies-south-australian-parliament-demands-more-climate-action/
米国のサイト
https://extinctionrebellion.us/rebellion-week

こうした運動が昨年からあったことを知っていたら、フランスのイエローベスト運動との関連も含めて、運動の目標や運動のスタイルなども含めて、もっと幅広い議論ができたかもしれない。いずれにせよ、日本は、こうした運動のサイクルから脱線している。

本日のDemocrary Nowの報道。背景も含め、当事者へのインタビューもあり、わかりやすい。

https://www.democracynow.org/shows/2019/4/17

昨年までの行動(ガーディアン)Life inside Extinction Rebellion: ‘We can’t get arrested quick enough’

https://www.youtube.com/watch?v=jAH3IQwHKag

気候変動運動全体にいえることですが、原発への言及はたぶんないかほとんど目立たなと思います。extinction rebellionのサイトで検索してもヒットしない。原発への観点を気候変動の運動に提起するのは反原発運動にとって重要な課題と思います。

返上以外の選択肢はない!2020東京オリンピック誘致の違法性をなぜ問わない?

2019年3月19日に開催されたJOC理事会で、竹田恒和の6月の任期終了によって退任することを決めた。フランスの捜査当局が贈賄容疑で捜査していることに対して、竹田は、自身の潔白を1月の記者会見でも主張したが、辞めざるをえないところに追いこまれた。

東京新聞は3月20日の社説で次のように述べた。

「当時の東京五輪・パラリンピックの招致委員会は、約百四十九億円もの費用をかけながらリオデジャネイロに敗れた。そのため二〇年大会の招致では、大手広告代理店が推薦したシンガポールのコンサルタント会社に二億円超を支払って万全を期したが、その一部が票の買収に使われたことが明るみに出た。

贈賄疑惑を追及する仏司法当局が、招致委の理事長を務めていた竹田氏に捜査の目を向けるのは当然といえる。一方の竹田氏はコンサルタント会社に支払ったのは「正当な対価によるもの」としている。ただ、その金がどのように使われるかを知らなかったとしても、会社の素性や背後にいる人物を慎重に調査するべきだった。一六年大会の招致に失敗した焦りがあったのかもしれない。」

オリンピック招致でリオに敗北した総括として、買収作戦を展開したわけだが、これがフランスでは贈賄に当たるとして捜査の対象になる一方で、日本国内では、日本の国内法には違反していないから捜査できないし、問題もないといった主張が目立つ。上に引用した東京新聞の社説も歯切れが悪い。社説では「五輪開催の理念が乏しいまま招致にかじを切った関係者、関係団体すべてが反省するべきことだ」と批判するが、そもそも金で買ったオリンピックなど返上すべきだ、というふうには言えていない。

NHKは全く問題点には言及せず竹田がこれまでオリンピックにどのように寄与してきた人物なのかを紹介するなど、推定無罪の原則を非常に忠実に守る報道に徹している。(もちろん皮肉だが)

日本のメディアの報道では、竹田会長の辞任を残念と感想をもらす。政治家たちも一様に、静観するかノーコメントだ。野党も「フランスで行われている捜査との関係が分からないのでコメントのしようがない」(立民 福山幹事長)、「事情が分からないので、軽々に言えないが、疑念を持たれる対応をとること自体が問題だという思いはする。」(社民 又市党首)といったどこか他人ごとで、自ら真相究明を国会などの場で行う姿勢は皆無だ。オリンピックを敵に回すことは有権者を失うこと、という票の思惑がみてとれる。

事の発端は、2016年5月に英国のガーディアン紙が「東京オリンピック:2020大会に向け130万ユーロを秘密口座に送金」 と題した記事だった。国際陸上競技連盟(IAAF)のラミン・ディアク前会長の息子の関係口座にアフリカの票を買収する目的で金が流れたとみられる。

ガーディアン紙によれば、日本の贈賄疑惑は、世界反ドーピング機関(WADA)の独立委員会が2016年に提出した腐敗関連報告書の記述にあると指摘されていた。この報告書の第二巻の注に次のような記述がある。

「トルコの個人とKDとの間の様々な議論の記録(トランスクリプト)は2020年夏のオリンピックの開催年をめぐる誘致競争に関する議論に言及している。この記録では、トルコはDiamond LeagueかIAAFに200万ドルから500万ドルのスポンサーシップの金を払わなかったのでLDの支持が得られなかった。この記録によると、日本はこの金額を支払った。2020年のオリンピックは東京が招致に成功した。独立委員会はこの問題については、管轄外なので更なる調査をしなかった」(34ページ)

非常に欺瞞的なのは、この報告書に対する2016年12月12日の日本ドーピング委員会(JADA)の見解である。この見解のなかで次のように述べている。

「同報告書において指摘された競技大会、競技種目に関係する組織においては、クリーンなアスリートの擁護と競技大会の健全性の担保のために、速やかに適性な処置を講じることを強く要請します。

当機構は、Institute of National Anti-Doping Organizations (iNADO)との連携により、ロシアのアンチ・ドーピング体制の健全化支援を推進するとともに、2019年ラグビーワールドカップ、2020年オリンピック・パラリンピック競技大会のホスト国のアンチ・ドーピング機関として、競技大会の健全性を担保するために、国内外の関係組織と連携を密に図り、徹底した対策を講じていく所存です。」(オリジナルはリンク切れ。ここで読める。)

JADAは上述した日本の誘致疑惑については一切無視し一言の言及も弁解もしていない。

BBCの報道では、ディアク前会長はすでにロシアのドーピング疑惑に関連して収賄や資金洗浄でフランス当局に2015年に逮捕され、息子のパパ・マサタ・ディアク容疑者もインターポール(国際刑事警察機構)が指名手配していた。(以上上BBC日本語ウエッブ版) そして日本側がコナルタントとして契約したとされるブラックタイディング社はこうした疑惑の中心人物たちと近しい関係にあったことが知られている。ドーピン関連の問題も含めて、こうした一連の経緯のなかで、フランス捜査当局は2016年と2020年両方のオリンピック招致決定経緯についての汚職捜査を行った。

JOCは2016年にいわゆる第三者委員会を設置して、この疑惑についての検証を行い、報告書を出した。 この報告書では一切の疑惑を否定している。つまり、ブラックタイディング社との契約は賄賂のための架空の契約ではないし、この会社もペーパーカンパニーではない。「関係者の供述に加え、その成果等に照らしても、本件契約が架空の契約であったとか、およそ実態のない契約であったと認めるに足る証拠はない」とし、また、日本の刑事法に照らしても贈賄罪は「日本の刑法上、民間人に対して成立する余地がない」し、背任についても構成要件を満たしていないとし、「日本法上、民事上・刑事上のいずれも違法と解される余地はなく、適法であることは論を俟たない」(36ページ)と全面的に「白」の判断を下した。しかしディアクら渦中の人物にも会っておらず、フランスの捜査当局の動向は無視した。

日本国内でも、専門家たちによるこの第三者委員会の報告書への評価は低く、「第三者委員会報告書格付け委員会」は、この報告書の格付けは評価委員8名中2名が不合格にあたる最低ランクのF、残る6名が最下位のD評価としている。

●実は国内法に抵触している

その後の報道でも、JOCの第三者委員会の国内法適法を鵜呑みにして報道してきた。しかし、実は、国内法に抵触しているのだ。それは不正競争防止法である。その18条1項に興味深いことが書かれている。

「何人も、外国公務員等に対し、国際的な商取引に関して営業上の不正の利益を得るために、その外国公務員等に、その職務に関する行為をさせ若しくはさせないこと、又はその地位を利用して他の外国公務員等にその職務に関する行為をさせ若しくはさせないようにあっせんをさせることを目的として、金銭その他の利益を供与し、又はその申込み若しくは約束をしてはならない。」

「外国公務員等」とあるように、この規定は外国公務員に限定されていない。言うまでもなく、疑惑が本当なら、オリンピック誘致で「国際的な商取引に関して営業上の不正の利益を得る」ことを目的にして、金を送ったという理屈は成り立つように思う。

また、竹田は公務員ではないが、オリンピック組織委員会の委員はみなし公務員とみなされて贈収賄罪の対象になる。(Wikiペディアの「みなし公務員」の例示に、オリンピック組織委員会が含まれている)そして、金の渡った先は、コンサルタント会社を介して当時のIOC委員だとされているから、みなし公務員、あるいは下で説明するように「外国公務員」といえる。

経産省は不正競争防止法について次のように説明している。

「不正競争防止法では、OECD(経済協力開発機構)の「国際商取引における外国公務員に対する贈賄の防止に関する条約」を国内的に実施するため、外国公務員贈賄に係る罰則を定めています。」

そして、この「外国公務員贈賄に係る罰則」を次のように説明している。

「国際商取引において自分らの利益を得たり、維持するために、外国公務員に対して直接または第三者を通して、金銭等を渡したり申し出たりすると、犯罪となります」

これは国際商取引における外国公務員に対する贈賄の防止に関する条約第一条を説明したものといえる。条約の条文そのものは以下のようになっている。

「第一条 外国公務員に対する贈賄

1 締約国は、ある者が故意に、国際商取引において商取引又は他の不当な利益を取得し又は維持するために、外国公務員に対し、当該外国公務員が公務の遂行に関して行動し又は行動を差し控えることを目的として、当該外国公務員又は第三者のために金銭上又はその他の不当な利益を直接に又は仲介者を通じて申し出、約束し又は供与することを、自国の法令の下で犯罪とするために必要な措置をとる。

2 締約国は、外国公務員に対する贈賄行為の共犯(教唆、ほう助又は承認を含む。)を犯罪とするために必要な措置をとる。外国公務員に対する贈賄の未遂及び共謀については、自国の公務員に対する贈賄の未遂及び共謀と同一の程度まで、犯罪とする。

3 1及び2に定める犯罪を、以下「外国公務員に対する贈賄」という。

4 この条約の適用上、

a 「外国公務員」とは、外国の立法、行政又は司法に属する職にある者(任命されたか選出されたかを問わない。)、外国のために公的な任務を遂行する者(当該外国の公的機関又は公的な企業のために任務を遂行する者を含む。)及び公的国際機関の職員又はその事務受託者をいう。

b 「外国」には、国から地方までのすべての段階又は区分の政府を含む。

c 「外国公務員が公務の遂行に関して行動し又は行動を差し控える」というときは、当該外国公務員に認められた権限の範囲内であるかないかを問わず、その地位を利用することを含む。」

この条約では「外国公務員」を以下のように定義している。

「「外国公務員」とは、外国の立法、行政又は司法に属する職にある者(任命されたか選出されたかを問わない。)、外国のために公的な任務を遂行する者(当該外国の公的機関又は公的な企業のために任務を遂行する者を含む。)及び公的国際機関の職員又はその事務受託者をいう。」

あきらかにオリンピック組織委員会の委員はこの外国公務員に該当する。

今回の場合は、「第三者を通して」ということになるわけだが、疑惑が事実とすれば、明かに日本が締結した条約と、この条約を踏まえた日本の国内法に抵触するのだ。

更に興味深いのは、この条約には共犯の犯罪化も明記されていることだ。上に引用した条約第一条第二項にあるように、「外国公務員に対する贈賄行為の共犯(教唆、ほう助又は承認を含む。)を犯罪とするために必要な措置をとる。」こと、更に「未遂及び共謀については、自国の公務員に対する贈賄の未遂及び共謀と同一の程度まで、犯罪とする」となっている。とすれば、問題は竹田にとどまることにはならないだろう。JOC、東京都、電通など関連するすべての組織がこの共犯規定に抵触する疑いがあるとはいるはずだ。

更に条約では「締約国は、自国の法的原則に従って、外国公務員に対する贈賄について法人の責任を確立するために必要な措置をとる。 」ともあり、上記の不正競争防止法の条文の「何人も」には法人が含まれると解される。法人の責任ということになると、JOCや誘致した自治体など広範囲の団体の責任が問われることになる。

2020オリンピック招致でなりふり構わぬ招致競争を繰り広げてきた当時を思い浮かべれば、贈賄とみなしうるような対応をとった可能性を否定できない。だからこそ、というべきかもしれないが、この問題を、森友や加計問題のように追及されると、その広がりは権力の中枢に及ぶ危険性がありうるという危機感が権力者たちの側にあってもおかしくない。メディアも野党の政治家もオリンピックそのものと誘致過程での不正を切り離し、更に、誘致の不正は日本の国内法には抵触しないという理屈で、その真相追及には及び腰になる、という不正隠蔽のスパイラルが働いているようにみえる。竹田の退任は、国と東京都、JOCそして電通などが共謀した権力犯罪全体が明るみに出ないような予防措置だと判断できる。

外国の関係者にリベートを渡して不正競争防止法違反に問われたケースはいくつかある。ベトナムなどへのODAで、日本の民間会社社長や法人そのものが外国公務員への贈賄で起訴されたケースは注目された。(「現地関係者が繰り返し賄賂要求 ODA汚職初公判、被告ら起訴内容認める」) この事件を受けてJICAは不正腐敗防止強化を打ち出したりした。

オリンピックにはナショナリズムの特別な感情が絡みつき、スポーツそのものを神聖視する価値観もあって、誘致の過程での不正、開発最優先で住民を追い出す、人権を無視した監視や治安政策を推進するなどといった政府、自治体の対応が、ことごとく甘く見逃されてきた。この見逃しの構図に、電通などの巨大な情報資本がメディア支配の力を発揮して報道を抑えていると思われる。ましてや誘致に必要な票を買うくらいのことは、そうでもしなければ誘致できないのであれば、仕方がない、あるいは、そうした金でしか動かない国がある(といった事実上のレイシズムを逆用した居直り)などという大衆感覚が巧みに煽られてもいるように感じる。

誘致の犯罪にきちんとしたケジメをつける唯一の方法はオリンピックの返上である。オリンピックを名目とした権力犯罪が野放しである構図は、野宿者排除、監視社会化、テロ対策名目の治安強化、日の丸・君が代の強制など日常生活のあらゆる面を覆っている。これらせすべてに日本の大企業とメディアが加担する構図ができあがっている。誘致をめぐる犯罪もまたこうした隠蔽の構図と日本の大衆意識のなかにある「オリンピックのためなら仕方がない」「あるいは金を積んででも誘致しろ」といった暗黙の共犯者意識があり、これが権力の腐敗を下から支えている。

ニュージーランドの白人至上主義者によるテロリズムについて

今回の事件は、その被害者の規模からみても、ニュージーランドという場所からいっても、かなり深刻だな事態だと思います。

犯人たちは、犯行前にかなり詳細なマニュフェストを公開しています。
Observer紙が全文をネットで公開しています。
https://observer.news/featured/the-manifesto-of-brenton-tarrant-a-right-wing-terrorist-on-a-crusade/

詳細に読んだわけではありませんが、極右の若者が何を考えているのかを知る上でいくつか気になることが書いてありました。

・白人労働者階級の貧困層出身で学歴も高卒と述べている。
・政治経験について、最初はコミュニストに、次にアナキスト、そしてリバタタリアンになり最後にエスノナショナリストになったという。
・「グリーンナショナリズムが唯一のナショナリズム」である。
・必ずしもクリスチャンではない
・文化の多様性を否定しない。むしろ白人文化がイスラムによって侵略されており、このことが多様性を否定することになっている。
・それぞれの文化、民族はそれぞれの生れた場所で生きるべきだ。
・人間は平等(相互に均質な人間)ではありえない。なぜな、みな相互に異る存在だから。多様性は平等とは相容れない。
・現在とは私たちの祖先の人々からの贈り物である。
・客観的な事実よりも感情が優る。
・ヨーロッパをヨーロッパ人に返せ。
・運動がすでに世界で起きている。ポーランド、オーストリア、フランス、アルゼンチン、オーストラリア、ベネズエラ、カナダで。
・イスラム教徒、移民の出生率の高さは、いずれ白人を少数民族にしてしまう。
・民主主義も世界的な大企業もEU、NATO、国連も宗教指導者もみな自分たちの敵である。
・グローバル化した資本主義市場は人種主義的なオートノミスト(人種を基盤としたコミュニティの自治)の敵である。
・移民労働力が低賃金をまねく。労働者は団結し、出生率を上げて移民を削減すること、労働者の権利を確立して、自動化を進めれば安価な移民労働力は不要になる。

こうした主張は、先住民の「先住」者としての優越性を完全に無視して、あかたもニュージーランドがそもそも白人の国であるかのようにみなしているという間違いがありますが、これはほぼどこの国の白人至上主義者も犯している意図的な誤ちです。上の主張は、最近の欧米の極右に共通したイデオロギーで、その意味では新しいものはありませんが、日本の古典的な右翼の主張とはいくつかの点で違いもあります。

しかし、極右の思想のいくつかは、左翼が掲げてきたスローガンを巧みに転用したものでもあります。新自由主義グローバリゼーションがもたらした貧困や格差、環境破壊の解決を、「エスノナショナリズム」「エコファシズム」に求めようというのです。多様性を一人一人の差異として認める以上平等はありえない、という発想は、右翼のポストモダニズムが強調する反平等主義の基本です。この意味で、彼等は、同性愛を肯定してもいます。イスラムも自国に移民として来ないのであれば肯定します。

こうした彼等の主張のなかで、極右というよりも戦後の保守政治が一貫してとってきた「日本人中心主義」が、まさに極右の思想そのものだ、ということに気づく必要があります。つまり、日本の普通の保守や、あるいは革新のなかにもある「日本人」言説が実はレイスズムの根源をなしている、ということに気づく必要があるということです。

とりわけ、移民や移住労働者問題では、たぶん、左翼の間でも否定的な意見が多くあると思います。日本で働きたい人達の働く意思、働く自由よりも、外国人への差別や人権保障がないことを理由にして否定し、もともと日本に暮してきた(たまたま日本に生まれた)者たちを優先させる発想を、結果として肯定してしまいがちです。こういうと「あなたは安倍政権の外国人労働者受け入れ拡大を肯定するのか」と問われます。私が言いたいのは、国境を越えて働いたり住む自由があって当然だ、ということです。安倍がどうあれ、彼等の日本で働くこと、暮すことを選択する自由を私たちは否定すべきではない、と思うのです。誰も生れる場所も「民族」(そんなものがあるかどうか)も言語も選ぶことはできないのです。だからこそ、移動の自由を国境で阻んだり、<労働力>としての都合でその自由をコントロールするような国策とは別に、人間の本源的な自由の権利としての移動の自由が大切だと思います。海外で働こうとする友人や知人に対して、成功を祈って送り出すことは当たり前なのに、なぜ、日本で働こうとする外国の人々を歓迎できないのでしょうか。この非対照的な感情を、冷静に反省することが必要な時だと思います。

極右と左翼がいくつかの論点で、スローガンの上では重複することがあります。多国籍企業批判、新自由主義批判、エコロジーの重視、コミュニティの重視、形式民主主義批判、資本の搾取などなど。だから、安易にネオリベラリズム反対とか多国籍企業反対、環境破壊反対といったスローガンだけで運動を判断することはできない時代になったと考えるべきでしょう。しかし、極右と私(たち)の決定的な違いは、ナショナリズムあるいは人種主義とジェンダー、あるいは文化的な伝統主義への態度だろうと思います。これらの課題で、極右との差異を明確にできるかどうかが鍵だと思う。天皇制もそのひとつです。象徴天皇制を肯定する左翼あるいはリベラルが最近目につきますが、こうした人達は、いずれ、ナショナルなソーシャリズムを掲げていくのではないかと思います。ナショナルな要因を根底から批判的に問うことができないかぎりソーシャリズムは躓くと思います。

牙をむくナショナリズム

1 はじめに

たぶん、今私たちは、〈運動〉の文脈のなかで分かり切ったこととして用いているいくつかの基本的な概念を、あえて再定義しなおさなければならないところにきていると思う。こうした再定義が必要なの概念のなかで、ここでは特に、平和、戦争、憲法、政治、宗教という概念を天皇制の問題との関係で述べてみたい。

誤解を畏れずに、問題をやや単純化して提起すると次のようになる。

  • 平和。現代の日本をはじめとして欧米諸国は、平和な状態にはなく、おしなべて戦時期にある。平和な時代、あるいは平和な社会に私たちは暮していない。
  • 戦争。戦争は「実感」するものではなく、認識に努力が必要な複雑な事態である。ディズニーランドで遊ぶことと戦争は両立する。自らの手を汚すことなく多くの人を死に追いやることが戦争の現実の姿だ。
  • 政治。女性解放運動がスローガンとして掲げたように「個人的(私的)なことは政治的である」ものとして政治を理解しなければならない。政治は国会や内閣、裁判所にだけあるのではない。とりわけ文化は政治そのものである。
  • 宗教。教義や経典を意味するだけではなく、習俗や伝統の内部に浸透する聖なるものの不合理でフィクショナルな世界観が宗教にはある。日本では、天皇と神道は不合理な世界観の体現者であり、こうした存在の「聖性」を肯定する大半の日本人は、本人の自覚とは別に、客観的に観察すれば、神道の信者である。
  • 憲法。現代の権力者は憲法に対する抗体を持っているために、憲法によって抑制することはできない。普遍的な理念を掲げることは、現実の世界がどのようであれ、これを正当化する手段として利用され、戦争とナショナリズムを正当化する。憲法を唯一の最高の統治の規範であると前提すべきではない。

他者向けられた銃口には気づきにくい。武装したガードマンや監視カメラで守られた高い塀によって保たれている「平穏」な生活から戦争を実感することは難しい。為政者が「平和」を強調する時代は、たぶん戦時である可能性が高い。平和を偽装して戦争を隠蔽し、人々の支持を獲得しようとするのは権力者の常である。1

2 世界を席巻する極右

今年は、統一地方選挙や参議院選挙で、〈運動〉が内向きになりやすい時期でもある。有権者となりえない人々の問題は脇に追いやられ、とりわけ、少数者の権利や抱える問題が多数の有権者の利益に反する場合、多数の利益が最優先にされやすくなる。外交・安全保障など「敵」が外国の場合、有権者がナショナリズムの心情で同調しやすくもなる。多数が同意しづらい課題は優先順位が下げられるか除外され、選挙政治の争点は、排外主義やナショナリズム、社会的排除を正当化するためのメカニズムとして働きやすい。天皇制の問題とこれと密接に関わる歴史認識や戦争責任問題、移民・難民の受け入れ、伝統的な家族制度から逸脱する性的マイノリティの権利問題などは、選挙の争点にならないか、問題化されるときにはナショナリズムを鼓舞する偏見と排外主義、レイシズムの宣伝の場と化す危険性がある。

選挙が右翼レイシストによって利用される流れが世界規模で起きている。過激な暴力やテロだけでなく、穏健で合法的な手段をとって権力の中枢を狙うことができるまでに「極右」は「主流化」してきた。欧米諸国で、「極右」の台頭に影響されていない国はまずない。ほとんどの国では、国政レベルでも地方政府レベルでも極右の台頭が著しい。たとえば、

  • スペインのアンダルシアではフランコ独裁時代からの流れをくむVOXが議会で初めて議席を獲得2
  • イタリアは極右の「同盟」が連立政権の一翼を担う。もう一方の政権の担い手が、ポピュリスト政党とされる「五つ星運動」3
  • ギリシアでは黄金の夜明けが2012年から国会に議席をもち、現在第三党。
  • 欧州議会。欧州議会選挙で、イタリアの「同盟」、フランスの国民連合がそれぞれの国でトップの議席を獲得する見込み。また、オランダ、スウェーデン、スペインでも大幅躍進の予想。4
  • ポーランドでは、独立100周年の記念行進に極右の参加を政府が認める。5
  • 移民排斥を掲げるスウェーデン民主党は2018年秋の選挙で43議席から69議席に躍進。国会の第三党。6
  • ハンガリー、クロアチア、スロベニアなどでシリアなどからの難民排除の動きが活発化。ハンガリーの極右、ヨビックは現在議会第二党。2018年、スロベニアでは反移民を掲げる民主党(中道右派とされる)が第一党に。
  • 英国ではEU離脱の国民投票をUKIPなどが主導。離脱の争点が移民受け入れの是非となる。
  • オーストリアなど各国で、ムスリムの女性が着るベールの着用を禁止する立法が広がる。
  • 米国 ティーパーティ運動からSNSを使った人種差別主義の拡大が著しい。2018年には人種差別団体が過去最大数になる。オバマ政権下で減少傾向だったのがトランプ政権下で一貫して上昇し、2018年には1020団体になり過去最高に。7

そして、欧米中枢地域の外部でも、非寛容的で権威主義的、あるいは独裁的な政権を選択する「大国」があとをたたない。たとえば、独裁的といっていい権力基盤を持つ、ロシアのプーチン政権(その周辺には「ユーラシア主義」を掲げる極右の勢力がいる)、トルコのエルドアン政権(クルドやムスリムの反対派を弾圧し続けてきた)、インドのモディ政権(ヒンドゥー原理主義政党)、ブラジルの大統領選挙で当選したボルソナーロは反共主義者でかつての軍事独裁政権の支持者でもある。中国の習近平政権は少数民族、労働運動への厳しい弾圧を続ける。G20の過半数は極右の政治勢力の影響を無視した政策をとることが難しくなっているだろう。

中東欧、かつての社会主義圏においても極右の台頭は著しい。荻野晃は以下のように伸べている。

ソ連・東欧諸国における社会主義経済の崩壊に伴うグローバリゼーショ ンは, 情報通信技術の発達と相俟って, カネ, モノ, ヒト, サービスの国 境を超えた移動の自由を加速させた。グローバリゼーションの進行は国際 社会の中で価値観の多様化を促し, 国民国家の地位の相対的な低下をもた らした。しかし, 同時に, アンチ・グローバリズムの動きが世界各地で表 面化してきた。とくに, ヨーロッパでは, ヨーロッパ連合 (EU) の統合 に反発して国民国家の存在を重視する極右政党が支持を拡大させた。 西欧諸国における極右勢力の台頭には, EU の経済統合の深化による労 働力の自由な移動がもたらした移民の増加と文化的な多様性への反発が背 景にあった。他方, 2004年以降に EU 加盟を果たした中・東欧諸国では, 体制移行期以来の急激な社会変動に加えて, EU への幻滅と不信感が国民 国家における伝統的な価値観の再評価とその過剰な形態としての極右勢力 の台頭をもたらした。8

こうした動きは何を意味しているのだろうか。

かつて20世紀の社会運動が社会主義の価値観をもって資本主義批判を展開してきたときに、その実態がどのようであれ、現存する社会主義を標榜する諸国の存在をどこかで頼りにしながら、次の社会の実現可能性に賭けるという甘い期待をもってきたようにも思う。資本主義の支配者層もまた、自国の反体制運動を軽視できない存在とみなした背景に、現実に社会主義を選択した国家が存在していたことによる。スターリン主義批判を前提とする様々な批判的なマルクス主義や社会主義の潮流は、思想や理論としてもその有効性が共有されていた。

冷戦が資本主義の勝利で終わり、社会主義が世界体制として資本主義と拮抗する力を失ったときに、社会主義諸国の大衆運動は、国家による搾取と自由の剥奪に対して、西側の民主主義にある種の幻想をもった。その現実がどうあれ、彼らにとっては、今ある「社会主義」と呼ばれる体制よりもより自由で民主的な社会が「西側」にあるように見えた。西側資本主義は「自由」と「人権」をフルに活用して東側の大衆の歓心を惹く戦略をとった。しかし、この期待は裏切られた。

更に、第三世界の人々にとって、植民地からの解放闘争のなかで、独立を勝ち取った暁に、自分達の国がとるべき社会体制がより自由で抑圧のない社会となることを願って、社会主義か資本主義か、いずれかの体制を選択した。しかし、いずれの体制選択も、結果としては独立した国民国家としての理想の実現からは程遠く、とりわけグローバリゼーションのなかで貧富の差が広がり、対テロ戦争によって武力紛争に巻き込まれる結果になった。

市場経済の「自由」の代償として、貧困や失業を宿命として抱えるのではなく、また、経済的なある種の保証の代償として、政治的な自由を手放すのでもなく、資本主義的な経済システムを基盤にしつつも福祉と社会保障に国家が手厚い保護を与えるいわゆる北欧型と呼ばれるシステムが、典型的な資本主義や社会主義に失望した人々にとっての代替的な選択肢として期待されたこともあった。しかし、高度な管理社会という副作用と高福祉を支える財政基盤を資本主義システムに依存するという限界を抱えてきた。

これら全ての既存のシステムは、理念として掲げた社会を現実が裏切ることによって民衆の失望を招いた。他方で、既存の社会主義とも資本主義とも一線を画して登場してきた世紀末以降の反グローバリセーション運動は、いくつかの重要な課題に正面から挑戦できるような道具立てを欠いた。とりわけ、対テロ戦争の核心をなした宗教の問題をオルタ/反グローバリゼーション運動は取り組めてこなかったし、結果として、戦争の核心にも迫れず、他方で近代の価値観や多国籍企業、コミュニティの再興といった課題への民衆の「共感」が必ずしも左翼の主張とは結びつかず、むしろこれらの課題を極右が横取りできる危険性を的確に読めなかった。オルタ/反グローバリゼーションが国家主権の強化や移民の排斥を、コミュニティやエコロジーの主張が異質な他者を排除するための根拠に利用され、資本主義の次の社会を提起できない左翼に対して、伝統への回帰という実感としてもわかり易い主張を掲げる右翼が民衆の支持をさらってきた。フランスの黄色いベスト運動が、移民への寛容な受け入れを否定する移民排斥の政策を公然、非公然に掲げてきたことはその象徴的なものがある。

2.1 戦争の再定義

2.1.1 対テロ戦争

テロとの戦争は、戦争の定義を根底から変え、主権国家の概念も大きく変えられてきた。アフガニスタン、イラク、シリアのように、戦場となった諸国の自立性が奪われ、大国による軍事介入が恒常化している。ほとんどの欧米諸国や米国の同盟国は戦争の一方の加担者であるにもかかわらず、そこで暮す人々は、戦争当事者としての意識を持っていない。軍事行動が遂行されているにもかかわらず、戦争の加害者としての意識を持てていない。

このことは日本についても同様である。日本は米国の同盟国として戦争に加担している国である。今現在、日本は戦争をしている国なのだ。自衛隊は一発の銃弾も撃っていないではないか、という反論がある。米軍と一体となった指揮系統のなかに組込まれ、米軍に基地を提供し、兵站の一翼を担っており、世界規模で展開している米軍の軍事力の一部に組込まれているにもかかわらず、それでもなお戦争に加担していないといえるのだろうか。イラク戦争には在日米軍1万人余りが参戦したのだ。基地を提供した日本がどうして戦争に参戦していないといえるのだろうか。

2.1.2 サイバー戦争と憲法9条

もうひとつの戦争は「サイバー戦争」である。サイバースペースは、銃弾が飛び交うことはないが、ほぼそれと同等の効果をもたらすか、現実世界の軍事力行使を規定する力をもつことによって、戦争を左右するようになっている。コンピュータ・ネットワークが社会インフラの基盤となっている現在、こうしたインフラへの攻撃を空襲で実行するのと同等の効果をネットワーク経由でインフラのコントロールシステムに対して行使することが可能だ。

サイバー戦争という言葉を用いる場合、そもそもこうした「戦争」が戦争の定義から外れており、「戦争」という言葉を過度に拡張しているのではないか、という疑問があるかもしれない。しかし、社会システムを物理的に破壊する暴力として機能するのであれば、それが爆弾なのかコンピュータのプログラムなのかは、手段の違いであって、最終的な効果は同じところに行き着く。現実の兵器は、そのほとんどがコンピュータの指令なしには作動しなかったりもする。むしろ武器の中枢は目に見える武器ではなく、その背後のネットワークで数千キロも離れた場所で操作されたりもする。(ドローンによる爆撃はその典型だろう)そして、こうしたネットワークは私たちの日常生活と無関係なのではなく、私たちの日常生活に欠くことのできないコミュニケーションのネットワークと時には共存し、あるいはこうしたネットワークを利用して行なわれたりもする。民間空港を軍隊が利用したり、生活道路を戦車や戦闘車両が行き交うのと同じことが、サイバースペースで起きてもいる。しかしネットワークの世界は私たちの実感では捉えられず、武力行使のリアリティを掴むことが難しく、見逃されたり軽視されやすい。

憲法9条の戦争放棄条項が危機的(わたしからすでばすでにほぼ死文となっていると判断せざるをえない)であるときに、サイバースペースがどのような「戦争状態」を準備し、あるいは現に戦争状態にあるのかを的確に判断することができなければならない。それなくして、9条の戦争放棄条項が現実的な効果を発揮できているかどうかを理解することもできない。現実の場所としての基地がなくても、軍隊は存在可能であり、暴力を行使して人命を奪うことができるのが「サイバー戦争」でもある。

戦争放棄の実質を獲得するには、政府がコンピュータネットワークを戦争目的で使用していないことを私たちがこの目で確認できなければならない。そのような技術を私たちが持てていないとしても、そのことは言い訳にはならない。私たちは主権者として、そのような技術を獲得する「不断の努力」が必要なのだ。それができないのであるなら、民衆が理解し、確認することのできない技術を政府に使わせるべきではない。

自衛隊が存在するだけで9条はもはや空文になっているが、それに加えて、対テロ戦争を通じて現実のものになった戦争やサイバー戦争を通じて、9条の有効性を再検証することが必要だ。

国家の理念が外部の世界からみれば笑いものにしかならないことに当事者は気づかないでいることがある。フランスは移民への人種差別を国是の「自由、平等、博愛」のスローガンを口実に否定しつづけてきたことをかつての植民地出身者たちは身をもって経験してきた。正義、平穏、福祉、自由を掲げる米国憲法がどれだけの不正義を行い、貧困と差別を正当化してきたかを米国の移民やマイノリティは気づいている。だから彼らは国旗を掲げたり国歌を歌ったりしないのだ。天皇が口にする「平和」とはこの種の欺瞞の一種でしかないことをアジアの人々は知っている。たぶん同様に、9条では全く現代の戦争を阻止する上で必要かつ十分な文言にはなっていない。ことばが現実の戦争を阻止できるだけの力をもてなければならないが、9条はむしろ、世界に誇れるようなものとは真逆に、「平和」や「戦争放棄」を掲げながら戦争を遂行することを正当化する詭弁として世界に誇れるものになってしまった。9

2.2 極右の世界観

極右の世界観は一つではない。しかし、あえて幾つか、その柱になるものをピックアップしておく。とくに、左翼や反グローバリズム運動が掲げてきた主張と共通する論点を強調しておくと、次のようになる。10

  • 反グローバリズム。特に、新自由主義的なグローバリゼーション批判。国境を越えた多国籍企業の活動が、貧困と格差を助長した。外国資本の影響を排除すること。自国民の雇用を確保するための保護主義。
  • 消費主義批判。米国流の消費文化への批判。
  • 競争主義、能力主義批判。近代資本主義がもたらした「平等」メカニズムの基準としての競争的平等主義の否定。市場を基準とした能力主義の否定。むしろ下にあるように、伝統やコミュニティに基く序列や秩序を優先させる。
  • 伝統主義。コミュニティに基礎を置くライフスタイルの再建。そのためには、共通した価値観で繋りをもつコミュニティの価値が重要になる。多様な価値観を包含するのではなく、コミュニティが世代を越えて培い、構成員が共通してもつひとつの文化的伝統や価値観によってコミュニティが統合されることが最も安定した社会を築く。
  • 自然=ナチュラリズム。その土地で世代を越えて生活してきた人々のライフスタイルこそがその土地に最もふさわしい「自然」なありかたである。外部から異る文化を持ち込むことは、この最適なコミュニティのありかたを壊すものだ。移民は自国に戻るべきだ。
  • 家族の価値。伝統的な家父長制と性別役割を「自然」なものとみなす。
  • 反近代主義(近代の超克)。普遍的な人権や個人主義の否定。「普遍性」は、コミュニティを基盤とする固有の価値、あるいは多様性を損なう。個人主義はコミュニティの共同性を損う。

排外主義。とりわけ移民、難民、外国人労働者などに対する排除意識が強く、同時に、ジェンダーの平等を嫌う。しかし、コミュニティの価値、エコロジーや伝統文化に対する共感を持つ。こうした極右の価値観や主張の背景には、世代を越えた伝統や文化、時には民族的な神話が持ち出されることがある。しかし、その多くが、19世紀以降の近代化のなかで、伝統主義者たちが近代への抵抗の手段として再構築したり発掘したりしてきたものでもあり、文字通りの意味で、連綿とその社会、コミュニティが維持してきたものであるとはいえない。日本の場合は18世紀以降の国学が、西欧では、ロマン派の流れが、後の極右のイデオロギーの土壌の一部となる。

反グローバリゼーション運動が極右の文脈のなかで解釈されるとき、時には、多国籍資本や金融資本の背後に国際的なユダヤのネットーワークが存在するといった陰謀論と結びつく場合がある。

日本がアジアにおけるトップの座にあった時代から転落する過程のなかで、経済的な大国意識が成り立たなくなるにつれて、そのルサンチマンと嫉妬の感情が敵意を醸成してきた。日本を追い抜く諸国に対して、日本の政府もメディアも、競争相手の国のやり方をあたかも卑劣で道義に反するかのように非難する。不公正でルールを無視した経済活動をやる国として批判し、それが相手国の国民性であるかのようにみなして、非難する。

グローバリゼーションの主役が欧米諸国や日本の主導権のもとで展開されてきた1980年代以降とは異なって、今では、その主導権は中国、インドなどの新興国に移行しつつある。しかも、こうしたアジア諸国は国内に膨大な人口を抱えている巨大市場を自国の統治下にもっている国でもある。このグローバル資本主義の基軸の移動は、同時に、西欧の世界観への危機をももたらした。この危機のなかで、欧米が戦後構築してきたグローバルガバナンスの規範(国連、IMF・WTO・世銀による経済ガバナンス、ICANNによるインターネットガバナス)が正統性の危機に見舞われた。20世紀初頭の第一次世界大戦がもたらした未曾有の西洋の危機次ぐ、第二の危機の時代かもしれない。11

3 明仁の「おことば」

3.1 「おことば」そのもの

天皇の語りは、どのような効果をもつのだろうか。特に、天皇が語る「平和」への強い希求の文言は、安倍の好戦的な改憲の態度と対比されて、平和運動のなかでも支持する声が聞かれるようになった。

私は、人間が嘘吐きであることを忘れてはならないと強く思う。それは、意図的な嘘である場合があるが、天皇の言説が意味する嘘はこうしたものではないと思う。天皇が主観的な意図として真実を語った積りのことが、明らかな嘘となるという場合が圧倒的に多い。

在位三十年に当たり、政府並びに国の内外から寄せられた祝意に対し、深く感謝いたします。

即位から30年、こと多く過ぎた日々を振り返り、今日こうして国の内外の祝意に包まれ、このような日を迎えることを誠に感慨深く思います。

平成の30年間、日本は国民の平和を希求する強い意志に支えられ、近現代において初めて戦争を経験せぬ時代を持ちましたが、それはまた、決して平坦な時代ではなく、多くの予想せぬ困難に直面した時代でもありました。世界は気候変動の周期に入り、我が国も多くの自然災害に襲われ、また高齢化、少子化による人口構造の変化から、過去に経験のない多くの社会現象にも直面しました。島国として比較的恵まれた形で独自の文化を育ててきた我が国も、今、グローバル化する世界の中で、更に外に向かって開かれ、その中で叡智を持って自らの立場を確立し、誠意を持って他国との関係を構築していくことが求められているのではないかと思います。

天皇として即位して以来今日まで、日々国の安寧と人々の幸せを祈り、象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました。しかし憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています。

天皇としてのこれまでの務めを、人々の助けを得て行うことができたことは幸せなことでした。これまでの私の全ての仕事は、国の組織の同意と支持のもと、初めて行い得たものであり、私がこれまで果たすべき務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、過去から今に至る長い年月に、日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお陰でした。災害の相次いだこの30年を通し、不幸にも被災の地で多くの悲しみに遭遇しながらも、健気に耐え抜いてきた人々、そして被災地の哀しみを我が事とし、様々な形で寄り添い続けてきた全国の人々の姿は、私の在位中の忘れ難い記憶の一つです。

今日この機会に、日本が苦しみと悲しみのさ中にあった時、少なからぬ関心を寄せられた諸外国の方々にも、お礼の気持ちを述べたく思います。数知れぬ多くの国や国際機関、また地域が、心のこもった援助を与えてくださいました。心より深く感謝いたします。

平成が始まって間もなく、皇后は感慨のこもった一首の歌を記しています。

ともどもに平らけき代を築かむと諸人のことば国うちに充つ

平成は昭和天皇の崩御と共に、深い悲しみに沈む涼闇の中に歩みを始めました。そのような時でしたから、この歌にある「言葉」は、決して声高に語られたものではありませんでした。

しかしこの頃、全国各地より寄せられた「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。

在位三十年に当たり、今日このような式典を催してくださった皆様に厚く感謝の意を表し、ここに改めて、我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。

この天皇のメッセージは、9条改憲を執拗に追求し、周辺諸国との軋轢をかえりみず、様々な欺瞞と偽装で自らの成果を誇示する安倍の傲慢な姿勢に対して、ある種の「救い」をもたらすかのような言説となっている。しかし平和を語るのであれば、この国が周辺諸国との間で緊張関係を解消できていない最大の課題としての日本の植民地支配や戦争責任の問題に言及されなければならないはずだ。しかし、こうした歴史的に重要な問題を示唆する文言は一切ない。

子細にみてみると多くの疑問があり、とうてい受け入れ難い現状理解を示している。以下、この「おことば」をやや子細に検証してみよう。

3.2 平和とあいまいな言説が隠蔽する時代の闇

「平成の30年間、日本は国民の平和を希求する強い意志に支えられ、近現代において初めて戦争を経験せぬ時代を持ちました」

果して日本国民は平和を希求する強い意志を持ってきただろうか。むしろ、上述したように、日本の加害責任の問題を追求しようとする「日本国民」の「強い意志」が多数を占めたことはないし、天皇もこの問題に言及したこともない。また、自衛隊を容認するだけでなく、その海外派兵を支持し、改憲を支持する安倍政権を支えてきたのではないか。現在の日本を「戦争を経験せぬ時代」と呼ぶことによって、日本が戦時であることを否定している。日米同盟の一方の当事者の日本がなぜ戦争を経験していないといえるのか。

「世界は気候変動の周期に入り、我が国も多くの自然災害に襲われ、また高齢化、少子化による人口構造の変化から、過去に経験のない多くの社会現象にも直面しました」

明仁の時代の最大の「災害」は東日本大震災であり、とりわけ福島原発事故である。しかし、彼はあえて福島を口にしていない。そのかわりに「過去に経験のない多くの社会現象」という曖昧な言い回しでごまかした。天皇の沖縄への執着を前提にすれば辺野古をはじめとする沖縄の基地をめぐる「社会現象」が念頭にあるはずだろう。しかし、こうした具体的で重要な事柄を語らないことが天皇のこれまでの慣例である。

天皇の「おことば」は、語られないことのなかにも重要な意味がある。それは語ってはならない事柄であるということを示唆しており、この示唆がこの国の言論空間を支配する効果をもってきた。

3.3 政治を語れない天皇と政治を語りたがらない民衆

政治に言及できないが故に語れないという立場そのものが、社会的な礼儀作法のひとつとして、指導者や有力者、あるいは組織の長が核心に触れる政治的な立場や問題を曖昧な言葉で誤魔化してうやむやにすることをよしとする道徳を構築してきた。これは、戦後の象徴天皇制が非政治的であることを強制されてきたことの政治的副作用である。天皇が非政治的であることはこの意味で、極めて重大な社会的な効果、つまり民衆は非政治的であることが正しい振舞いである、という道徳を生み出した。

3.4 自民族中心主義としての「独自文化」

「島国として比較的恵まれた形で独自の文化を育ててきた我が国も、今、グローバル化する世界の中で、更に外に向かって開かれ、その中で叡智を持って自らの立場を確立し…(以下略)」

という条は、ある種の常套句としてこの国では問題にされない。しかし「独自の文化」といえるものとは何なのだろうか?それを誇ることは何を含意するのだろうか。「独自の文化」が含意しているのは、他者の文化との暗黙の比較のなかで、自らの文化をことさら「独自」であるとして差異を強調した上で、その優位性を示唆している。これは、自民族中心主義あるいはナショナリズムを支える文化的なアイデンティティを支持する言説である。また、「島国」をあたかも閉鎖的な場所であるかのようにみなす理解は、天皇が農耕民族中心の歴史館にとらわれている証左でもある。

「外に向って開かれ」以下の文言は、グローバル化のなかで、「日本」という国家の独自性を失なうことなくその地位を確立してきたことを評価するものだ。これは、極右が自国や自民族の独自性をグローバリゼーションの流れのなかで強調するスタンスと実はさほど違わない。英国がEU離脱へと向う流れも、EU諸国が移民・難民に対して門戸を閉そうとしてきたことも、トランプの「壁」の政策もみな「独自の文化」「自らの立場の確立」というキーワードで共通に語ることができる排外主義の立場である。

だから明仁は「外に向って開かれ」とは語っても内に向って開くことには言及しない。ここでも語らないことを通じて、語ってはならない事柄が示唆された。移民・難民を締め出してきたこの国の移民政策の現実を巧みに回避した表現になっているのだ。「開かれ」たのは、資本の投資であり、日本資本主義の経済帝国主義としての「進出」であり、更に自衛隊の海外派兵である。資本と軍事力が「自らの立場を確立」したという現実と明仁がここで言及しようとしている「自らの立場」は、グローバル化のなかでナショナルなアイデンティティの確立の必要を強調している。これは、後段で象徴天皇制のありかたに言及している箇所と対応している。

3.5 「皇室とともに」と皇室なしに、どちらが平和の選択肢として好ましいのか

「全国各地より寄せられた『私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく』という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。」

ここに引用されている言葉の典拠がない。だから本当に全国各地からこうした言葉が寄られているのかを確認できない。それはともかくとして、平和な日本は皇室とともにしか作れないのだろうか。「皇室と共に」という文言が平和とどのような必然的な関係性をもっているのか。もし平和が最重要の課題だとした場合、皇室が存在した方が平和を実現できるのか、ない方が実現できるのか、という少なくとも二つの選択肢が議論された上でなければ「皇室と共に」を前提することはできない。しかし、戦後の日本では、まともに皇室の是非を政治も課題として議論できる雰囲気も状況も保証されてはこなかった。むしろ右翼の暴力や公教育、マスメディアの皇室賛美によって皇室の存在を前提とする世論の形成が強制されてきた。そのなかで「皇室と共に平和な日本」などということを当然のように語ること自体が政治的な発言であろう。

明仁に限らず、裕仁の時代から、天皇の平和言説は、日本の現状がいかに戦争に加担していようとも、「平和」であると宣言することによって、事実を隠蔽し、人々に「ああ、これが平和なんだ」と思わせる効果をもってきた。同時に、戦後日本の平和の担い手が、戦時期にいかに戦争の加害者としてあったとしても、そのことを免罪するかのような雰囲気をも醸成してきた。

3.6 綺麗事を並べることの政治的効果

多分、何十年後かに、歴史学者がこの時代を観察しながら、天皇と安倍政権を比較して評価を下すとしても、実証主義者ならば、天皇の言葉から「戦争」をひきよせるような好戦的な文言を読みとることはないだろう。ここに実証主義(あるいはデータ主義)の限界がある。

実証主義、あるいは語られたことを客観的な事実として前提する罠に市民運動であれ革命的な運動であれ、様々な反政府運動の担い手たちも陥りがちだ。天皇の言説から「平和」の希求を論ずることは容易い。そしてこの天皇の「平和」に含意されていることを私たちがこの言葉に含意させていることと重ね合せて解釈しようとする。「平和」が意味するものは一つに違いないというのであれば、それは正しい方法だが、平和という抽象的な概念には無数の意味があり、戦争すら「平和」として語りうる。

そして、自分たちの「正しさ」を客観的なデータによって証明することによって、敵の欺瞞や嘘を暴き、こうした暴露こそが最大の敵への打撃であるという考え方があるが、これはさほど効果がない。また、客観的な証拠によって追い詰められた敵を、多くのもの言わぬ大衆あるいは有権者たちは、敵の化けの皮がはがれおちるのを目の前にして、敵への信頼を失い、敵は権力の座から追われることになる….こうした一連の発想のなかで、天皇の「平和」言説への期待も形成されてしまう。

天皇に対して、「なにを綺麗事言ってるんだよ。都心の一等地でのうのうと暮しやがって、調子のいいことほざいてんじゃあないよ」といった庶民の内心の一部にある冷笑は、天皇が何を語ろうが、その言葉の意味や含意とは全く無関係に、天皇を評価しないのである。しかし、こうしたある種の反感は、日本国内では、SNSなどで拡散したりはほとんどしないようにも見える。(SNSをやらない私の偏見かもしれないが)多分、こうした感情をもちながら、他方で、多くの庶民は、「間違ったこと言ってるわけじゃあないし、悪い人ではなさそうだし、言いたいことも言えず、窮屈で、死ぬまで天皇の仕事をするのは酷かもしれない…」とかとも感じていたりもする。

事実はさておき、物事を綺麗事としてきちんと言えることが礼儀作法上大切なことだというこの国に支配的な文化がある。結婚式や葬式で言っていいこと悪いことがあるように。そしてこうした建前をわきまえられるのが、他人からも尊敬される「大人」とみなされる。嘘であれ欺瞞であれ、そんなことはどうでもよくて、場のなかに「和」がつくられるような歯の浮いたような言葉がむしろ求められたりする。

私たちが、天皇の言葉を分析するときには、彼の発言と「場所」とを切り離さずに観察することが必要になる。そして、多くの人々が彼の言葉と彼の人間個人としての性格とを結びつけて彼についての―つまり天皇についての―イメージを構築しようとしているが、むしろ彼の言葉と「場」の関係のなかで、彼は国家の象徴としての言葉であり、かつ祭司としての布教の言葉でもある、二重の含意をもったものとしての言葉を発しているのではないか。慰霊とは禊でもあるのだと思う。

3.7 個人としての天皇ではなく、構造としての天皇が問題の中心にある

天皇とその場所が構成する「意味」は、その場に居合わせたりメディアを通じて接する人々の側で構築される「意味」でもあるわけだが、それは、どのような権力効果をもたらしてるのだろうか。これは言説空間の構造的な問題でもある。それを天皇の人間としての個性やキャラクターに還元してしまうと誤認することになる。しかも、最悪なことに、合理的な人間理解の中心に「個人主義」が居座っているから、「天皇」を「個人」として取り出すことができるかのような錯覚をもってしまう。「天皇」は関係の結び目であって、関係構築の背景に、特有の装置が組込まれている。その装置の一面が宗教的な側面だが、他面では、それは「憲法」に連なる統治機構の政治的な側面である。そしてこの二つの側面を繋ぐものとして「文化」の装置が介在している。宗教的な側面は、日本では「神道」の装置となるが、どの近代国民国家にも共通する構造が特殊な形態で表出しているにすぎない。「神道」を「信仰」あるいは非合理を本質とする共感構造という言葉で置き換えれば、この天皇制を支える構造―天皇意識の再生産構造―は、ほぼどこの国にも必須の国家に収斂するイデオロギー装置だということがわかる。この意味で天皇制に特異なものはない。この意味で、近代の終りが天皇制の終りになることはいくらでも可能なのだ。

4 象徴とは何なのかを理解できない天皇

4.1 天皇の利益相反―国事行為者であることと神道祭司であること

もし、大臣や官僚が、自分の役割が何であるのかを理解できないことを公言したら、マスメディアや野党は黙ってはいないのではないか。任期終了間際になって総理大臣が「総理大臣とはいかにあるべきか考えながら任期を過ごしてきました」とか「総理大臣とはどのようなものかを模索する道は果てしなく遠い」などと発言しようものなら、無責任極まりないと非難囂囂となること間違いない。だから、30年もその任にある明仁が、象徴天皇とはいかなる役割を担うべきものなのか理解できないということを率直に吐露したのは驚くべき発言と言わざるを得ない。

「象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました。しかし憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています。」

とりわけ「憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く」という文言は、謎というしかない。「憲法で定められた」ことが理解できない、というのだから。これまで30年間、明仁は自らの役割を理解しないまま「象徴」の役割を試行錯誤してきたというのだろうか。憲法に定められた天皇の国事行為のどこに、「象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く」などと言わせるような難解なことがあるのだろうか。もし、憲法1条から8条の文言を主権者が読んでも理解できず、果てしなく模索しなければならないとしたら、憲法の象徴天皇制規定を理解できるものは誰もいないということになる。

法の支配が民主主義の大前提であるとすれば、主権者が理解できない文言が憲法にあることは、あってはならないことである。主権者は、その権利と義務を憲法の文言によって定められ、それを理解して行動する。国会議員も官僚も皆この点では同じであって、天皇だけが、果てしなく遠くまで模索して「象徴とは何か、わからない」などと言うことは許されないことである。

では、この深淵なニュアンスをかもしだす文言で明仁は何を言いたかったのか。彼は、象徴天皇の役割を事実上、憲法が規定している天皇の役割を超越してイメージしており、このイメージと憲法が定める天皇の象徴機能とを見事に混同している。つまり彼のなかでは政教分離ができていないのだ。だから、憲法に定められた象徴天皇と祭司天皇の間に矛盾を感じ、これに対して答えを出すことができず、棚上げにした、ということではないか。神道祭司としての天皇、あるいは万世一系の神話の担い手としての天皇と国事行為の担い手としての天皇との間に解きえない矛盾があることは確かだ。憲法が定める政教分離や法の下の平等などの人権条項を尊重するなら、国家の象徴は国事行為の行為者である以外の役割において、これらの憲法の条項と矛盾するような役割を担うことはできない。もしこの二足の草鞋を履くのであれば、それは明らかな利益相反である。憲法を選ぶなら、神道の祭司であることはできないはずなのである。神道の祭司として信教の自由を守りたいなら国家の象徴としての役割は放棄すべきなのだ。にもかかわらずこの二重の天皇に固執するということの含意は、祭司としての天皇の側からみて、憲法は「制約」であり矛盾であって、天皇制の存在にとって利益にはならないということである。明仁はこのことを図らずも言外に示唆したのだ、と思う。

4.2 象徴天皇制をそのままにして政教分離は可能なのか

天皇は国民統合の象徴だという。他方で、憲法は、思想信条、信教の自由を国民の権利として保障するともしている。信教の自由を前提として多様の信仰があり、あるいは信仰を持たない者たちを「国民」として束ねる象徴として「天皇」が存在するという場合、この「天皇」が特定の信仰と結びつくことが可能なはずがないことはすぐに理解できよう。

象徴の機能は、その象徴が意味するものとの関係なしには象徴になれない。この場合、象徴には二つの異なる種類がある。ひとつは、瓶に貼ってある麒麟の絵を見て「ビール」であると認知するような場合の「麒麟」の絵である。この絵をみてビールであると認知できるのは、麒麟の絵がビールを意味することを知っている(学習している)場合に限られる。このことを知らないない者には、類推することはできない。他方で、人間の形をかたどったデザインを見たときに、それを「人間」であろうと類推できる場合というもある。この場合、人間の形を知っていれば、学習することなしに、その形を見て人間を意味することを理解できる。いずれの場合も、象徴となる記号は意味をもつが、象徴と意味をつなぐ仕組みは異なる。天皇の場合、それが日本国の象徴であるという「意味」は類推によって生成されるものではなく、「学習」されなればならない。しかもその「意味」は憲法の国事行為の条文だけを知ることで全てが尽されるものではない、ということが重要な問題なのである。天皇が「象徴」であるという意味は、憲法で明確に限定されており、それ以外の意味を持つことは禁じられているはずである。憲法の国事行為10項目を行なうことだけが憲法に定められているならば、それは誰がやっても構わないことである。しかし憲法には国民の総意であり、かつ世襲である存在という規定がある。天皇になったら世襲されなければならないいということと、国民の総意とは整合しない。総意が担保されない場合がありうるからだ。しかも、そこに更に神道にまつわる意味が付加されるように設計されている。

ある人物が、神道の祭司としての役割を担うときには「天皇」と呼ばれ、憲法に定められた国家の国事行為を担うときには、「大統領」と呼ばれるとしよう。複数の役割を別の名称(記号)によって区別することはありうることであり、それは名称の違いを越えて、意味の違いを生みだす。政治家であれ誰であれ、複数の役割を担いながら複数のアイデンティティを渡り歩くことはごく普通だ。役割ごとに名前をつけるのはそれなりのカテゴリーの境界を明確にして、ルールを明確にする効果がある。しかし、天皇についてはこうした境界を設けることを意図的に否定して、神道祭司としての役割の名前をそのまま憲法の「国民統合の象徴」の名前にした。ことばという記号の意味作用が、神道祭司としての意味と国事行為者としての意味が相互に重りあう構造になることを憲法は、そのそもそもの設計に組み込んだのである。この設計の基本は、新旧両方の憲法に共通している。

そもそも憲法7条の10項目の国事行為は国家の象徴とされる者が行なわなければできないことではない。有権者のなかから毎回抽選で誰がやっても構わないような行為である。あえて天皇と呼ばれる者がやらなければならない必然性はない。実は国事行為には、こうした「軽い」意味しかない、というところが天皇制にとってはその存在意義との関連で問題になる。だから、戦後の天皇制は、この国事行為以外の、とりわけ「文化」の領域に浸透するような戦略をとることによって、一方で習俗にむすびつく神道的な伝統に、他方で、「日本文化」というイデオロギーの再生産装置としての機能においてその不可欠な役割を構築しようとしてきた。仏教やキリスト教でいう宗教の意味合いとは異なるが、天皇への信仰を文化を通じて構築しようとしてきたのだ。12

5 牙を剥くナショナリスト

5.1 布教者としての天皇

明仁の「おことば」に対するほとんどのマスメディアの反応は好意的なものだった。ほんの少しの熟慮で、彼の発言がいかに問題の多い、排外主義の心情を内包させたものであるかを判断できるはずだが、むしろあたかも憲法を擁護する平和主義者であるかのようにみなしている。

そして、こうしたスタンスは平和運動や改憲反対運動のなかにも浸透している。安倍の好戦的な改憲のプロパガンダと比較して、その護憲のスタンスを我が意を得たかのように支持する声が聞かれるようになっている。こうした天皇への期待は、沖縄ですら聞かれるようになっている。

私が「牙を剥くナショナリスト」としてイメージしているのは、こうした明仁の言説に平和を期待するリベラルを含む広範に存在すると思われる、この国の「国民」の大半である。街宣車の右翼や在特会のようなヘイトクライマーを指しているだけではない。むしろ、戦後の政権を支えつづけてきた多数者としてのこの国の有権者であり、投票には行かないが、無自覚なまま民族的偏見を抱いている人々である。彼らの「牙」は街頭や公的な場では見出せない。SNSのような新しいメディアは彼等の心情を伝える回路になっているが、それだけではない。暗黙の偏見が「牙」なのである。目に見えないし、「私たち」は痛みを感じないが、その「牙」を見ることができ、痛みを感じる人々がいるのである。

天皇をめぐる言説は、人々の間に不必要なカテゴリー化と差異化による区別=差別を生み出す。象徴天皇制を認めるのか、認めないのかは明かな踏み絵になっている。この踏み絵は、元号、日の丸、君が代といった国家の象徴を介する場合もあれば、メディアの敬語使用、天皇由来の日を「国民の祝日」とすること、国体から植樹祭まで、全国各地へのいわゆる「慰問」や「慰霊」の類いの天皇が関わる布教=国事行為以外の多く布教=行事に伴う異例の処遇まで、彼を特別な存在として聖別するシステムを認めるのか否定するのか、こうした踏み絵を日常生活のなかで強いられるのがこの国で生きることである。そしてまた、こうした活動のなかの少なからぬものは、天皇由来の「神話」との繋りがある。これらは、広義の意味での神道に連なる宗教的な儀礼でもある。

こうした観点から戦後の天皇が、国事行為であれそれ以外の行為であれ、儀礼の場で行なう行為は、ローマカトリックの教皇がおこなう説教や布教の類いと、本質的にどこが異なるのだろうか。天皇が「祈り」を口にするとき、そこには宗教的な含意はない、となぜ言えるのか。天皇の「おことば」は布教である、とはっきり言いたい。私たちは、自分達の日常生活のなかにある「神道」的な世界観を自覚できていないが、天皇を聖別し、敬語を使い、その言葉を無批判に受容するという態度は、信徒の態度である。とすれば、天皇の言葉は布教のそれ以外のなにものでもない。

竹内好が天皇制は一木一草に宿ると述べたが、この言葉はこのように解釈できると思う。更に言えば、戦後の天皇制は国家神道としての位置を追われるわけだが、このことが、むしろ神道が日常生活の習俗のなかにもぐりこんで、そのスピリチュアリティを広げるきっかけを作ったのではないか。戦後象徴天皇制について、国家神道の枠組みでその是非を理解するのではなく、むしろ極めて定義することが困難な多様性をもつ「神道」的な信仰の構造のなかに、つまり「日本文化」と呼ばれる選民思想を支えてきた価値観の日常的な構造のなかに位置づけなおすことが必要なのではないか。

5.2 信仰に無自覚であること

天皇制を日本の人口の9割が支持している現実は、「国民」が神道の信徒であることを自覚させない環境を作ってきたともいえる。神道は、仏教、キリスト教、イスラム教などと同じように「宗教」 と呼ぶことは困難である。しかし、そうであっても「宗教」がもつ神話的な非合理な世界観に基く排外主義あるいは自民族中心主義を共有している。13

多くの「日本人」が「無宗教」でありつつその実神道の信者である(天皇への信仰をもと者)であるなかで、漠然と「無宗教」であることはほとんど意味のないことである。むしろ異教徒であること、あるいは明確な無神論者であることを一つの世界観として構想することがy必要なことである。これは、もしかしたら日本人としてのアイデンティティを捨てることかもしれないが、それが何を意味するのかすら私には明確にはできない。それは日本人とは何者なのかが私には理解できていないからだろう。

5.3 「日本人」というカテゴリー化そのものに内包するレイシズム

安倍に限らず、現代日本の支配層は戦後教育を受けてきた世代である。戦前の軍国主義教育を改憲勢力の背景として説明する議論は成り立たない。戦後のいわゆる民主主義教育なるものを通過してきた人々が、ますます戦前への回帰を主導しているのだ。こうした保守的あるいはレイシストの傾向は、教育ではなく家族関係など世代を越えた価値観の「伝染」によるのではないか、という別の見方もあるかもしれない。しかし、親や曾祖父母の時代の価値観を連綿と継承しているとみなすのは、当っていないだろう。むしろ、高度に情報化され、ネットのコミュニケーションが情報流通の主流になっているような今現在の環境のなかで、人々が日常的に交すコミュニケーションそのもののなかにナショナリズムやレイシズムを醸成あるいは再生産する構造があるとみるべきではないだろうか。

学校教育がますます右傾化するなかで、優等生はますますナショナリストになり、劣等生は反ナショナリストになる、といった教育とイデオロギー効果の相関関係があるようには思われない。家族、コミュニティ、親密な人間関係、学校、企業、メディアなど様々な社会の仕組みのなかで、人々は日々「私」を「日本人」といったナショナルなアイデンティティに結びつけている。ナショナリズムは、まず、日本人と日本人以外という二つの大きな人間集団にカテゴリー分けすることから始まる。こうしたカテゴリーは、リンゴが好きかミカンが好きかで人口を二分することと比べても、その根拠は曖昧で意味があるかどうかあやしいものだ。しかし、「日本人」とは何者か、ということに端的に答えられないからこそ「日本人」であることをことさらにあれやこれやの事象を引き合いに出しながら強調しようとする。米を食べるのが日本人とか、稲作が日本文化だといった俗説は、コメ文化の広がりト限界をみれば虚偽であることは容易にわかるのだが、そうであっても、それこそが 日本人の特徴であるかのように誇張することをやめない。こうした頑なステレオタイプへの固執の積み重ねが、「日本人」というカテゴリーにことさら過剰な意味を与えて、「日本人」であるのかないのかという境界線が強化される。こうしたカテゴリーに基づく差異の強調は、偏見を助長する。能力や性格など諸個人の個性を「日本人」であるかないかという分類のなかで、判断しようとする。例外的に優秀な「日本人」をあたかも「日本人だから優秀なのだ」とか、たまたま犯罪を犯した人物が外国人であると「外国人犯罪が蔓延している」などと誇張され、それが誇張や偏見であるとは理解されない。

天皇制は「日本人」というアイデンティティを再生産するための信仰=イデオロギー装置である。同時に、「日本人」というカテゴリーに過剰な意味を付与し、このカテゴリーの属さない人々を差別することを正当化する仕組みとして機能する。これは、戦前も戦後も一貫しており、とりわけ戦後は天皇制がこうしたアイデンティティの再生産の機能としての側面を発達させてきた。その結果として、「日本人」という概念それじたいに内在するレイシズムに無自覚となった世代が戦後世代でもある。彼等にとって天皇制は、強いられたイデオロギーではなく、無宗教の背後にあって、ある種の無意識のなかに組込まれた自発的な意思としての「日本人」のアイデンティティの持ち主となった。天皇制はこの意味で戦前の国家神道の教義を通じて教育されて外部注入されるようなものではなく、総体としてのこの国の家族、コミュニティ、私的な人間関係、職場、学校などなどを通じて、「天皇陛下万歳」などとは叫ぶ必要のない「日本人のアイデンティティ」を再生産する信仰の構造をなしてきた。

こうした構造のなかで、天皇制に反対することは、無神論を選ぶことも含めて、異教徒であることでもある。それはどのようなことなのか、このことを世界中で支配的な宗教の弾圧に苦しみながら闘っている人々の経験に学びながら、考え、行動することも必要なのではないかと思う。

Footnotes:

1

保守派や左翼嫌いの知識人たちが、現実の世界におもねって憲法9条に固執する平和運動を揶揄することがある。むしろ現実主義に立って、自衛隊を正当に評価し、軍事安全保障を強化することが平和構築の必要条件だと言いたいらしい。こうした現実主義は、「力」と正義の関係を見誤っているか、意図的に力を正義であると主張しているにすぎない。力と正義との間には何の関係もない。力の強い者が正義においても勝るということは証明されたことはない。力の強い者が正義を僭称して他者に正義と呼ばれる事柄を強引に押しつけることが、歴史上も日常生活でも繰り返されてきた。しかしわたしたちの経験からいえば、むしろ、道理の通らないところで力が幅を効かせる。現実主義者は既存の制度や社会の矛盾を棚上げして、その根本的な変革を絵空事とみなして否定する一方で、本の将来を過剰なナショナリズムや「日本人」の優秀さ、輝かしい歴史的な過去からの延長として描き、「美しい日本」の物語というフィクションで人々の歓心を獲得しようとする。

2

白石和幸「スペイン・アンダルシア自治州議選で極右が初議席。その背景と波乱が予想される今後」https://hbol.jp/180548 この記事では、VOXの政策を以下のように紹介している。 「自治州政治を廃止して中央集権体制に復帰すること ・カタルーニャの独立支持政党の違法化 ・公用語スペイン語を全国レベルで普及させ、カタラン語などを教育の場から廃止 ・シェンゲン協定(欧州の国家間で国境検査なしで越境を許可する協定)の廃止 ・イスラム寺院の閉鎖 ・移民は言語など共通の文化をもったラテンアメリカからの移民を優先し、それ以外の不法移民は一生スペインでは合法化させない ・同性愛の否認 ・20歳になって徴兵制の義務化 ・北アフリカのスペイン自治都市セウタとメリーリャに壁を設ける」

3

白石和幸「イタリア・サルビニ内相の非人道的な難民政策に、全国の市長が反旗を翻す」https://hbol.jp/183306

4

日経「欧州議会選、極右に勢い 伊・仏で首位予測」https://www.nikkei.com/article/DGXMZO41473310Z10C19A2FF2000/

5

「ポーランド独立100年で大行進 極右団体も参加」BBC日本語、https://www.bbc.com/japanese/46175710

6

「文化が違いすぎる国からの移民は、私たちの国の価値観や文化を学ばなければいけません。英語が共通語の企業で働くなら英語だけでもいいでしょうが、スウェーデン社会の一部になりたいと思うなら、スウェーデン語だって勉強するべき。難民に関しては、スウェーデンではなくて、難民キャンプで援助を施すのがよい」(党員ヨーハン・ティーレラン、鐙麻樹「北欧の極右、スウェーデン民主党を支持する人々の憤り」https://news.yahoo.co.jp/byline/abumiasaki/20181120-00104755/)

8

荻野晃「中・東欧における極右政党の台頭」関西学院大学『法と政治』65-3、2014年。

9

「われら合衆国の国民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に 備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、ここに アメリカ合衆国のためにこの憲法を制定し、確定する。」(合衆国憲法前文)

10

以下の私のブログの文章を参照。「反資本主義の再定義―台頭するグローバル極右を見据えて」 https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/blog/2019/02/01/against-far-rights/

11

フランスの極右の思想家、アラン・ド・ベノワは20世紀初頭の西洋の危機は、第一次大戦からロシア革命へという時代背景のなかで起きたが、今回の危機は、こうした「敵」不在のなかで起きており、より深刻だと述べている。一般に極右の思想の基本は、危機意識に基いている。今ある世界の現状維持を基本とする保守とは異なり、危機から西洋の崩壊を救済するための方向を、コミュニズムのような将来社会のユートピアではなく、むしろ近代以前、時にはキリスト教以前の時代にまで遡って構想しようとする。ギリシア神話や北欧の神話、あるいは近代西洋が忘却してしまった近代以前の社会の可能性を非西欧世界に求めたりもする。ある種のオカルトやイスラーム、ヒンドゥ、仏教といった非キリスト教への関心をもつことも極右思想家たちに共通した傾向のようにみえる。

12

憲法でいう政教分離原則でいう政治と宗教というカテゴリーは、現実の政と教のありかたとはズレている。即位大嘗祭などの皇室の神道儀礼が排除されればよいということではない。七五三や地域の祭礼から寺の葬儀など、私たちの日常生活のなかで習俗とみなされている出来事は「政教分離」違反である。なぜならば、政治は私たちの私的な日常そのものだからだ。

13

神道については、以下を参照。ネリー・ナイマン「神道と民俗宗教」、ミルチア・エリアーデ『世界宗教史』ちくま学芸文庫、奥山倫明他訳、第8巻所収。トーマス・カスーリス『神道』、衣笠正晃訳、ちくま学芸文庫、ヘルマン・オームス『徳川イデオロギー』、黒住真訳、ぺりかん社。

Date: 2019/3/2

Author: 小倉利丸

Created: 2019-03-04 月 17:50


本稿は、2019年3月2日に開催された「「日の丸・君が代」の強制跳ね返す 3.2神奈川集会とデモ」の発言資料として作成されました。発言の機会を与えていただいた主催者、そして参加者の皆さんに感謝します。

【声明】靖国神社での抗議行動は正当だ! 東京地裁は直ちに2名の勾留を解け! 公判闘争を支援しよう!

以下、反天皇制運動連絡会のブログから転載します。

2018年12月12日、靖国神社外苑で、2人の香港人の男女が「建造物侵入」の容疑で逮捕された。

男性は、「南京大虐殺を忘れるな 日本の虐殺の責任を追及する」と書かれた横断幕を広げ、日本軍国主義、南京大虐殺、靖国神社A級戦犯合祀に対する批判のアピールを行った。女性は、男性の抗議行動をビデオで撮影していた。抗議を開始してまもなく、靖国神社の神門付近にいた守衛がやめるように言ってきたので、男性が立ち去ろうとしたところ、複数の守衛が2人を取り押さえ、警視庁に引き渡した。

2人はそのまま逮捕・勾留され、さらには12月26日に起訴されてしまった。その身柄は今なお警察署の「代用監獄」に留め置かれている。1月15日の弁護団による保釈申請に対しても裁判所はこれを却下。2人はすでに1ヶ月以上も勾留され続けているのだ【注】。

「人質司法」といわれる日本の刑事司法のありかたは、内外から多くの批判を浴びている。今回2人は、「正当な理由なく靖国神社の敷地内に侵入した」建造物侵入という罪状で起訴された。だが、外苑は誰でも自由に出入りできる場所だ。仮に有罪となったとしても微罪であるのに、今回2人に対して加えられている逮捕、起訴、長期勾留という事態は、まさにアジアの人びとが、靖国神社において公然と抗議行動をおこなったことに対する「見せしめ弾圧」であったと言わざるを得ない。この強硬な姿勢が、安倍政権においてより顕著になっている歴史修正主義、国家主義の強権的姿勢と無関係であるはずがない。

抗議のアピールが行われた12月12日という日付は、1937年12月13日の日本軍による「南京陥落」の前日である。この日を前後しておこった、日本軍による膨大な中国市民の虐殺=「南京大虐殺」の歴史的事実を、日本の右派および右翼政治家は一貫して矮小化し、実質的に否定しようとしてきた。また香港は、アジア・太平洋戦争のさなか、3年8ヶ月にわたって、日本の軍政下に置かれた地である。日本政府は、戦後一貫して侵略戦争被害者への謝罪も補償もしないばかりか、歴史的事実を転倒させ、東アジアの平和を求める動きに逆行し続けてきた。このような日本政府のあり方を、中国やアジアの民衆が強く糾弾するのはまったく当然のことである。男性は、歴史問題に関する自らの意思の表現として、この象徴的な場所で抗議行動を行ったのだ。それが靖国神社に立ち入った「正当な理由」でなくて何であろうか。

また、逮捕された女性は、市民記者として、男性の抗議行動を記録していた。それが、男性と共謀の上「侵入」したとして罪に問われたのである。これは明らかに、報道の自由に対する不当な介入でもあると言わなければならない。

私たちは、この日本社会に暮らすものとして、彼らの行為が提起したことの意味を受け止めながら、剥奪され続けている2人の人権を回復し、彼らを被告人として3月から開始される裁判闘争を、香港の友人たちとともに支えていきたいと考える。

本事件に関する注目と司法権力への監視を。3月公判への傍聴支援を。そして2人の裁判闘争を支えていくためのあらゆる支援とカンパを訴えます。

(2019年1月21日)

【注】2月3日現在、1人は東京拘置所に移監されており、もう1人も近く東拘に移監の見込み。保釈請求却下に対する準抗告も1月30日に却下されている。

12.12靖国抗議見せしめ弾圧を許さない会

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★ 法廷期日:3月7日(木)10:00〜
3月19日(火)10:00〜
ともに、東京地裁429号法廷