書評 アライ=ヒロユキ『検閲という空気――自由を奪うNG社会』(社会評論社)

書評 アライ=ヒロユキ『検閲という空気――自由を奪うNG社会』(社会評論社)

本書は、その副題に「自由を奪うNG社会」とあるように、「NG」を連発するようになっている日本の現状を具体的な事例で紹介しつつ、その底流にある不寛容がいったい何に由来しているのか、そしてこれに対して、私たちの側からどのような対抗が可能なのかを論じており、挑戦的な仕事だ。本書で取り上げられた事例は非常に広範囲で、地域社会の日常生活、美術などの文化表現、マスメディアなど表現される場所も多様だ。「NG」が出される対象も、保育所の騒音問題、原発事故と放射能汚染の実態の隠蔽、侵略戦争の歴史認識の封殺、日の丸・君が代の強制、横行する右翼のヘイトスピーチやフェイクニュース、大学の学問の自由の危機、アニメやマンガなどのオタク文化まで事例も多岐にわたっている。

著者は検閲という言葉も使うが、むしろ「NG」というややあいまいだが、日常用語として使われるダメ出しがもたらす、自由を抑え込む雰囲気の蔓延に着目する。私のこの書評では、最後の数章で論じられている理論的な総括を中心に、私なりの問題意識に引き寄せて書いてみたい。

「NG」社会と60年代世代

本論に入る前に一言。ビートルズ世代とか全共闘世代とかベトナム反戦運動世代とか68年世代とか団塊の世代とか様々な呼び名で呼ばれる、60年代に「自由」を謳歌したと自慢する世代が、大学解体を叫びつつもその大半が大学を卒業し、大手企業や官僚となって日本の政治と経済を担う(牛耳る)世代となり、あの、いまいましい80年代の反動の時代を準備し、90年代以降のポスト冷戦時代からダラダラと続く数々の戦争に加担しつつ、今現在の不自由な時代を生み出してきた張本人たちとなった。「自由」を謳歌した世代が、世代のエートスとしての「自由」を恐れ、「自由」を抑え込む世代として、その後の日本を作ってきた。彼らの子どもの世代は、親の世代が敷いたレールを更に右へ右へと継承した。

戦後日本が抱えた問題を世代論に還元したくはないし、還元することは間違っているとも思うが、60年代の世代がなぜ、自分たちが体験したであろう自由をその後自らの手で扼殺し続けてきたのか、という世代の共通感覚の問題は軽くはないと思う。なにも大袈裟なことを言っているわけではない。新宿駅西口が広場から通路になり、未だに広場として奪還されていないとか、街頭でステッカーを貼る自由が奪われたままだとかといった、ちょっとした不自由に苛立っていると言いたいだけだ。

自由への検閲=NG:事実の真偽問題とアーティストの想像力

「表現の自由」の問題の根源にはそもそも自由とは何なのか、という私の手に負えないやっかいな問いがある。アライが挙げている事例を私なりに大別させてもらうと、二つに分けられるように思う。

ひとつは、出来事の事実を表現することをめぐる「NG」、たとえば、「慰安婦」について、強制連行や日本軍の関与が否定されたり、福島原発事故に伴う放射能汚染被害の事実が風評と呼ばれてあたかも虚偽であるかのように批判されるなど、事実を根拠として批判する言論や表現が規制される傾向が強まっている。これは、客観的な事実を表明する自由に対する抑圧といえる。いわゆる右派の意図的なフェイクニュースや歴史修正主義(アウシュビッツや南京の虐殺はなかったという類の主張)は、彼らのいう別の「客観的な事実」とか「科学的な知見」などを対置して、事実による立証の有効性を相殺しようとする。こうして事実についての客観的な証拠が相対化されて、行政などを判断停止状態に追いこみ、なおかつ恫喝や脅迫ともいえる圧力を加えることによって、会場利用の許可を出させないような状態が作られてきた。

アライが示した多くの事例を読むと、憲法で思想信条や信教の自由が明文で権利とされているにもかかわらず、むしろこれらの分野への公共施設側の締め付けが厳しい。思想信条や宗教的な信仰は元来多様であり、お互いに時には対立する場合があるのは当然である。しかし、こうした対立を混乱とか迷惑としてしか捉えず、多様性がもたらす摩擦を尊重した公共施設の表現の場を設定する観点がないのだ。むしろ、「NG」の空気は、多様性や差異を「日本」や「日本人」をめぐる有無を言わせない肯定的な価値観のなかに収斂させる環境を下から作り出し、公的な場が画一的な一色になることこそが好ましい秩序だとされている。

「NG」を支える空気は、国家や民族の犯罪を隠蔽するだけではなく、こうした行為を正当化しようとする考え方や運動が非常に根深い。たぶん、科学や客観的な事実、あるいは理性的合理的な理論は、このような欺瞞に立ち向かう武器としては十分ではない。人間は、たとえ科学者であってさえも、非合理な世界を生きているからだ。この非合理性は、文化であり、その表現であり、また、人々の日常生活の細部を規定するモノと人の関係を形づくる観念そのものだ。合理的な世界が、数式によって解明されるような物理的な自然に収斂するとすれば、文化的な世界は、そうはならない。多様な形式へと拡散し、ひとつにはならずに併存する。こうした非合理性を科学者もまた受け入れなければ一日たりとも生きられない。歴史修正主義者たちは、彼らの主張するオルタナティブな事実といった「客観性」を、この非合理性が支配する領域によってあらかじめ規定された土台の上に打ち立てようとする。崇高な日本民族が理由もなく虐殺などするはずがない、という大前提から全てが再解釈される。

もうひとつは、事実の客観的な表現ではなくて、事がらそれ自体は現実世界の諸問題(憲法9条とか原発とか天皇制とか)だが、それをアーティストの想像力を介して固有の表現とする場合だ。ほとんどのアートや文学などの表現がこれにあたる。その表現の手法とその主題選択や主題について、アーティストが描く「非合理」的でもあり現実には実在しない世界が争点になる場合だ。客観的事実そのものよりも、アーティスト自身の世界観や価値観が「公序良俗」「猥褻」などといった評価基準によって判断されて排除されるという問題である。学術研究としての天皇制批判は許容されても、それが文学(たとえば深沢七郎の「風流夢譚」とか)や美術(たとえば大浦信行の「遠近を抱えて」)となると、規制の力が厳しくなるのはなぜなのか、という問題でもある。言い換えれば、事実をめぐる是非よりも、アーティストが主観的な心情を交えて構築している彼/彼女の世界に、より敏感に反応して検閲の力が働くのはなぜなのか、という問題である。検閲する側は、事実や真実を学術のような体裁で真面目に論じるよりも、虚構や想像力に基づくが、同時に「真実」についての表現となっているアートの方がより人々の感情に訴えかけ、価値観や世界観に影響しやすいことを知っているのだと思う。上述したような非合理性と合理的あるいは理性的な現実認識との関わりという問題が、ここでもまた、重要な課題になると思う。

「NG」は事実とフィクションを相互に巧妙に絡ませる。問題は、客観的な真実をめぐる是非にとどまらず、真実を否定するパッションを生み出す虚構の力(伝統とか神話とか文化的な美の観念とか)をいかにして削ぐか、そしてまた、虚構の力が逆に、真実や事実に味方する場合もあり、後者のような非合理性の自由を確保し、それをさらに狭義の意味でのアートのカテゴリーから解放していかにして世界の創造へと繋げるか、にある。

このような「自由」を抑制する「NG」の枠組について、これらを批判して、その抑制(検閲)の解除を実現することは、自由の権利を回復する上で必要なことだ。しかし、問題はかなりやっかいで、戦後主流だったリベラルな自由が社会の多数によって支持されている時代ではない、ということを前提にしなければならない。右翼のヘイトスピーチが横行し、フェイクが容易に流布し、官製フェイクが世界中であたりまえになり、かつては極右とかと表現されて極端な側にあったものが、気がつけば世の中のメインストリームに陣取り、もはや彼らは極端な存在ではなく、むしろ普通の存在になってしまった。これは世界的な現象だ。トランプ現象はその一部であり、欧州の極右の台頭、ロシア、トルコ、インド、フィリピン、中国など権威主義的な政権が有力国を席巻している。その結果として、極右はもはや極右ではなくメインストリームになった、ということが反ファシズム運動でも繰り返し危惧をもって指摘されてきた。むしろナショナリズムを批判したり、いわゆるリベラルであったりする方が極端な側に追いやられてしまっている事態を前提にして、「自由」の復権という問題を考えなければならない。

他者と被害者を装うマジョリティ

アライが取り上げている「NG」のなかの一つの典型的なケースが、人種差別主義や排外主義の問題だ。この問題の核心にあるのは、支配者や多数派が「被害者」を装うという欺瞞が正統性を獲得してしまっているというところにあると思う。

社会のなかの多数派や、時には政府すらもが、自らをあたかも被害者であるかのような立場を演じる場面は、欧米諸国などで、主流の地位にのぼりつめつつある極右現象にも共通している。一見民主的で平等にすらみえる西欧の政治・社会制度も、実際には、長年にわたる移民・難民やLGBTなど様々なマイノリティを不平等と差別の構造に押しこめる歴史のなかで構築されてきた。しかし、徐々にマイノリティの権利を保障する制度改革が進むにつれて、既得権を削りとられるマジョリティたちが権利侵害の感情に囚われ、こうした実感に基いて逆襲する流れが、現在の潮流を形成しているように見える。こうした権利の平等化(多文化主義などとも呼ばれたが)の時期は、新自由主義グローバリゼーションの時代と重なる。新興国の急速な経済的追い上げもあって、欧米資本主義を支えてきた伝統的な工業が駆逐され、白人労働者階級の失業と貧困の原因が移民に転嫁されて敵意の対象となり、白人至上主義やレイシズムが勢いを回復した。彼らは既存の保守政党が新自由主義を支持していること、労働組合も既成左翼また無力であることを体験してきたから、既存の政治全般に敵意をもち、おのずと極右に同調する傾向が強くなる。欧州のヘイトスピーチに対する法的規制は近年ほとんど効果をあげられなくなっている。人種差別が露骨な移民・難民排斥を政権自体が積極的に政策として打ち出している国が軒並であるから、もはやヘイトスピーチではなくヘイトポリシーが正統性を獲得してしまったようにすら見える。

このような平等に向けた権利の再配分過程の軋轢は、日本の場合、国内の問題としては在日をターゲットにしたマイノリティに対して発動され、そしてそれは、同じ構図をとりながら、対外的には周辺諸国、韓国、北朝鮮、中国への敵意として表われている。もともと日本の場合は、入管政策が極端な移民・難民排除の自民族中心主義をとり、歴代政府は率先してヘイトポリシーを実践してきた。こうした体制が人種差別主義だとはほとんどの人々は考えていない。観光客へは「おもてなし」の体裁を取り繕うが、移民・難民は「おもてなし」の対象にはならないという線引きに、レイシズムが隠されていることの自覚はもちろんない。

アライも指摘しているが、レイシズムの背景には、上の述べたように、経済的な構造変動がある。日本に即して戦後を視野に入れてみた場合、どうなっているのだろか。戦後の敗戦から復興して高度成長を遂げ――朝鮮戦争とベトナム戦争を儲けのチャンスにしたのだが――アジア唯一の先進国とか米国に次ぐ世界第二の経済大国だとかで愛国心を満たしてきた時代が70年代に入って終る。バブル以降の長い停滞が今に続くが、この間に、中国に追い抜かれ、韓国などアジアの新興諸国とほとんど優劣のつかない位置にまでランクダウンする。経済帝国主義による愛国心が満たされなくなった長い停滞の時代と、ヘイトスピーチの登場とはほぼ時期が重なる。競争力をつけてきた周辺諸国へのルサンチマンは、日本人が不当に差別されているかのような被害感情を煽り、民族的な敵意の感情を生み、これを冷静にクールダウンさせる歴史認識や社会観を政府が率先して否定するなかで、敵意が日本国内に住む在日朝鮮人や中国人など、主に非白人系の人々に向けらてきた。自分達は朝鮮人や中国人たちが不当に特権を享受し、自分たちがこの国の正当な権利を享受できていないとする被害者意識を背景に、「在日特権」といった虚構が作り出されて敵意の観念が再生産されてきた。そして、更に、領土・領海問題にみられるように、東アジア諸国に対して、経済で負けた分を今度は警察力や軍事力の誇示でカバーしようとする最悪の感情が支配的になってきた。個々の表現の自由を抑圧しようとする行政や地域住民の心理と行動の背景にある構造をこのように説明できるとすれば、こうした構造は、その現れ方は様々であっても、ほぼ欧米諸国にも共通した傾向をもっている。白人至上主義者たちが移民やユダヤ人(「セム族」は白人ではないという観念がある)などに抱くルサンチマンの心理とほぼ共通しており、私たちが直面している問題は、日本の固有性に還元できない現代世界が抱えている一般的な大問題でもある。

再定義される「自由」

「自由」の意味内容は、いつの時代であっても、権力者によって定義されてきた。その定義が、時代の推移のなかで、権力者にとって都合のよいように再定義され始めているのが現在の状況のように思える。誰のための自由なのか、という問いに、「万人のための自由」という答えは正解にはならなくなっている。こうした答えでは、表現の場を支配する力を持つ者たちの不寛容、差別、特権、歴史の事実に嘘や神話を持ち込むことなど、こうした事がらの自由を保障し、レイシズムに正当性の根拠を与える一方で、私たちはその残り滓のような不自由を無理矢理「自由」の名の下に甘受させるダブルスピークの罠に嵌ることになるからだ。リベラルな憲法学者や人権活動家たちなどが定義する「自由」が主役の座を追われて、自由民主党という党名に象徴されるような「自由」が自由の定義の主導権を握りはじめていると言えるかもしれない。

排除の自由、ヘイトの自由が横行するなかで、嘘やデマはいけないことだ、という倫理観がある種の転倒した状態で、私たちに襲いかかってきている。アライが指摘しているように、トランプ米大統領の発言の7割近くはウソといわれ、こうした事態が「ポスト真実」とか「オルタナ・ファクト」と呼ばれる。しかしこうした嘘吐きたちの側からすれば、私たちこそが嘘吐きでありフェイクニュースを流す連中だということになる。日本の文脈のなかでいえば、福島原発事故による放射能汚染の被害を訴えることを風評被害と呼んで押さえ込む「空気」が支配的になっているのは、その端的な現われだろう。伝統的なマスメディアとSNSなどのネットの情報の間にかなりの乖離があるとき、人々は錯綜した情報の洪水に戸惑うが、そんなときに、影響力を発揮するのは、顔見知りの人達の間のクチコミということになる。ところがSNS自身がクチコミの道具だから、SNSの発信力の強い身近な人達の言動に人々が左右されやすくもなる。マスメディアは私たちにとっても、決して公正とはいえない営利企業か国策メディアといったところなのだが、それすらも右翼は左翼というレッテルを貼って攻撃する。このようにして、極右がメインストリームになり、時には権力の座すら獲得してしまう今、彼らが「自由」の定義を規定する主導権を握ろうとしている。

こうした時代をアライは「ポスト真実」の時代と呼ぶわけだが、アライが引用しているオックスフォード辞典によれば、ポスト真実とは「世論形成において、感情や個人的信条のほうが客観的事実より影響力のあるような状況」(212ページ)と定義されるという。確かに一面ではこのようにすっきりと主観と客観の間に線引きが可能な場合もあるだろう。しかしまた、感情や個人的心情が客観的事実と常に対立するとは限らず、逆に事実を裏付ける場合もあり。この定義のように単純ではない。

当事者の人々の感情のこもった体験に基く証言もまた客観的事実だ。「慰安婦」の女性たちや戦争の被害者体験も重要な客観的事実を構成する。逆に、客観的事実が嘘に加担することもある。事実は解釈を必要とし、この解釈如何によって、同じ事実が真逆の意味を担うことがいくらでも可能だからだ。「慰安婦」の強制性や南京大虐殺、ナチのホロコーストなどを否定するひとたちは、事実あるいはデータらしきものとこれらを解釈する自分たちに都合のよい学説や科学的知見を動員して、ある種の体系を構築し、ここから別の「事実」を導き出そうとする。客観的事実であれ主観的な感情であれ、何が真実の位置を占めるのかを決定するメカニズムと力学のなかで、常に支配的な権力が事実についての解釈の主導権を握って、真実を構築してきた。イラクの大量破壊兵器や福島原発事故が「アンダーコントール」であるということが真実となるのは、支配者たちが、感情も客観的な事実も都合のよいかたちで動員して嘘を真実として通用させる力を持つからだ。

更にやっかいな問題は、意図的に嘘を流布することは不正義あるいは倫理に反する振る舞いだという道徳律が、権力者たちにも、いわゆるネトウヨと呼ばれるような人達にも通用しないという点だ。彼らにとって、嘘か本当かは二の次であって、彼らの関心は、彼らが心情的に自らを同一化させようとする「日本人」といったある種のナショナリズムを崇高なもの、不可謬なものとしてロマンチックに称揚することに唯一無二の価値を置くことにあるように見える。この想像上の「日本人」や「日本」を現実あるいは事実そのものとして受けとめて、ここから歴史を再解釈し、これを毀損するものは、一切容認しないという態度だ。

多分こうした態度には二つのベクトルがあり、ひとつは、敵意による防衛であって、在特会や右翼などによるヘイトスピーチがその典型だろう。この流れのなかに、露骨な様々な「NG」が含まれる。もうひとつは、そして最もやっかいで重要なのは、文化や芸術を味方につけて、決して敵を攻撃することなく日本の文化や伝統を美や崇高、神話や自然といった事がらと結びつけてひたすら肯定しまくる態度だ。美の観念がここでは重要な鍵を握る。こうした美と崇高の観念を「日本」という想像上の観念の根拠に据えて、歴史を超越した永遠性の証しとすること、これは、近代日本が戦前であれ現代であれ、公然と称揚してきたナショナリズムや愛国心を支える感情ではなかっただろうか。こうした虚構――肯定すべき固有の価値を体現する「日本文化」――に基く自己肯定や自民族への共感をヘイトスピーチと呼んだり人種差別主義と呼ぶことには困難が伴なう。だから野放しになり、こうした感情がレイシズムや「NG」を正当化する集団的な感情を生み出す。

ヘイトスピーチ批判や人種差別主義批判の限界がここにある。しかし、他方で、伝統や自民族中心主義の文化がレイシズムと切り離せないとしても、その破壊が自由の回復を意味するとは限らない。破壊が向う方向はひとつではないからだ。イタリアの未来派が先鋭的な伝統破壊の運動であり、また同時に、暴力の行使も厭わない過激なファシズムの同伴者でもあったことを忘れてはならない。

/不快あるいは感覚的判断

ポスト真実の時代にあって、私たちは、感情か客観的な事実か、という二者択一ではなくて、嘘が真実になり、真実を語る者たちの言葉が嘘としてしか受け取られなくなるという逆転のなかにいる。だから、彼らの嘘を覆すための新たな依って立つべき方法と戦略を練り直さなければならないのだが、これは私にとっては未踏の課題だ。

アライは、「理性的なものは失なわれ、感覚的な判断が強く占めるようにな」り、また「判断の指標に快/不快が重要な位置を占めてくる」ような時代になると、容易に、「日本軍の罪悪は不快を、日本軍の大義は快をもたらす」(214ページ)といった感情が支配的になると指摘している。なぜ理性的なものが失なわれてしまったのか、という根本問題はさておくとして、この快/不快というい判断基準をめぐる問題は、私自身にとっても、30年前に富山県立近代美術館における「遠近を抱えて」(大浦信行作)の非公開・売却処分問題の核心にある問題でもあった。アライが本書で指摘する多くの事例をみると、その大半が多かれ少かれ「不快」といった感情に依拠した判断が背後にあって、それが別のよりクールな制度言語(条例や法など)に翻訳されているケースのように思う。「日本軍の罪悪は不快を、日本軍の大義は快をもたらす」という価値判断が公共空間を捻れさせるというアライの指摘は、日本軍を日本とか日本人に入れ替えればより一般的な構図にもあてはまり、更に、どこの国であっても、自国のナショナリズムをめぐる快/不快の構図が内包する共通の問題でもある。

多くの検閲事件や右翼などによる攻撃に対して反撃する側の基本的なスタンスは、真偽を客観的に争うことや憲法などの法が保障する表現の自由といった理性的合理的な規範に依拠することにほぼ限定されており、こうした合理性の言説が機能しない感情的な同調と排除の心理を軽視するきらいがある。アライが感情あるいは「感覚的判断」に踏み込んだことは、検閲や表現の自由を議論する上で、重要な観点であって、この分野を法合理性で仕切ろうとする従来の議論に一石を投じる試みだと思う。

彼がここで下敷にしているのはカントの判断力批判の議論、とりわけ感情的判断と趣味判断の区別である。カントの美学論についての議論(そしてまたハンナ・アレントの解釈)から、他者の視点を内在させる趣味判断とは異なって感情的判断は「感覚という個人にの根ざす思考過程」であるために、他者の眼差しを受け入れないことを指摘する。こうした感情的判断が美学だけでなく時事問題、社会的事件の理解をも支配するようになり、「趣味判断」のような他者の視点がないために、異なることは当り前でなくなり、不快を覚えるようになる。不快は理性で本来抑えられるが、感覚的判断が優勢の場合は、排除、差別、別紙に結びつきやすい」(215216ページ)と述べている。

感覚的判断は私的領域に留めておくべきなのに、これが異なる他者たちと共有する公共空間をも侵食することによって、「個人の枠に止まる感情、それに根ざした思考は伝達可能性を持たず、社会の公共性はよく機能しなくなる」(216ページ)。他方で、人間は関係の産物でもあるという観点からすると、感覚的判断を私的な領域に留めることが果してどのようにして可能なのか、という問題は避けられないようにみえる。そもそも感覚的判断と趣味判断は当事者の人間によって自覚しうる区別とはいいがたいであろう。しかも、美は果してポスト真実の時代に抗して事実や客観性に味方するといえるのかどうかも問われることになると思う。カントもヘーゲルも美の哲学的な理論化に執着したのは、そもそも美的な感情が近代の哲学にとって難問だったからだろう。その難問の原因は、たぶん、シラーを借りれば「美は対象の論理的性格を克服したときに。まさにその最高の輝きをもって現われる」(「カリアス書簡」、シラー『美学論集』、石原達二訳、冨山房)というように、論理を、したがって理性をも超越するからではないだろうか。こうした美を道徳と関わらせるべきかどうかが次に問われることになる。美を一切の理性による拘束から解放して自らの味方につけてきたのがロマン派だとすれば、そして、そのロマン派の政治的な体現がナチスの美学であったり、日本浪漫派による戦争の美学化であったりしたとすれば、感覚的判断が趣味判断に浸透し、趣味判断を乗っ取るという事態を想定する必要がありそうだ。

アライは感覚的判断が公共空間を侵食すると、快/不快の満足度といった数値による判断が優勢になって、「多数派の満足度は施策を行う上での大義名分になり、少数派を圧迫する傾向を生みかねない」(216ページ)と述べているのは、支配的な集団の感覚的判断が趣味判断に侵食したことを意味しているのではないか。またアライは、平和を理解する理性と他者を攻撃する感情の乖離や、世界への真剣な問いを回避して衝動に支配されて複数性を失う大衆への深い危惧を表明している。アライは、一人一人の差異は、諍いを生むよりは違いに基づく共有する部分を分け合う知恵を働かせるが、画一性が逆に不和と諍いをもたらし、違いは憎しみになると言う。こうした傾向に抗って、「画一性を前提とする愛国心や絆とは本質的に異なる共約を深め、あるいは広げること。ここに公共性の本来の意義がある」(218ページ)と言う。しかし本書の最後の箇所で、「地域社会の発展に重宝がられるソーシャルの活動も欠陥がある」「ソーシャルなるものはしばしば政治性という間違いにもとづく形相を伸長に省いて実施される」(251ページ)とも指摘している。つまりコミュニティにおける公共性それ自体が、ポスト真実を標榜する人々によって主導権を握られつつあり、だからこそ自由をめぐる重要な闘争の場になっているということだろう。

こうした現状の困難を認識しつつも、アライが期待を寄せるのは、コミュニティの活動に根を下した形で、お互いの意見を交流しあう対話が、自由で開かれたものとして保障されるとき、人々は、相互の学びあいから自己変容を可能にする営みを生みだすという点だ。地域の活動の拠点となるような公民館の活動に、その可能性をみているのかもしれない。しかし同時に、私は、公的機関や制度に依存せず、また営利目的の民間資本にも依拠しない、文字通りの自立的な場所の創造もまた自由の具体的な場の実践として注目してもいいとも思う。スクウォッターのような運動が野宿者運動以外にはほとんど見出せない日本では、その可能性は多くないのが現実だが、なぜ協同組合運動や労働運動がこうした自由な場所づくりに無関心なのだろうかとも思う。

有害と自由

アライは、事実と客観性を肯定し、不合理な感情に異論を呈するという、どちらかといえば生真面目な態度を基調としている印象が強いのだが、いい意味でこれを裏切るような含蓄のある言い回しで本書を締め括っている。

「NGの駆逐のために必要なこと。それは、数々の不正や不条理に対し、勇気をもって有害なものを投げつけること。言葉や表現、あるいは行動が含む有害なものを許容すること。そこから冷静に対話のための手段を探り、向き合うこと。

社会に自由という複数性の条件をもたらすにはどうしたらいいか。まずは言葉と表現という有害なものの尊重から始まる」(251ページ)

アニメやサブカルチャーに深い関心を寄せてきたアライが、あえて「有害」という言葉をここで登場させた含蓄は深い。ここで彼が「有害」と呼ぶものは、社会の支配的な価値観や権力者の観点からみて「有害」なものであり、「有害」なものに正義と条理を担わせようとしていることは明かだ。ここで彼が正義や真理、あるいは事実や客観性といった言葉を選ばなかったことは大切な問題を提起していると思う。「有害」という概念に含まれるいささか、不道徳な内容や表現形式こそが真理や事実が表出する上で欠くことのできない表現のスタイルだ、ということを示唆しているからだ。しかし「有害」という文言についてアライは立ち入った議論を本書ではしていない。今後是非この点が展開されるのを期待したいと思う。

このアライの一節を読んだとき、活動家でありジャーナリストでもあった青年時代のマルクスが、検閲と闘って書いた最初期の論文のひとつ「プロイセンの最新の検閲訓令にたいする見解」(1842年、以下翻訳は大月書店版『マルクス=エンゲルス全集』第一巻による)を思い出した。マルクスは徹底した検閲反対論者であり、自由の擁護者だった。

当時のプロイセンの検閲訓令のなかに「文筆活動にたいするすべての不当な強制を明白に否認し、公正で健全な言論発表の価値と必要をみとめ」るという文言がある。「公正で健全な言論」は検閲の対象外とするというこの文言に、マルクスは猛然と噛みついた。「検閲によって妨げられるべきではない真理の研究は、まじめで謙譲なものにかぎると詳細に性格づけられて」おり、「内容の外部にある何ものかについての限定」が「研究を真理から離れさせ、未知の第三者にたいして気をつかうよう命じる」(56ページ)のは何ごとか、と批判した。要するに、「公正で健全な言論」では真理を語れない、というのだ。

「もし謙譲であることが研究の性格を形づくるとするなら、それは、非真理よりも真理のほうを恐れはばかる証拠である。こうした謙譲は、われわれが前進する一歩ごとにわれわれの意気を粗相させる鎮静剤である。それは研究の結果を見いだすのを恐れる不安であり、真理に対する予防薬である」(6ページ)

感情に任せて怒りをぶちまけるような表現を鎮静させて真理から遠ざける効果を発揮するのが真面目な研究なるものだという。彼は、真理を不真面目やユーモアと結びつけ、他方で、画一的なスタイルにもとづく「自由」を自由の敵対者として否定する。こうしてマルクスは、不真面目極まりない小説『トリストラム・シャンディ』(ローレンス・スターン作、岩波文庫に邦訳あり)を味方につける。(残念なことに、その後現在に至るまで、多くの真面目なマルクス主義者たちはこの文章を無視するという不真面目な態度を貫いてきた。)

「さらにまた、真面目さとは心の貧困をかくすためにする肉体の欺瞞動作であるとトリストラム・シャンディは定義したが、君たちのいう真面目さがその意味ではなく、即物的な真面目を意味するとすれば、その全命令は無効となる。なぜなら、笑うべきものを笑うべく取扱うときには、私の取扱い方は真面目なのであり、精神のもっとも真面目な無遠慮さは、無遠慮さにたいして謙譲であることだからである」(7ページ、引用に際して一部表記を変更した)

真面目さは心の貧困を隠蔽する欺瞞だという。検閲が強いる公序良俗は、まさにこの欺瞞そのものであって、笑いものにして当然の対象を笑うべきものとして不真面目に表現するという真面目な態度を排除するものであって、ここには自由はありえないというのだ。マルクスはトリストラム・シャンディの「まじめ」の定義こそが正しい定義だとしたのだが、確かにシャンディの定義は、私たちの日常生活において、私たちが真面目を装うときの心理を的確に表現している。

アライが「有害」と呼ぶものは、マルクスが公序良俗の範疇を拒否して、不真面目の側に立つことこそが自由なのだと主張したこととほぼ重なるのではないかと思う。

さてそうだとすれば、私たちは、中立を装ったり、右でも左でもないといった真面目な態度をとることはできない。明確な思想的な立場をとることがなければ、誰に嘲笑の笑いを投げつけてやったらいいのかを判断できないだろう。

ではどのような立場が有害、あるいは不条理に抗う不真面目な表現なのだろうか。多分、言いうることは、ひとつ。私たちは、権力者たちへの有害で不真面目極まりない言論や表現の権利を一歩たりとも譲らないが、いかなる表現であれマイノリティや権力によって虐げられている権力なき人々に対して有害で不真面目な表現を投げつけることは許さない、というある種の道徳律である。誤解を恐れずに言えば、私たちは、ヘイトスピーチ一般を否定しない。権力者たちに対する私たちのヘイトスピーチ、彼らの有害な振舞いにみあう有害な言説を投げつける権利は留保する。笑うべき権力者に対して笑いをぶつける権利は留保する。権力者たちにとって有害とみなされる表現は、彼らにとって公序良俗を逸脱した表現であることは間違いない。この意味での公序良俗に与する理由はない。

正しい言論や表現、あるいは正義や真理に基く言論や表現は、道徳にかなう品行方正な様式を伴うに違いないという発想では、権力の公序良俗を口実とした検閲には立ち向かえない。学術的な天皇制批判は許容されながら、「朕はたらふく食っている、汝臣民らは飢えて死ね」という戦後直後のメーデープラカードから60年代の「風流夢譚」のような滑稽小説への弾圧やテロまで、戦後早い時期の検閲や右翼の暴力を支えた真面目を強いる風潮は、今なお続いている。不道徳で下品で、支配的な倫理・道徳からすれば「有害」な表現が真理や理性にとって最も的確な表現の様式、つまり政治的に正しい表現であるということはいくらでもありうる。本書にその多くの示唆に富む試みの記録がある。


付記

本書で扱われている検閲(NG)の対象となった事例は、私も知らない事件もあり非常に参考になっただけでなく、公共空間にここまで浸透してきているのか思わざるをえないほど事例の多様性に驚くばかりだ。とはいえ、ここで扱われていないものの私にとっては重要だと思われるものもある。一つは、20115月福岡で行なわれたサウンドデモへの警察の介入事件。これはその後本人訴訟で提訴されサウンドデモ側が勝訴した事件があった。もうひとつは、風営法によるクラブ規制問題。これも大阪のクラブ・オーナーが提訴して勝訴したが、その後も警察によるクラブ摘発が続いている。そして、現在裁判が続いているタトゥーの彫師を医師法違反で摘発した事件がある。アーティストの表現の自由を医師法で縛ることの是非が問われ一審で彫師側が敗訴し、現在控訴審というかなり大変な裁判が進行中だ。アライの事例取材は、当事者へのインタビューも数多く含まれる重要な仕事だ。こうした仕事をする美術ジャーナリストが少ない日本では貴重な存在だ。同時に、日本中ではびこっている様々な隠されたNGを掘り起こす作業もまた集団の作業として必要だと思う。

 *アライ=ヒロユキ『検閲という空気―自由を奪うNG社会』,

          四六判262ページ,社会表論社,¥2,200➕

初出:『あいだ』242号