生前退位論議から天皇制廃止への道筋を考える

3月2日に衆参両院の正副議長が各党派代表者の会議を開催し生前退位の合意をとりつけ、生前退位否定の選択肢がまず消えた。生前退位について有識者会議や政党間でも議論は三分されており、そもその生前退位を認めるべきではないという主張が極右派の立場で、共産党や社民党は、象徴天皇制の是非問題を棚上げにして天皇制存続を前提に皇室典範の改正で対処すべきだとの見解であり、与党の特別法対応はその中間に位置するといえる。(井田敦彦「天皇の退位をめぐる主な議論『調査と情報』943号、国立国会図書館、20172月)今後は、天皇の意向を汲み、生前退位を前提として、憲法、皇室典範などの法解釈問題も含めて、生前退位を合法化する法的な手続き論に焦点が絞られたということになる。

生前退位をめぐる議論は、天皇制の持続可能性を確保するための最適な統治機構の再設計問題でしかない。天皇制に反対する立場からすると、退位をめぐるこの間の問題は、メディアも議会もアカデミズムも法曹界も、そもそも天皇制の是非という課題を最初から問題設定の前提から排除することを自明の理として、天皇制ありきの議論に何らの疑問も抱いていない点に最大の問題がある。これは、将来の社会構想を大胆かつ想像/創造的に構築する意欲そのものの衰退をも意味しており、極めて深刻な思想的な枯渇状況にある。

戦争法反対運動のなかでしきりに口にされるようになった「立憲主義」の議論のなかでも、立憲主義が立憲君主制と両立するのかという根本問題には関心が寄せられていない。天皇廃位から廃止へという選択肢の不在を象徴しているのが、議会内左翼の生前退位問題への認識である。共産党は、210日に国会内で天皇退位問題について検討会を開催し、小池晃書記局長が「天皇の退位については、政治の責任で真剣な対応が必要だ。一人の人がどんなに高齢になっても仕事を続けなければならないという今のあり方を、個人の尊厳という憲法の根本精神に照らして見直すべきだ」と述べた(『赤旗』201734日)。また、社民党は215日に「見解」を発表し、その中で「人間が人間として有する天賦人権は、天皇『個人』に対しても、当然保障されるはずである。しかし、天皇という地位やその地位が世襲であるとされていることによって様々な人権が制約され、天皇『個人』に過度の負担が一生負わされているが、『退位の自由』がない限り、これを正当化することはできない。憲法の基本原則の制約は必要最小限にすべきであって、天皇の人権という観点から、退位を認めるべきである。」と述べている。いずれも戦後憲法の基本理念である個人としての人権に照らして退位への態度を表明したものだ。象徴天皇制が憲法の基本的人権の理念に抵触することを軽視し、象徴天皇制は旧憲法の天皇制に比べればまだマシで政治的な実権を担わない天皇にさしたる問題を見い出していないからではないか。

憲法前文と天皇条項の矛盾

憲法前文は「国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くもの」と宣言するが、この人類普遍の原理からどのような論理で象徴天皇制が導き出されるのかを憲法は全く明示できていない。自民党改憲草案はこの齟齬を自覚し、前文を全面書き換えて天皇条項に整合性の軸を据えたといえる。

そもそも憲法には天皇とは何者なのかの定義すらなく、天皇を唐突に持ち出す論理構造上の亀裂があり、これは、天皇が日本においては自然法の実体と位置づけられているからだと解釈する以外にない。そうだとすれば、天皇条項は、前文の普遍原理(もうひとつの自然法)と両立することは絶対にありえないはずなのだ。しかも象徴が意味する具体的なことがらは国事行為とされるが、この国事行為が国民統合の意味内容を満たすものとはとうてい思えない。国民統合の意味内容に見合う役割を天皇に与えるとすると限りなく戦前の天皇に近い存在にならざるをえない。そうなれば、普遍的な人権原理とますます離反することになる。

この矛盾を抑え込む理屈として、憲法は、天皇の地位を前文の普遍原理ではなく「国民の総意」に根拠を持つという例外規定を設けてこれを正当化した。憲法には「総意」の定義がないこと、憲法制定時に裕仁の天皇としての地位について「国民の総意」によって確認されていないし明仁の場合も同様であることは、これまでも問題視されてきた。総意確認の手続きがとられないのは、「国民」であれば例外なく天皇の地位を認めるのは当然のことだという前提があるからだろう。この天皇当然視が天皇を自然法の枠に含める発想にもなるが、これは、憲法が国民の総意によって天皇の地位を確認すべきだということを要求しているという解釈とは真逆に、国民であるならば当然天皇制を承認すべきであるという「国民」への天皇制肯定を自明のこととして強制する根拠として用いられる危険性のある文言でもある。このことは、特に、外国籍の人たちが日本国籍をとり「国民」となることを選択するときに、天皇制を承認する「国民の総意」に含まれる一人となることを強要する根拠として転用されうるもので、自民党改憲草案などはこうした解釈を持ち込んでいるといえる。

世襲と「総意」の矛盾

「国民の総意」は、天皇の象徴としての「地位」に対するものであって、2条の世襲制との関係は明確ではない。むしろ世襲と「国民の総意」による根拠づけとの間には矛盾があって必ずしも両立するとはいえない。常識でいえば、天皇の地位についた者がその地位にふさわしいかどうかを「国民の総意」によってその都度確認することを憲法は求めていると解釈すべきだろう。そうでなければ、初代が国民の総意で即位したとして、そのあと自動的に世襲で継承され、永遠に「国民の総意」の確認は不要だということになる。これでは天皇の地位が「国民の総意」に基くことが確認されたとはとうて言えない。戦後の象徴天皇制は、国民の総意による確認を当初から怠ったままなので論外の違憲状態である。そもそも君主制だからといって世襲が必須なわけではなく、総意が得られなければ世襲されないうことになり、2条の世襲規定と反することになるが、2条は大統領制のように立候補による選挙という制度ではなく、皇位継承の候補者を世襲原則とするという規定だと解釈すべきで、このことも踏まえて、天皇の代替わりの都度国民の総意を確認する手続きをとるのが筋だ。

総意を確認する法制度を置くということは、逆に総意に基づく廃位の可能性を排除できないことも意味する。廃位の可能性が手続的に明確になるということは、天皇制の廃止、即ち1条から8条を削除する改憲を正当化する一つの道筋をつけることになる。天皇条項の廃止は、憲法前文の普遍原理には一切抵触しないので改憲の範囲内だ。護憲派は、退位問題が議論されるなかでも、皇位継承に関して憲法が要請している「国民の総意」による確認問題すら持ち出していない。これで「護憲」とはとうてい呼べないだろう。私たちが天皇制を廃止するという場合、この国に暮す人々(国籍は問わない)の総意として天皇制を選択しないということの合意をとるということであり、その具体的な道筋のひとつとして、「国民の総意」問題は議論されてよい問題だと思う。(注:廃位とは「強要して君主をその位から去らせること」『大辞泉』の意味で用いている)

「国民」概念と普遍的人権の理念との矛盾

象徴天皇制が憲法の人権規定と整合しないという議論はこれまでも繰り返されてきたが、大方の議論は、女性天皇論議に端的に示されているように、象徴天皇制の存続を前提として、いかにして人権条項と整合させられるかが中心の課題とみなされてきた。憲法の人権概念が素直に適用された統治機構であるならば、例外となる天皇のような存在を認めないとするのが筋が通っているハズだ。大方のリベラルな憲法学者も含めて、このことは承知の上で、現行憲法に規定されている天皇条項を憲法体系のなかで辻褄を合わせようとする。この無理が無理だとは思われなくなる思考が、合理的な思考を旨とすべきアカデミズムや立法府の政治家たちの無意識を支配するようになる。

この不合理性の問題は日本だけでなく立憲君主制を採用するどこの国にもあてはまる矛盾だという面からすると、問題の根は深く、近代国民国家そのものの統治体制の本質に、合理性を超越した統合の要素を要求せざるを得ないものが内在しているとみるべきかもしれない。近代国民国家は、「国民主権」と基本的人権を「人類普遍の原理」とすることによって、普遍的な価値を「国民」という限定された人間のカテゴリーにのみ認めるという差別と排除を正当化する構造をもっている。「国民」を英語版憲法に忠実に人民と訳したとしても国民あるいは人民の定義を国籍法に委ねるわけだから、国籍の有無によって普遍的な人権を享受できる者とそうでない者を峻別するということになる。天皇は聖別されて、ある種の特権を例外的に与えられるとすると、天皇以外の国籍を与えられない人たちは、この国に暮しながら「人類普遍の原理」の適用外として憲法の保障の埒外に置かれることになる。人類普遍の原理は人類であれば誰であれ平等に適用されるべきであるにもかかわらず国籍によって明確な差別が持ち込まれる。近代の「人類普遍の原理」は、同時に差別と排除に支えられてもいること、この意味である種の欺瞞を免れず、これがまた西欧近代への懐疑に基づく「日本固有の文化」というもうひとつの欺瞞を生み出してきた歴史にむしろ注目すべき時だろう。

こうした文脈のなかで、「国民」のカテゴリーから除される人たちの存在によって、国民国家の主体(主権者=国民)の側に自負心が生み出され、人類の普遍的な価値を享受することを許された者が共通して抱く感情が生成される。この感情がナショナリズムである。立憲君主制の場合、この「国民」に与えられた普遍的な価値が君主を媒介として一体性(統合)を獲得するような仕組みになっている。象徴天皇制が戦後憲法の理念と抵触する重大問題だという認識が定着しなかった理由も、この国民国家のレトリックの罠にあるのかもしれない。歴史的一体性のイデオロギー機能を天皇の象徴機能に見出すのは間違いだとする憲法解釈が通説となって、象徴の政治=文化的機能を軽視した楽観論が支配し、その結果、天皇制の根拠や是非を問わずに、そこに有ることそれ自体を「自然」な存在として前提する支配層の発想を許してしまった。このような、ぜ天皇制が必要なのかという根本問題を問わない思考方法が生前退位問題でも如実に現われたといえる。この意味で国民国家という枠組それ自体が、本質的に抱える問題性の特殊日本的な現われが天皇制なのだといえる。

人類普遍の原理が国の数だけあるということ自体が近代国民国家の普遍主義の矛盾である。にもかかわらず、逆に国民国家を普遍的な原理の体現者だという奇妙な感情を全ての国の「国民」がそれぞれ別々に抱き、これが作用して、至高の原理を標榜する国家が相互に殺戮を繰り返してきたのが近代の歴史だ。この意味で憲法そのものには深刻な非人間性が内在している。この意味で国民国家も憲法も統治の原理として肯定的に前提すべきではなく、統治の制度設計を土台から再構想する想像/創造力こそが問われている。すくなくとも日本の近代の歴史の教訓とはこのようなものであるべきだろうと思う。生前退位の議論を再度この水準で論じ直し天皇制廃止を国民国家の廃棄という卓袱台返しに繋げないと、新しい社会への希望は生み出せないと思う。(『反天皇制運動Alert』9号、2017年3月から一部修正の上転載)