共謀罪も越境組織犯罪防止条約もテロを防止できない

共謀罪の閣議決定後の記者会見で、金田法相と岸田外相は次にように共謀罪の必要に言及した。

金田法務大臣の記者会見発言

「今回の改正は,近年における犯罪の国際化及び組織化の状況に鑑み,テロを含む組織犯罪を未然に防止し,これと戦うための国際協力を可能とする「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約」,いわゆるTOC条約を締結するための法整備として行うものです。3年後に迫った東京オリンピック・パラリンピック競技大会の開催を控えた中,TOC条約の締結のための法整備は重要なものであり,急務であると考えています。」

岸田外務大臣の記者会見発言

「ご指摘のように,本日の閣議で国際組織犯罪防止条約の国内担保法が閣議決定されました。この条約は,既に187か国が締結をしています。こうした条約を我が国も締結し,テロを含む組織犯罪と闘うことは,2019年のラグビーワールドカップ,2020年の東京オリンピック・パラリンピックを控える我が国にとって,重要なことであると考えます。
この条約締結に必要な「テロ等準備罪」を創設することで,テロを含む組織犯罪を未然に防ぐことが可能になるほか,国際協力が促進され,深刻化するテロを含む国際的な組織犯罪に対する取組が強化されることになります。このことは大変大きな意義があると考えております。」

二人ともテロと闘うためには国際組織犯罪防止条約(以下、日弁連の呼称に倣って越境組織犯罪防止条約と呼ぶ)の締結が不可欠で、そのために共謀罪が必要であるという従来からの主張が繰り返されている。しかし、条約と共謀罪がテロ防止にとって不可欠という政府の主張を立証できる証拠はいったいどこにあるのだろうか?フランスはじめEU諸国で起きてきたテロは、条約と共謀罪があっても防げなかったのではないか?

政府の言い分では、「すべての重大な犯罪の共謀を犯罪とすること」を条件としているとされるこの条約を締結している国は187ヶ国にのぼる。 二人の大臣が言ったことを敷衍すれば、187ヶ国、つまり世界のほとんど全ての国では「すべての重大な犯罪の共謀を犯罪」としているということだから、世界中至る所で話し合うだけで犯罪者とされて逮捕され、その結果として、条約締結国、187ヶ国ではテロが防止されているはずだ。他方で、共謀罪のない日本は、世界でも最もテロの脅威に晒されている危険な国だといことになる。そうでなければ立法趣旨と理屈が合わないだろう。

しかし、世界の現実は政府の立法趣旨とは全く逆であることは誰もが認めるところで、テロ防止効果はみられないのではないか。現実の世界で起きていることを踏まえれば、共謀罪でテロ防止効果があると日本政府が本気で信じているとは思えない。このことからしても、政府が公式に発言している共謀罪の立法の趣旨は政府の本音ではないことは明らかだ。越境組織犯罪防止条約と共謀罪がテロを防止できると繰り返す政府の主張は、ある種のフェイクニュースの類いと言うしかない。

BBCは、ロンドンのウェストミンター国会議事堂付近で起きた自動車テロの報道にほとんど全ての時間を費やしてる。テレサ・メイ首相は英国議会は「民主主義、自由、人権、法の支配という我々の価値を代表している」として、テロがこうした英国の価値観への挑戦だと批判した。テロが起きるたびに欧米の(そして日本の)政府首脳らが繰り返すこの自己讃美の言説を、私は納得して聞いたことがない。むしろ非常に不愉快な気分になる。英国が誇る民主主義や自由はまた同時に、英国の植民地主義と表裏一体だったのではないか?イラク戦争以降の対テロ戦争は、英国の民主主義、自由、人権にもとづいて広汎なイスラーム圏を武力紛争という民主主義も自由も人権も奪うような環境に追いこんだのではないか。民主主義、自由、人権を口にしながら、実際にはそのいずれもが奪われる。どうしてこのような欺瞞を繰り返す「先進国」の価値観に、こうした欧米500年の欺瞞に心情的にも共感できるだろうか。米国もフランスも有志連合の諸国だけでなく全ての対テロ戦争に加担している自称「自由と民主主義」の国に共通する欺瞞の言説が、むしろ敵意と憎悪を再生産しているのではないか。

言うまでもなく、日本が戦前戦中に繰り返してきたこともこれと同質であったし、戦後もまた日本の侵略と戦争責任への反省がないという意味でいえば、欧米先進国と同罪である。欧米帝国主義批判と民族解放戦争としての大東亜戦争なる言説とは裏腹に、日本の行為は明かな侵略であり虐殺であった。一方に口当たりのよい普遍的な理念を掲げ、この普遍的な理念を口実に、他方で残虐の限りを尽しながらこの暴力を正当化してきた。それが近代という時代の精神の本質ではないか。

テロ対策に厳罰主義や警察による捜査権限の拡大が役にたたないのは、この欺瞞を正当化するための国家による暴力の行使でしかないからだ。今問われているのは、価値観を裏切ることを平然と繰り返す権力の偽善そのものである。主権者たちもまた、こうした政府の偽善と腐敗を民主主義という舞台装置によって下支えしているのではないか。