自民党改憲草案と共謀罪──反政府運動の非犯罪化のために

前の投稿で改憲問題に簡単に言及したが、ここではやや詳しく私見を述べておきたい。

共謀罪法案の国会審議が本誌発行の時点でどのように進展しているのか、現在の執筆段階(三月一九日)からは見通しがたてにくい。二〇〇三年以降幾度となく上程‐廃案を繰り返してきたことからもわかるように、「共謀」の犯罪化は刑法の根底を覆す深刻な問題をはらんでおり、専門家の間ですら合意がとられていない。(注1)廃案を繰り返してきた法案を執拗に再上程する与党側の対応は尋常とはいえず、表向きの立法の必要性(越境組織犯罪防止条約の批准)に必要な前提となる国内法整備とは別の思惑がるのではないかと判断せざるをえない。誤解を恐れずに言えば、共謀罪への強いこだわりは、安倍政権がしきりに口にするようになったテロ対策ですらないと思う。それよりももっと根源的なところでの制度の転換が意図されているのではないか。それは一言で言えば、自民党が目論む改憲(二〇一二年「改憲草案」)を先取りした刑事法制全体の転換を意図したものではないかということである。自民党改憲草案(注2)では、憲法二一条の表現の自由条項「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する」に新たに次のような第二項を追加している。

「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」

現行憲法二一条を前提にすれば、犯罪組織(この意味は後述するが法案では「組織的犯罪集団」とされるようだが定義は不明)や「公序良俗」に反する組織であっても、集会、結社、言論、出版など「一切の表現の自由」が保障される。この条項と一三条の生命・自由・幸福追求の権利における「公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政上で、最大の尊重を必要とする」という条項を合せて考慮したとき、現行憲法では、犯罪組織の場合であっても幸福追求等の権利はあり、「公共の福祉」に反する場合は、「最大限の尊重」は必要とはされないが、場合によっては立法その他の国政上でのある種の「尊重」の対象になる場合もあるということである。改憲草案の場合は、そもそも「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動」を目的とする結社は憲法上も存在を許されない。(注3)言い換えれば、改憲草案では「公益及び公の秩序」に反する結社を憲法によって禁じることになるので、下位の法律によってどのような組織が違憲なのかを具体的に定める必要がでてくる。共謀罪はこの結社禁止の重要な布石となりうる。

上で「犯罪組織」と述べたが、戦後憲法と刑法の枠組には、不敬罪や治安維持法などといった政治犯罪の条項がないから、政治犯であっても一般の刑法の犯罪が適用されて一般刑事犯として摘発される。しかし捜査機関側は、一般刑事事件と反政府運動に対する捜査を組織としては明確に区別し、後者をもっぱら対象とする警備公安警察を置き、既遂の犯罪を原則とする刑事警察とは異なって恒常的な監視と予防的な拘束を行なうし、起訴前の逮捕・取調べの処遇も、接見や釈放の条件では一般刑事犯とは著しい不利益差別がある。もちろん政治犯は正義の確信犯であると特権化して、一般刑事犯の人権をないがしろにすることはあってはならない。むしろ反政府運動にとっても、あるいは一般的に市民運動にあっても、一般刑事事件の犯罪や被疑者・犯人とされた人達の人権とどのように向き合うかは重要な課題である。上で言及した「犯罪組織」には、やくざの組織も反政府運動の組織もテロリスト集団も、あるいは路上で微罪を犯す非行や不良青少年グループ(かつて愚連隊という言い方もあった)なども、その集団の形態や趣旨を問わず刑法で犯罪と規定される行為に多かれ少なかれ関与すると警察などが判断するであろう組織全般が念頭に置かれている。

反政府運動は、その規模や目的の大小はあるにしても、現在の支配的な制度への異議申し立て運動である。これを権力者たちの側からみれば、法によって保護されるべき「公益」や「公の秩序」として解釈される既得権益(例えば、米軍基地の建設や大規模開発などから個々の企業による労働者の搾取の制度まで)を覆す行為や組織であって、それ自体を犯罪化し権力による人権の強制的な制限(侵害)を行なうことは、公序良俗であれ公益や公の秩序であれ、その言い回しは様々だが、正当だとみなされることになる。これは政治活動の犯罪化だが、現行憲法では、たとえ捜査機関や政府が「犯罪組織」のレッテルを貼ったとしても、憲法上の結社の自由によってその存在そのものは保障され(注4)、その自由追求の権利は最大限の尊重はされないとしても否定はされない。また、政治的な目的意識性をもたない刑事犯罪目的の組織や集団であるからといって、国家はその構成員に対して人権の剥奪を恣意的に行使することが許されるわけではない。

犯罪者にも人間としての権利があり、この権利を敢えて強制的に剥奪することを定めたのが刑法であるということは、刑法に関わる立法問題を論じる場合の大前提になる。しかも、人間のどのような行為を犯罪として刑罰の対象にしなければならないのかを人類史全体を通じて普遍的なものとして定義することはできない。時代によっても文化や価値観、世界観によってもその定義は異なる。また、この犯罪と刑罰の規定を国家が独占しなければならない理由についても普遍妥当なものだというわけではない。この意味で犯罪と刑罰の普遍的な定義はない。このことは、どのような社会歴史認識を持つのか、どのように既存の犯罪と刑罰の制度を評価しているのかという、私たちが暮す社会への私たち自身の評価と切り離すことのできない問題である。

現にある社会が抑圧的であって、憲法が宣言している自由や平等の権利にすら違反していると考えて、権利を獲得するために現にある制度を打破することが不可欠だと考え、行動を起すことを考えてみよう。行動の内容は、言論である場合もあれば、路上で意思表示する場合もあれば、既存の政治的な意思決定の仕組みを利用する(選挙や議会の立法機能)場合もあるだろう。表現は多様であって、「自由」なものとして実践される権利がある。言論・表現・結社の自由をほぼ無条件に保障する現行憲法は、政治的な行動や表現をもっぱら議会制民主主義の狭い枠に収めるべきではなく(そうならば選挙権と被選挙権の権利さえあればいいということになる)、議会に収斂しない思想と行動の自由こそが必須だという立場をとっている。このことは憲法それ自身を否定する行動や言論をも保障する。社会の変化は、既存の制度を前提とする改良である場合もあれば、根底から統治機構を再構築する革命となる場合もあるし、その地理的範囲も、既存の国家の領域に限定される場合もあれば、分離独立となる場合もあれば、複数の国家の領域にまたがる場合もある。憲法が抽象的に(あるいは理念として)保障しているこうした革命の権利は、抽象的な権利でしかなく、具体的には、既存の社会秩序や政治体制の安定を優先させるために、下位の法律によって犯罪化されるが、そうであっても常に、自由の権利の限界をめぐって争いがありうるし、争うことなしには自由の権利も獲得できないという、積極的な意味で自己矛盾をはらんでいるのが基本的人権を保障する法の枠組だ。だから、自由の権利に関わる場合は、特にどのような行為が犯罪化されるのかという範囲をあらかじめ決めることはできず、政治と司法をまきこむ合意と妥協と原則をめぐる行為の解釈=政治学の世界に関わる。(注5)

つまり、共謀罪がもたらすであろう効果が、自民党が構想する改憲後のこの国の憲法体制を踏まえたとき、越境組織犯罪防止条約やテロ対策などの範囲を大きく越えるだろうということは疑問の余地がないということだ。共謀罪反対運動が持たなければならない反対の射程は、改憲後の事態をどのくらい考慮に入れているのか、私には鮮明には見えてこない。日弁連の反対声明でもこの点には言及がない。安倍は共謀罪なしではオリンピックは開催できないと繰り返しているが、本音は共謀罪なしの改憲はありえない、ということではないだろうか。共謀罪も改憲草案もその起草の主体は同じ自民党であるから、この両方を睨んで、共謀罪を解釈することは、私たちの自由の権利、とりわけ反政府運動にとっての抵抗権の非犯罪化にとっては不可欠な観点だ。


(注1)法案は、二〇〇三年第一五六回通常国会で最初に審議入りし、その後二〇〇五年の第一六三回特別国会に再上程されるが継続審議の扱い、第一五九、一六四国会においても廃案、第一六五回臨時国会、第一七〇回臨時国会でも継続審議扱いとなる。二〇〇九年七月、衆議院解散で審議未了廃案。

(注2)https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/news/policy/130250_1.pdf

(注3)この改憲草案の二一条は、現行憲法一三条で生命、自由、幸福追及の権利について「公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政上で、最大の尊重を必要とする」とあったのを「公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政上で、最大限に尊重されなければならない」と平仄を合わせる形になっている。

(注4)例外として破壊活動防止法があり、その違憲性が議論の対象になってきた)

(注5)この国ではデモする場合に事前の届出が必要であり、車道の全車線を自由に利用する権利はほぼ認められないが、韓国ではソウル都心部の路上を全面占拠しての反政府運動があたりまえのようにして行なわれる。同じような光景は香港でも台湾でもみられるし、むしろ日本のような不自由は例外的に抑圧的だ。