刑法をめぐる二つの危機(既遂処罰原則の危機と犯罪概念の危機)──日弁連の共謀罪反対意見書へのコメント

日弁連が、2017年2月17日付で「いわゆる共謀罪を創設する法案を国会に上程することに反対する意見書」を公表した。

共謀罪についての政府側の最近の主張を踏まえた批判となっており、その内容の大筋については異論はない。内容もわかりやすく、法律の専門家ではない人たちにも理解できる内容になっていると思う。この日弁連の批判を踏まえた上で、日弁連の意見書では言及されていない論点について言及してみたい。

日弁連意見書は、批判の論点を「共謀罪法案は,現行刑法の体系を根底から変容させるものとなること 」「共謀罪法案においても,犯罪を共同して実行しようとする意思を処罰の対象とする基本的性格は変わらないと見るべきこと 」「罪名を「テロ等準備罪」と改めても,監視社会を招くおそれがあること 」に分けて展開している。これらの批判の論点に異論はなく、説得力のある批判だと思う。

現行刑法体系の原則とは以下のことだと説明されている。

「現行刑法は、犯罪行為の結果発生に至った「既遂」の処罰を原則としつつ、例外的に、犯罪の実行行為には着手されたが結果発生に至らなかった「未遂」について処罰する(刑法第44条)という体系から構成されている。」

既遂処罰の原則を共謀罪は大きく突き崩す危険性をもっている。法律の専門家の議論を別にして、政府であれマスコミであれ、あるいは地域社会であれ、「安心安全」や「予防」といった観点から犯罪だけでなく自然災害、病気、過失事故など様々な社会や個人が遭遇するかもしれない不利益や障害を未然に防止する対策を政府などが取ることを当然とする雰囲気がある。地震を予知することや病気の感染を予防することと犯罪を未然に防止することとを同じ平面で捉えることを当然とする思い込みが立法府の議員たちにもメディアにも存在するように思う。だから、交通事故を防ぐために警察が交通安全の啓発活動を行なうことや、流行しそうな伝染病を予防するためにワクチンを摂取する対策をとることと、犯罪が実際に実行される前に取り締まることとの間には、いずれの場合も、未然に被害を防止するという点では共通しているように見えてしまう。犯罪については、犯罪被害者を救済する最適な対策は、そもそもの犯罪を未然に防ぐことだという主張は、決して軽視してはならないそれなりの「説得力」のある主張だと考えないといけないだろう。この一見説得力のあるかに見える議論が欠落させているのは、「犯罪」という概念が社会的に規定されたものだという点だ。江戸時代であれ現代であれ地震は地震であるが、犯罪とされる行為は、法の定義によって与えられるものであって、時代や社会を超えて同じようには現象しない。犯罪を自然災害と同列に扱おうとするのは権力者の詐術であるということを認識することが何よりも大切なことだ。

犯罪をあたかも自然災害同様に未然に防止すべきとする一般的な犯罪についての理解が、共謀罪を容認しかねない世論の背景にあるから、最近の世論調査でも、共謀罪への危惧や批判は必ずしも大きいとはいえない数字になっているのではないか。調査によっては圧倒的に賛成が大きいというデータもある(時事:2017/02/17:賛成66.8%、反対15.6%、日テレ:賛成 33.9 %、反対 37.0 % 、朝日:賛成44%反対」25% など)こうしたデータは、振れ幅が大きいが(質問の方法でかなり回答が左右されることを示唆している)、日弁連に是非考えて欲しいのは、既遂処罰が原則だという刑法体系を共謀罪賛成と回答した人たちは果してきちんと認識していたのだろうか、あるいは反対という人たちもまた、既遂処罰の原則を念頭に反対したのだろうか、という点である。上に述べたように、むしろ既遂処罰の原則は、社会感覚としてもかなり揺らいでいるのではないか。この揺らぎは自然の成行きではなくて、政府が「安心安全」(警察は「安全安心」とも言うが)を繰返し政策の課題にして口に出すようになってきたことの効果ではないだろうか。とすれば、日弁連は、意見書の前提となる既遂処罰という基本的な刑法の原則を再度積極的に主張することが必要ではないかと思う。被害者が出るまで何もしないのか?という批判にきちんと反論できなければ、テロを未然に防ぐべきではないか?という主張にも反論できないだろう。このことはそもそも刑法とは何であり、処罰とは何を意味するのかを再度きちんと主張しておくことが必要だということである。

意見書は既遂処罰の原則を前提として共謀罪批判を展開している(これに私は賛成だ)ので、以下のような主張は重要だと思う。

「『未遂』の前段階である『予備』(犯罪の実行行為には至らない準備行為のこと)、さらにその前段階である「陰謀」(2人以上の者が犯罪の実行を合意すること)が処罰の対象とされる場合もあるが、れら『予備』や『陰謀』は各罪の中でごく例外的に処罰対象とされているにとどまる。この点は,現行刑法典だけでも、『既遂』が200余り規定されているのに対して、『未遂』は60余り、『予備』は10余り、『陰謀』はわずか数罪にとどまることからも明らかである」

共謀罪法案では、長期4年以上の刑が定められた犯罪が対象となるから、「未遂」「予備」にもならない段階で犯罪が一律成立してしまうことになり、既遂処罰の原則が根底から覆り、既遂処罰は刑法のなかの例外になってしまう。

日弁連が指摘していない論点がここにあるように思う。それは、そもそも「既遂」とは何か、という問題だ。犯罪が実行されたことをもって「既遂」というわけだから、未遂や準備、予備を独立の犯罪類型として認める場合、言葉のニュアンスとは別にそれ自体が犯罪だから未遂、準備、予備などと言われながらそれ自体が独立した犯罪となる。奇妙なことに、未遂といいながらそれ自体が犯罪であるという意味では既遂となり、既遂処罰の原則に符号するということになりはしないか。同じ理屈で、意見書で「犯罪行為の結果発生に至った『既遂』の処罰を原則」と述べているが、共謀罪が成立すると共謀=犯罪行為とされるわけだから、共謀の成立をもって既遂とされ処罰の対象となるということになる。こうなると共謀罪を前提とした刑法でも、既遂処罰の原則を維持しているという屁理屈が成り立ち、共謀罪ですら罪刑法定主義を逸脱していない、刑法の原則は堅持されていると言いくるめられかねない。既遂処罰の原則はもはや意味をなさない空文となる。日弁連の意見書が主張しなければならなかったことは、そもそもの「犯罪行為」とは何なのか、という点を明示的に示すことにあったのではないだろうか。実はこの犯罪とは何なのかが世間が抱く常識のなかで、道徳違反の行為や意識と区別がつかなくなってきているように思う。

こうした状況をみると、戦前、大正デモクラシーの時期に高揚した社会運動や反政府運動に手を焼いた政府が、その後、過激社会運動取締法案を出したり、思想犯保護観察法や治安維持法を成立させるなど治安立法攻勢を繰り返すなかで主張されたのが、刑法を「淳風美俗」や「美風良習」として捉える観点であったが、これが戦後完全に払拭されずに公序良俗論として延命した経緯を軽視すべきではないのではないかと思うのだ。司法や法学における戦前、戦中、戦後の連続性問題は別途検討すべき重大課題だろう。犯罪に対する大衆の社会感覚に、政府や司法が繰返し主張する「犯罪」や刑罰についての戦前から継承されてきた権力的な理解が影響を及ぼしてきていることの表れともいえる。戦前の感覚でいえば、共産主義やアナキズムはそれ自体が「犯罪」であった。こうした犯罪感覚は、大衆意識に支えられて容易に受容されたことを踏まえれば、どのような事柄を「犯罪」とみなすのかは、権力の意向に思いのほか左右されうるのであって(現在では、「テロ」なる曖昧模糊とした事柄がその格好の標的になっている)、自然災害などのように明確で客観的な範囲を確定できるものではないのだ。だからこそ、野放図に犯罪の定義が拡張されて道徳や思想信条の領域と区別がつかないことになりがちなのだ。刑法も司法もこのなしくずしに歯止めをかけられていない。

既遂処罰の原則が揺るぎをみせているという点は、日弁連の意見書にも反映している。意見書では「『予備』や『陰謀』は各罪の中でごく例外的に処罰対象とされているにとどまる。この点は、現行刑法典だけでも、『既遂』が200余り規定されているのに対して、『未遂』は60余り、『予備』は10余り,『陰謀』はわずか数罪にとどまる」と指摘する一方で、越境組織犯罪防止条約に関連して「我が国においては,主要な暴力犯罪について,『未遂』以前の『予備』、『陰謀』、『準備』段階の行為を処罰の対象とする規定が相当程度存在している。 」とも指摘しており、既遂処罰の原則が現行刑法でもかなり揺らいでいることを示唆している。問題は、予備、陰謀、準備など既存の刑法の規定を肯定する前提にたって越境組織犯罪防止条約の批准は可能だという論理を組み立ててしまうと既遂処罰原則と整合しない。むしろ既遂原則を徹底させるべきだという観点に立つとすれば、既存の刑法にある予備、陰謀、準備などの犯罪化あるいは処罰を見直すべきだという主張になるのではないか。しかし、そうなると越境組織犯罪防止条約は批准できないかもしれず、批准を肯定する日弁連の立場と矛盾する。問題はそもそも越境組織犯罪防止条約が必要なのかどうかというところに立ち戻らざるをえないのではないかと私は考える。(私は以前書いたように、条約が目的とする実際の効果が全くないなかで法執行機関のグローバル化を助長するだけの条約には反対だ)

こうしてみると、そもそも現行刑法が既遂処罰の原則を徐々に逸脱しはじめており、なしくずし的にこの原則を形骸化していることをも視野に入れ、こうした方向を下支えする世論や政府(執行機関)の犯罪と処罰への誤った理解を是正することに日弁連はもっと力を傾注する必要があるのではないだろうかと思う。

かつて、1970年代前半に刑法全面改正を法制審が提案して大問題になり頓挫したことがある。当時、日弁連は『自由と人権を守るために:刑法改正読本』(日本評論社、1975年)の冒頭で次のように述べていた。

「もともと、国家が国民を統治支配するさまざまな手段のなかでも、刑法は、最も強制力の強い最後の手段であり、刑法はそのあり方を定める基本法です。したがって、刑法が何をどのように処罰するのかは、国民の生活と権利に密着する大きな問題であり、その国の政治形態や民主主義のあり方に深く結びついているのです。」

この当たり前の観点を今再確認しておく必要がある。とりわけ「強制力の強い最後の手段」という位置づけは今ではほとんど忘れられているのではないか。刑法ほど「国民」(わたしは、刑法の問題でこの概念を用いるのは間違っていると思うが)に対して強い力をもつものはない。そしてその実際の力を握るのが警察であるということをも念頭に置く必要があるだろう。この点を踏まえると、意見書は、法案の条文解釈や政府の答弁についての解釈を超えて、司法や警察が法を恣意的に解釈して運用している実態に踏み込んだ批判にまで至っていないように思う。上に述べた既遂処罰原則が揺らぐように警察が「安全安心」を先取りする捜査や取り締まりを実施できること自体を問題として、警察権力を規制する具体的な立法や法改正をも同時に提言する必要がある。沖縄平和運動センター山城博治議長を4ヶ月以上も拘留するようなことが実際に可能になっており、これを警察だけでなく裁判所も最高裁すら容認したことは、警察の捜査、逮捕拘留の異常な手法に最高裁がお墨付きを与えたことになり、これは全国に拡がる危険性が高い。こうした現状を踏まえると、共謀罪が成立した以降に起きるであろう事態はより深刻であって、問題は共謀罪だけではなく、既遂処罰の原則と刑法の基本的な意義を逸脱しないように警察権力を抑制する法律の制定をも視野に入れなければ、恣意的な法の運用による民衆的自由への抑圧はますます強まってしまう。

冒頭に述べた通り、日弁連の意見書が共謀罪の上程を目前にしたこの時期に出たことの意義は非常に大きいと思うし、世論や国会での審議にも少からぬ影響力をもつことを期待したい。この期待を踏まえてなお、敢えて何点か私見を述べてみた。法律の専門家からすると雑駁で的はずれの議論や批判かもしれない。ご意見などあればお寄せいただきたい。