絵に描いた餅としての「憲法」と茶番劇の「議会制民主主義」が共謀罪を産み落す(4・終)

絵に描いた餅としての「憲法」と茶番劇の「議会制民主主義」が共謀罪を産み落す(1)
1.今国会への共謀罪上程に際しての政府・自民党のスタンス
2.戦後体制はそもそも絵に描いた餅だったのかもしれない
絵に描いた餅としての「憲法」と茶番劇の「議会制民主主義」が共謀罪を産み落す(2)
3.共謀罪容疑での捜査に歯止めをかけることはできない
4.越境組織犯罪防止条約は批准する必要がない
絵に描いた餅としての「憲法」と茶番劇の「議会制民主主義」が共謀罪を産み落す(3)
5.共謀罪を支える操作された「不安」感情
6.テロリズムのレトリック
7.オリンピックと共謀罪(以上前回まで)


8.国会の審議は、法とその執行とは本質的に異なる次元の事柄だ

今回テロ対策を前面に据えていることから、共謀罪のターゲットが刑事犯罪一般を包摂しつつ、政治的な行為への取り締まりに重点を置くように、その対象が質的に拡大されたといえる。このことを踏まえて私が危惧するのは、これまでの警備公安警察の対応からもはっきりしていることだが、警察による恣意的な法解釈に対して、国会の議論は全く歯止めにはならないということだ。(だから審議をすることは無駄だと言いたいわけではない)議院内閣制をとり、憲法裁判所がなく、三権分立というよりも三権分業体制で国家意思に民衆を統合するような制度構造上の欠陥にその原因があるが、これは戦前も戦後も変るところはない。自らもその一翼を担う「国家」こそが権力の主体であり、民衆は権力の「客体」あるいは権力に従属すべき存在であるという意識を再生産するような構造が基本にあると言わざるをえない。戦後憲法の主権在民が現実の権力機構のなかで具体化されているとはいえないのだ。私たちはこの意味で、深い絶望をかかえながら国会の審議を注視しながら廃案を主張しつづけなければならない。

立法府の議論が、法の理念や条文がもつ普遍的な真理に関わるものであるかのように教科書は教えるが、このような議論は国会ではほとんど意味をなさない。学者や弁護士などの見解が公聴会などで聴取されることがあっても、それが国会の議論の実質を左右することはない。形式的な手続き以上のものではないが、やらないよりはマシだし、法案を廃案に追い込むための戦術として利用できるという意味はあるが、そこで議論された内容が法案審議を左右することはまずない。カール・シュミットが『現代議会主義の精神史的状況』で指摘していたように、議会は理念とは関わりのない政治的な打算と妥協のための取引きの場にしかならない。やっかいなのは、こうした議会のありかたが議会制民主主義の本質であるにもかかわらず、これを形骸化された姿だとして「真の」議会制 民主主義がありうるハズだという期待を政権に批判的な左派が抱いてしまうところにある。打算と妥協の議会政治は近代国民国家の構造的な欠陥であるから、どこの国でも、議会政治は腐敗の温床となり、既存の権力への異議申し立ては、議会政治に収斂せずに、大衆運動として議会外に登場する。言い換えれば、議会政治の外でしか、政治や統治における理念や理想の言説や行動は存在しえないと言ってもいい。多くの有権者は、国会はある種の茶番だとも感じているのではないか。投票率は下がり、センセーショナルな「劇場型」と呼ばれる無意味な熱狂を煽る政治家たちが人気をとる一方で、シリアスな政治への無関心が拡がる。政治に無関心な若者たちが暗に批判されたりするが、これは的はずれで、むしろ彼らの関心を逸らすような国会の茶番に加担しないような国会との関わりを反政府運動の側も工夫することが迫られているとはいえないだろうか。この茶番を通じて執行権力の正統性を支える法が成立し、人びとの権利は、この茶番を通じて抑圧されるという厳然たる事実は揺がない。

権力の恣意的な法解釈と適用の問題は、三権分立ならぬ三権分業の権力構造以外にも、もっとやっかいな問題がその背後にはある。そもそもの法律が抽象的な文章で成り立っているのに対して、法律が適用される対象は個別具体的な事柄だから、この両者の間に解釈の主体を立てなければ、法律は実効性をもたない。法律学の課題の中心にこの解釈という問題があるが、これは法律の問題というよりも、コミュニケーション一般が抱え込んでいる平等を阻害する問題にその根源がある。

やや迂遠な話をしたい。どのようなスポーツにもルールがある。スポーツの試合で、選手の行動を見て、その行動がルールブックにある違反にあたるかどうかを審判が判断するが、審判がやっていることは、実際のプレイヤーの行為を注視しながら、彼/彼女が解釈する抽象的一般的に記載されたルールを参照しつつ違反かどうかを判断する。一方に言葉によって説明される抽象的な世界があり、他方に言葉ではない具体的な行動の世界があり、この両者はどこまでいっても交わることのない二つの世界だ。解釈する者たちは、行為者と法の間に立つのである。プレイヤーもルールを「理解」しているが、違反の有無を決定する権限は持たない。ルール解釈の主体は審判であり、ルールを制定した者ではない。ルールに書かれた言葉の解釈は一つではないし、プレイヤーの行動の判断も一つではない。この言葉と現実の間の解釈をめぐる関係は、一般的にいえば無限に複雑で安定しない。しかし、安定させる(固定化させる)条件が、解釈の強制ともいえる力の存在、つまり唯一のルールと行為の関係についての判断を担う審判の存在である。ここでいう力は暴力の意味ではなく、人びとがその解釈を当然のこととして受け入れる解釈者=審判の権威である。プレイヤー相互の関係は平等である。しかし、ここに審判という存在を介入させると、当事者相互の関係は平等にはならず、ルールを現実の行為に適用する特権的な存在が登場する。ルールの策定者は、この全体のゲームをメタレベルで規定する存在でもある。ルールそのものを変更することができるのはルールの策定者である。既存のルールに納得できないとしてもプレイヤーにも審判にもルールを勝手に変更する権限はない。ルール変更の問題は、誰にルール策定の主導権があるか、という別のレベルの政治的な力の問題である。権力全体の構造でいえば、ルール策定の主導権をとるとともに、審判としてルールを解釈し適用する実際の力をも合わせて持つことによって、ゲーム全体を支配する力を獲得できるということになる。これが独裁と呼ばれる構造である。ルールが上記のような仕掛けを必ずもつということではない。多分近代スポーツのゲームのルールの構造は、近代の統治機構のルールの構造をどこかで模倣しているところがあるのかもしれない。いずれにせよ、この構造においては、その関係者相互の間には平等は存在しえない。

上の例を社会に置きかえると、ルールを策定するのは国会であり、プレイヤーは人びと(「国民」とは限らない)であり、審判は行政や警察などの法執行機関ということになる。このように考えればわかるように、国会の機能は、法律を適用する主体であり解釈者でもある執行者を規制できない。スポーツのルールと決定的に異なるのは、国家が 民主主義を標榜する場合、主権者は、立法者でもあると同時に、法律が適用される対象となる「国民」でもあるという仕掛けを通じて、あたかもルールの策定者と適用される対象が同一の社会集団であるかのような装いをとることで、ルールの正統性(自分たちで決めたルールだからルールを守るのは当然の義務である)を維持しようとする点にある。しかし、法律解釈という避けられないこの過程は、この装いに反して、解釈による支配という関係を挿入することになる。ここに「法による支配」の限界と抜け穴がある。圧倒な力をもって全てに優越するのが、執行機関ということになる。ある行為に対して「恐喝」という名前で呼ぶかどうかは、恐喝という言葉をどのように解釈し、これを当該の行為と結びつける妥当性を判断する解釈の当事者が担うことであって、立法者の立法意思に従属しない。他方で立法者は「恐喝」を法律に書きこむことによって言葉のレベルで違法性の定義を与えることができる。このことがあって初めて、法執行機関は、この法律に書き込まれた言葉を現実の行為に適用し解釈することが可能になる。

こうして、人びとが執行機関としての国家の権威を受け入れることを大前提として、法律の解釈をこの権威の担い手に委ねることによって、自らの主体的な解釈を放棄する。しかし、国家の権威が揺らぐとき、この強制的な法律解釈も揺らぎ、無限のカオスともいえる解釈の混沌が露呈する。これは法律の正統性の危機を意味する。反政府運動が、法案に反対するとき、その反対の言説や解釈が多くの人びとに受容されるということは、国家の法律解釈の権威が揺らぐということの具体的な表れである。権力は法律解釈の権威を維持するために、対立する解釈を排除しようとするか、人びとに解釈の妥当性を説得しなければならなくなる。この一連の解釈をめぐる対立は、民主主義という手続きを通じてある種の停戦協定を結ぶことになる。対立は宙吊りにされるが、国家の権威はその限りで維持され、民主主義はこの国家の権威の一端を担うことにもなる。しかし、これは本質的に法律が内包する欺瞞から人びとを解放することとは別の問題である。

実はもうひとつ別の意味での国家の権威の揺らぎもある。反政府運動の抵抗を前にして、あるいは、政治的な運動とは呼べないにしても、社会のなかのマージナルな集団が社会的に大きな力をもって政府の権威を拒否するとき、デュルケームが言うような「アノミー」の状態にあるとき、しかもそれらが深刻な状況にないにもかかわらず他方で戦争のような国民統合の必要があるとき、政府自らが国家の危機を演出することがある。国家の権威の揺らぎを偽装するわけだ。そのときに用いられる言説が、民族や文化的な価値といった擬制であるが、この危機の言説を梃子にして、仮想の「敵」を構築して、この「敵」をターゲットとして新たな法規範を構築しようとする。

9.冤罪、転向の強要、法の道徳化...

さて、このややこしい行為対象と言語で構成された法律と、これらを「解釈」する法執行の主体の関係が共謀罪の場合どのような問題を抱えこむだろうか。この法律と現実の間にある「解釈」という問題が、共謀罪のような具体的な実行行為ではないコミュニケーションに適用されるとどうなるのあろうか。コミュニケーションという「行為対象」は言葉で構成されているから、この言葉は物的な証拠によって確定されるのではなくて、言葉の解釈に依存する。物的証拠の解釈と言語の解釈は同じではない。自白は言葉による過去に行なわれたとされる行為についての告白だが、自白の信憑性を裏付けるためには物的な証拠が必須となるのは、言葉が真実の表明であるという必然性がないからだ。しかし共謀罪の場合、いかなる意味においても物証はない。あるのはコミュニケーションだけである。捜査機関によって共謀と解釈されるコミュニケーションがある種の「自白」に準ずることであるとしても、未だ実行行為には至らない以上、その「自白」の信憑性を証明する客観的な事実は存在しない。こうして共謀罪は、「言ったこと」は「やったこと」と同じこととみなすという前提をとることになる。「言った」以上は「やっていない」としても、共謀罪として立件できるというのは、このことを意味している。自白の偏重どころか自白のみで、その信憑性の証明も実行行為の有無も抜きにして犯罪として処罰できる。こうした共謀罪の本質が、既遂や未遂のこれまでの取調べや裁判の判断に逆作用する危険性があり、ますます自白偏重、疑わしきは被告人の不利益へと転換してしまうきっかけを与えてしまう。

以下、これまで述べてこなかった共謀罪をめぐる重要な論点を二つだけ取りあげる。

一つは、共謀罪における冤罪の問題である。共謀罪は、冤罪事件にも甚大な影響を及ぼすことになるだろう。そもそも共謀罪で有罪とされた場合、これを冤罪として再審に付すにはどうしたらいいのだろうか?相談も会合にも参加していないのに誤って検挙、起訴、有罪となった場合であればいざしらず、相談に参加し、議論のなかでは行動に賛成の意見を述べたが、考えを変えて、組織の方針を決定する無記名投票では反対票を投じ、その後も組織のメンバーではあり続けたが行動には参加しなかったような場合はどうだろうか。共謀罪は、会合での発言を証拠として、会議に参加したというだけで立件できてしまう。しかし、会議で行動に賛成しながら反対の投票をしたという主張を裏づける物証はない。検挙された本人は取調べで、「自分は反対に投票した」と主張した場合、捜査当局は、一方で会議での本人の発言のみを共謀罪容疑の証拠としてとりあげ、「行動には反対の票を投じた」という本人の取調べでの供述は退けるという恣意的な対応をとることになる。あるいは、会議での様々な意見にもかかわらず、最終的な議決によって採択された行動を理由に、会議に出席していた参加者全員を共謀罪で立件するということも可能かもしれない。こうしたケースは、決して例外とはいえないだろう。討議の過程で参加者の意見が変化するのはごく普通にあることであって、それこそが平場の民主主義だ。討議の結果としてなされた決定に全ての参加者が同意しているとはいえないのが民主主義的な組織の通常のありかただろう。コミュニケーションの内容の何をどのように解釈するのかを物証のない段階で確定することは恣意的にならざるを得ないのだ。参加することを犯罪とするのではなく共謀を犯罪とするとしながら、実際にはコミュニケーションの内容がどうであれ、会合に参加したこと自体を、あるいはある団体や集団に属していること自体を処罰の対象とすることになるのではないだろうか。

二つ目は、反政府運動など、確信犯としての政治犯の場合の刑罰とは何か、という問題である。戦後憲法の建前からすれば政治犯罪はありえない。統計上も日本には政治犯は存在しないことになる。すべての犯罪は一般刑事犯罪であるとされる。しかし実際には、政治的な権利行使を弾圧する手段として、その容疑者を一般刑事犯に偽装して処罰するというのが現状だ。一般に、刑罰は、見せしめを目的とする応報刑の観点であれ、社会への再統合を目的とする教育刑の立場をとる場合であれ、「犯罪」行為の阻止の手段とされる。この場合、刑罰の対象は、違法な行為の実行が主として問題とされるから、内面はどうあれ、実行行為を抑止する効果が期待される。では、思想信条の自由が憲法で明記されるなかで、政治的行為が犯罪として処罰されるという場合、どのように考えられるのだろうか。政治犯も一般刑事犯と同じように刑罰を課されるが、その目的もまた一般刑事犯と同様に、行為の動機や動機をもたらすことになった思想信条が「犯罪」の根拠であるとして、こうした思想信条の除去が図られることになりはしないだろうか。共謀罪は、実行行為が不在であり、存在するのはコミュニケーションだけだから、とりわけ対象になるのはコミュニケーションの内容になる。こうなると、思想信条自体が共謀罪という犯罪を生み出す原因になるとして、思想信条の放棄、つまり、転向を強要することになりはしないだろうか。

これは、法が道徳をまとって、道徳を強制する手段になるという問題だと言ってもいい。犯罪と呼ばれる行為を一般的に定義するとすれば法律に罪として明記された行為のこと、とでも言う以外にない。しかし、他方で、ある種の通念として、犯罪は道徳や社会的な慣習などに著しく反する行為を意味するようにも思われている。たとえば人を殺すことは道徳的に認められない行為なので、こうした反道徳的な行為を法律で犯罪として明記して処罰の対象にしているのだ、と理解されがちだ。一般に、道徳に反する行為を法律で処罰の対象とすることに多くの人びとは抵抗感を持たないからだ。

しかし他方で、道徳的には「悪」とされる場合であっても法が積極的に合法だと認める場合がある。刑法第三十五条 には「法令又は正当な業務による行為は、罰しない。」とある。だから第百九十九条で「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。」とあっても、「 法令又は正当な業務による」殺人は罰せられないことになる。業務による殺人とは、死刑執行がその典型だ。警察官が拳銃を所持しているのも業務上の殺人の可能性を認めているからだろう。日本では今後議論されるだろうが、一般に軍隊の殺人が犯罪にならないのもこうした規定がどこの国にもあるからだ。道徳的にいえばいかなる殺人も例外なく「悪」とすべきだろうが、法はこうした意味での道徳とは一致しない。

したがって、何が犯罪かは、普遍的な「罪」(キリスト教でいう原罪のような観念)の定義から導くことはできない。法律で犯罪として掲げられるから犯罪になるのであり、法律に先立って犯罪行為があるわけではない。犯罪に対する刑罰は、理由の是非は別にして、社会が定めたルールに違反しないことを約束させるための懲罰あるいは「教育」や「訓練」、つまり社会への再統合のための措置である。「なぜ、それが違法なのか」という問いは意味をなさない。有無をいわせずルールを守ることを強いることになる。

このように、法律は死刑や戦争での人殺しのように道徳に反して人殺しをすることを合法とするという意味でいえば、道徳よりも国益に加担するものともいえる。刑罰が犯罪者を社会復帰させて、社会の秩序に統合することを意図するものだという面でいえば、違法行為者への刑罰は、行為に至った動機や意思に含まれる当該社会が道徳や倫理とみなす価値観に反する個人の内面への処罰を含まざるをえない。犯罪を犯したことを自覚して反省するということは、取調べから裁判の過程で常に被疑者に要求される。改悛の状を示すことが、拘留や量刑を左右する。これは、内面に対する権力のあからさまな干渉であるが、最小限、違法な実行行為を抑制する判断力さえ持てればそれで刑罰の役割は果たしたともいえる。こうしたことを前提にすると、共謀罪が、反体制運動や反政府運動などの政治活動に適用された場合、共謀罪という犯罪を犯した者に権力が要求する更生の内容や刑罰は、そもそも実行行為を処罰するわけではないのだから、思想を抱いたことを反省させ、そうした思想を棄てて転向することを強要することになりはしないか。二度と違法となるような意思や思想や信条を抱くことのないよう要求することになる。民進党のように、構成要件を厳格にすれば共謀罪はあってもいいなどというのは、刑法が違法性と刑罰に込めた社会への適応や更生の前提が思想信条の転向の強要に及ぶことになる共謀罪の本質を理解できていないと言うしかない。共謀罪が内面の自由を抑圧して、支配的な価値観への服従を要求せざるを得ないものである以上、これは廃案とする以外にないのだ。

10.おわりに

この長いエッセイでは、主として反政府運動が共謀罪によって被るであろう権利侵害を念頭に置いて書いてきた。これとは別に、一般刑事犯の問題や文化犯罪学が対象とするような文化的な表現の犯罪化が共謀罪の成立で被る深刻な問題は別途検討してみたいと思う。

やや総括めいたことを最後に書いておく。まず、私たちが自覚しなければならないのは、現在の日本が確実に対テロ戦争の一方の当事者として「戦時体制」のなかにあるということである。共謀罪は、この戦時体制が必然的に要求している法による民衆支配の枠組である。そして、テロを真正面に据えてきたことからもはっきりしているが、反政府運動を主要なターゲットにしているのであって、このことは、広範な市民運動や草の根の地域の運動を公然と監視対象にできることを意味してもいる。共謀の証拠を収集するためには何はともあれ監視の強化が図られることは間違いない。

この戦時体制を覆すことが文字通りの意味での法の支配を最低限実現する上では必須であるが、それは長期的な展望でいえば、近代国民国家が構築してきた権力の構造の限界と矛盾を解決するものではないから、その先を見据えることも必要になるだろう。

近代の民主主義と憲法の理想が掲げられたこの数世紀、あるいは20世紀以降の歴史は、より平和で平等な世界を実現する方向で展開してきただろうか?むしろ逆ではなかったか。共謀罪に体現されている問題の背景には、近代国民国家が建前としてきた法治国家の欺瞞が露出してきたということではないかと思う。日本に即していえば、1945年の断絶は支配者にとっては決定的ではなかったということ、刑法の分野でもそういえるのではないか。とすれば、支配者の本音は、行動の取り締まりではなく、思想信条の段階からの取り締まりを欲しているということになるのえはないか。戦後は、こうした思想信条の取り締まりを一般刑事事件の枠組を転用して遂行してきたが、憲法が弛緩するなかで、徐々に、思想そのものの犯罪化が前面に登場し、わたしたち民衆の自由は、今でこそ風前の灯にあるのに、権力の自由によってますます隅に追いやられるということになるのではないか。

こうしたなかで、いわゆる「民主主義」や「憲法」といった既成の法の枠組は、権力の自由な行使を正当化するような力として存在するようになってきたのではないか。そうだとすれば、民主主義や憲法あるいは法治国家という制度には、権力の独裁を正当化する欺瞞を生み出す根源もあるとはいえないか。もしそうだとすれば、わたしたちは、むしろこうした統治のメカニズムに内在している限界を越えることを意識的に目指すべきではないか。私たちはもっと大胆に、近代の国家や民主主義がもたらした悲劇に目を向け、これを覆すに足る想像/創造力を獲得しなければならないのではないか。とはいえ、この国の歴史は、近代西欧の価値の転覆といった言説を「近代の超克」=日本的な価値の再認識といったファナティックな愛国主義の言説に接合してきた経験をもっている。とりわけ転向したマルクス主義者が抑圧や搾取の理論を欧米帝国主義批判=アジア解放の盟主としての日本といった荒唐無稽な物語に改竄して応用するという歴史を持ってきたことを決して忘れてはならない。こうした転向は戦後も繰返し出現しており、この傾向は今後更に加速化するだろう。

反政府運動が基本的な理念として、「日本」とか国家といったつまらない言説にとらわれない想像/創造力をなぜ持てないのだろうか。人類200万年の歴史のなかで、ほんの数世紀の出来事でしかない近代の国家や法が人類の普遍的な価値を体現できる統治の仕組みだというのは、「神話」である。200万年の歴史の経験はもっと別の可能性を教えてくれるはずだ。この近代の価値の欺瞞に気付いた世界中の民衆が、その是非は別にして、そうではない価値を模索して試行錯誤しているのが現在の状況ではないか。16世紀以降の近代の時代は、戦争と侵略が近代国家と議会制民主主義の理念と表裏一体で登場した時代だということを忘れるべきではない。民主主義も憲法も国境を越えることはなく、国境の外に抑圧を生み出し、しかも憲法も民主主義も茶番と擬制の言説として形骸化の過程を辿ってきた。右翼ナショナリストも宗教的な原理主義もこのような近代の価値観の枠を越えることはできないだろうと思う。世俗的な左翼もまたこの罠に自ら陥いるのであれば墓穴を掘ることになるが、逆に、全くこれまでにない人間の集団性の規範を構想する開かれた可能性を持つことができさえすれば、その存在感を失うことはないだろう。私はまだその可能性は十分あると考えている。(おわり)