もうこれ以上我慢ならない!──理性を越える情念の革命の復権?

ロルドンの新著の邦訳は『私たちの”感情”と”欲望”は、いかに資本主義に偽造されているか』というものだが、「偽造」というよりもむしろ飼い馴らされた感情に耐え切れずに内破するマルチチュードの激情への熱い期待、とでもいった方がいいような内容であり、理性主義的な資本主義批判への徹底した疑義に貫かれた刺激的な本でもある。

ロルドンがとりわけ槍玉にあげるのが、合理的経済人を前提として組み立てられた支配的な経済学だが、それだけではなく、理性的な資本主義批判や善意にヒューマニズムに溢れる「一人でもできる社会を変えるための第一歩」的な身の回り革命ごっこ、あるいはヒッピー風ライフスタイルの革命への辛辣なダメ出しである。

「自由意志や自己決定といった主張を退けて──ことによって、自由主義思想の形而上学的土台を破壊する。他方、自由主義思想の反対者が自由主義に対して自由主義の(主観主義的)文法の枠内で異議を唱え続けているという実態をも自覚しなくてはならない。こうした反対者たちは、無意識のうちに自由主義の根本的前提を共有していて、それは予め敗北のリスクを犯していることを意味するのである」27(断らない限り、数字は邦訳書のページ)

つまり、「個人」という主体を疑いようのない自立した存在として前提する一切の立場に対して、彼は異議を唱える。多分左翼リバタリアンとか個人主義的なアナキストは大嫌いなんだろうと思う。(私はそれほど嫌いではない)だから集団性の復権が彼にとっては重要な課題であり、そう、あの60年代を彷彿とさせるような死語となったともいえる「情念の革命」といった言葉がとてもよく似合うのがこの本の魂の部分だろうと思う。私は、組織や集団性が苦手で、党派や政治集団に対してはシンパシーを感じたことは生れてこのかた一度もないが、しかし社会を転覆するという大事業が何らかの集団性をもった力を前提としなければならないことも十分理解するから、どのような集団性なら自分のような人見知りで人付き合いの苦手な人間でも解放の感情を喚起されうるのだろうかというのは、大きな課題でもある。本書でロルドンはこうした私の個人的な悩み事には一切答えてはくれていないが、しかし、別の意味で、集団性を支える情念とはどのようなことなのかを「理解」する上でかなり刺激的なきっかけは与えてくれたと思う。

ロルドンは、自由主義に反対していると称する者たちがよって立つ土台も、自由主義と共通する個人主義への確信にあるとして批判する。個人が自由主義によって自由になるのか、それとも抑圧されるのかの違いはあっても、主題は個人をめぐる幸福というフィクションの範囲を越えないから、社会を総体として転覆するといった野心を持つこともなく、従って権力の今ある構造にとっては手強い敵になることもない。ピケティのような新自由主義批判のスタンスは彼にとっては全く評価するに値しないものだということになる。(これに異論は全くない)

彼は、率直に、社会を変革するということは大事業であって、それなりの集団的な力の結集が不可欠であって、それなしには資本や国家の体制を覆すことはできないのだ、と主張するのだが、その場合、一方で、感情によって動く諸個人が存在し、他方に非人称的な社会構造が存在するということを強く念頭に置いて、この大事業の主体となる集団性を描こうとする。このことを本書の冒頭で次のように、スピノザを引きながら示唆している。

「スピノザ理論は、通常何よりも主体に固有のものと考えられている感情についての、ラディカルな反主観主義的理論なのである」「すなわち、感情と構造の二律背反を乗り越えるために、感情を保持しつつ主体を葬る(感情の作動する必然的な起点と見なされていた主体を厄介払いする)ということ」18

彼はスピノザの理論を「感情の構造主義」と呼び「感情によって動く個人と非人称的な社会構造」を相互に排他的なものではなく、この二つを一つのものとして把握する方法を、スピノザの、とりわけ『エチカ』の重要な概念のひとつであるコナトゥス(ラテン語で、企て、冒険、骨折り、努力、衝動などの意味をもつ)に求めた。感情は確かに個人の主観=主体に帰属するかのようにみなされるし、そのように実感されるが、こうした感情のよって立つ基盤を探ると、そこには個人の心的な作用には還元できない外部から個人にもたらされる作用があり、この「非人称的な社会構造」があってはじめて諸個人の感情が個々ばらばらな主観や実感ではなくて相互に共感したり共振して伝播するような広がりが持てる。この意味で、個人の感情は、個人の心理に還元することもできないし非人称的な社会構造(非人称の構造に感情があるわけではない)による一方的な規定性(通俗的な唯物論が論じるような、存在が意識を規定する、といった粗雑な規定)をも排して、感情と構造の両者の位相を異にするところに成り立つある種の弁証法をスピノザに託して現代社会に対する転覆的な理論のパラダイムとして提示しようとした。

社会構造は諸個人の総和ではない。だから、取り組むべき課題は、社会構造を破壊し新たな構造として創造するという事態を、諸個人の行為とどのように結びつけるか、にある。人々が行動しなければ何ひとつ社会を変える力は現実のものにはならない。しかし、それは個人の個別の営為ではなしえないことでもあると同時に、個人に体現されている行動を促す感情の高揚が、個人の主観を越えて集団的な感情と行動として共振しつつ社会的な力を体現することなしには何ごとも始まらない。こうした集合的な力は、どのようにして生じるのか。逆に、こうした転覆的な集団的な感情を抑制して、既存の権力再生産の限度内に感情という要素を収束させるコントロールのメカニズムはどのようにして発動するのか。本書の邦訳が”感情”と”欲望”の偽造と表現しているのは、この後者のような現にあるシステムを維持再生産することに加担する感情のありかたを指すものだといえる。

本書は、集団的な行動の重要性を指摘しつつも、かつての前衛党指導のもとでの大衆的な革命運動の称揚といった趣きと共通するところは全くない。なぜならば、党の理念を体現する「綱領」や「宣言」といったテクストが宿命的に負わされている思想や理論を彼は一切信用しないからだ。もっと言えば、そのような理論的な装いを凝らした文章で人々(マルチュードと表現される「大衆」)はみずからの感情を行動に跳躍させるようなことには至らないとの確信がある。体制を転覆させるに足る大衆的な力を支える感情、革命を指向しないではおかないような激情を喚起することは、いったいどのようにしたら可能なのか。彼の問題意識は、この一点をめぐって、人々を駆り立てずにはおかない感情の深部を探る冒険に赴く。だから、本書が具体的な事例として取り上げているのは、1960年代から70年代のフランスの労働者による工場占拠運動といったどちらかといえば、小規模だが既存の社会構造を別のそれに置き換える可能性を秘めた集合的な感情の具体的な運動としての表出に絞られており、国家権力を総体として転覆することが可能なような大規模な大衆運動ではない。ロルドンはスピノザからマルチチュードの概念を継承するが、同様にマルチチュードの概念を自身の理論に取り入れたアントニオ・ネグリとマイケル・ハートと比べると、ロルドンのマルチチュードには、新自由主義の時代のなかで社会変革の主体として登場してきたとネグリらが考える移民労働者や非物質労働者などはほとんど想定されていない。むしろ、ロルドンがイメージする労働者は、古典的な工場労働者であり、彼が例示するケースはことごとく1970年代までのもの、フォーディズムの危機の時代のものであって、新自由主義の時代にこうした労働者の集団的な社会転覆力が大きく削がれてしまったことへの危機感の方が大きいように見える。ロルドンの議論は一定の修正を加えれば移民たちの運動の評価にも用いることが可能な枠組だと思うが、彼がそうしなかった理由は何なのだろうか。本書を通じて私が感じた率直な疑問の一つはここにあった。(移民とマルチチュードの問題には本稿ではこれ以上言及しない)

●剰余価値論を越える搾取論

彼の問題意識のかなりの部分はわたしが「搾取される身体性」という不細工な概念で言おうとしてきたことと重なりあう。(近著『絶望のユートピア』桂書房所収の論文を参照してください)この意味でも、本書から学ぶことは多くあり、また同時に本書への異論もまた多くある。以下、そのいくつかの論点について述べながら、再度、私なりに身体性の搾取という概念で言おうとしてきたことについても述べとみたいと思う。

ロルドンが本書で主張する考え方を支えている理論的な柱は、彼自身が繰返し参照するスピノザの感情論、あるいは感情の構造主義である。彼は『エチカ』第二部定理6 「おのおののものは、その存在の力に応じて、その存在のなかに居続けようとする」に繰り返し言及する。スピノザがいう「存在のなかに居続けようという努力」をロルドンは次のように説明する。

「物質的・生物的存在としてあり続けようとする努力、要するにその生そのものを維持しようとする努力としてのコナトゥスの基本的要件に付け入りながら、諸個人に具体的に影響を及ぼすのは、賃金労動状況とでも呼びうるものをつくりだすこうした構造的諸要素の総体なのである。かくして、市場における交換のなかに入り込み、物質的再生産の基本的与件を満たすためにお金にアクセスするということは、生きて延命しようとする欲望のもっとも基本的な形態としてのコナトゥスのなかに包含されることになる。そして、お金へのアクセスの必要性が賃金という形態の下でしか充足されなくなったとき、つまり市場の流通に入り込む他のすべての手段が取り去られたとき、その必要性があらゆる資本主義的構造の働きとあいまって賃金労動者として雇用されるという欲望をもたらすのである。」77

コナトゥスとは「居続けようとする」力だが、それは資本主義を前提とした「生そのものを維持しようとする努力」を意味し、それは理屈では説明しきれない人間の感情に属することだとみる。スピノザの言い回しを資本主義社会の構造的な前提を置いて定義しなおすとすると、自己の生存を賃労働によって金を稼ぎ生活を維持する以外に生きる手段を持たないという、特殊歴史的な大衆としての労働者が、宿命として負わざるをえない生への欲望の別名である、ということになる。生を維持しようとする努力が資本への従属の感情を構成する一方で、この従属の感情が単なる苦痛ではなく、ある種の快楽をも構成することによって資本への従属を積極的な同調へと変容させ、生を動機づけるものともなる。しかし、だからといって苦痛や抑圧を解消できる構造があるわけではなく、時にはこの苦痛や抑圧に我慢ならない感情の激発をも生み出す。これが闘争へと駆り立てる感情的な基盤をなす。既存の客観的で非人称的な権力のシステム構造が感情や意識を規定するという側面は無視できないが、構造が一義的に人々の感情を一定の方向に向わせ、自動的に人々を従順にさせたり闘争に決起させるといった素朴な存在‐意識の反映論的な構図はないということを彼は繰返し強調もする。

賃労働という存在のなかに居続けようとする努力は、個々の労働者が内面から形成するのではなくて、制度がこうした「努力」という感情を生起するように個々の労働者の感情を構築するからである。感情は主観的なものだが、この主観的な感情を生成する客観的な制度あるいはメカニズムが資本主義においては賃労働関係として構築されるということになる。「存在のなかに居続けようとする努力」は次のようにも言い換えられている。

「死への恐れと生きることへの欲望、賃労働関係の基本的形態が打ち立てられるのは、このある種の欲望と感情の体制にほかならない。そして、この欲望と感情の体制が、資本蓄積の経済的構造に重なり合うことになる。言い換えるなら、資本蓄積の構造はある種の欲望と感情の体制として表現されるのである。資本蓄積体制の構造が変化すると、欲望と感情の「二重」体制が変化するということである、」78

ロルドンは、本書の基本的な構図のなかで死への恐れと生への欲望をコナトゥスの両面として捉えている。これは恐怖による支配か生の快楽かという二者択一ではなく、この二つの情動を支配の構造が両天秤にかけて人々の感情を動員するということだといってもいいだろう。このようなスタンスは、私には、フロイトの欲動の両義性、つまり、死の欲動と生の欲動を想起させる。しかし、ロルドンはフロイトや精神分析にはほとんど言及しない。これもまた先にネグリについて述べたのと同様、ある種の「謎」でもある。感情や心の非合理な側面を重視して問題を立てながら、非合理性の復権に最も大きな貢献を果したフロイトが彼の議論では検討の対象にすらなっていない。だから言うまでもなく、ラカンもガタリも登場しない。この点は、スピノザ主義を徹底させた結果としてそうなったのか、それともスピノザ主義と精神分析の左翼的な理解の決して短くはないし少くもない歴史的な系譜との間には、やっかいな齟齬があるのかもしれない。この点はかなり興味深いし検討する価値のある問題だと思う。(この点も本稿ではこれ以上言及しない)

●集合的な感情の生成

では、個々人の感情として表われながら、社会的な集団としての共通した感情はどのように生成するのか。ロルドンは「習慣」への着目しつつ、共通の経験、共通の情動の意義を強調する。

「物質的存在条件はその大部分が日常的経験のなかに入るのだが、そうすると物質的生活に結びついた情動の社会集団ごとの同質性が、思考の結びつき方の同質性に従って意味の付け方とそれに続く価値観の同質性をもたらす。こうして『習慣』は部分的に階級を基盤として構造化されることにあるのである」82

では、こうした感情が常に資本に従順とは限らず、時には抵抗や叛乱を企てるようになるのはなぜなのか、この点をロルドンのスピノザ主義的な感情の構造主義はどのように論じているのか。

「感情の理論的考察に従うことは、危機状態は危機感として精神のなかに組み込まれたあとにしか完全には構成されるものではないことを強調するひとつのやりかたである」105

「たとえば連鎖現象(システム的危機/貸し付けの収縮/景気後退/赤字/緊縮財政といったような)にともなうある一定の社会状態は基本的シークエンスに従った集合的感情の媒介によってしか結果を生み出さないということを表わしているのである。このシークエンスとは、スピノザ的行動理論においては、ある感情(外部のものとの出会い)がある情動(この出会いから身体と精神に同時に生まれる結果)をもたらし、この情動からコナトゥスの力の拡張の方向転換(決定的な仕方で作用する)が生じるというシークエンスのことである。」106

つまり、社会的な出来事を出来事として知覚するのは、それが「感情的出来事」であるからだ。「何よりも見たり、聞いたり、読んだりするということは身体の感情的出来事にほかならない。スピノザは、身体の行動力の変化と、この変化から同時的に生まれる観念の形成を感情と名付ける(『エチカ』第三部定義3)。」106

このような感情は、同時に、システムによる操作を被ってもいる。そしてこのシステムによる操作は、常に、システムを維持しようとする支配的集合的なコナトゥスを伴なうものだとはいえないか。スピノザは個々の人間を越えるある種の集団的な主体ともいうべきものが構成する集合的なコナトゥスを想定していない。(『エチカ』ではそう解釈できそうだが、マルチチュードを論ずる『国家論』ではどうか、この点は検討課題だろう)しかし、他方で、人びとが自己の感情を社会の慣習から切断された固有の感情とはみずに、社会の多数が抱くであろう感情を自分も共有しているに違いないと感じることによって、社会を構成する人びととの共感に支えられて、自己の感情が正当化される。自己の感情がその支えとする社会的な共感とみなされている当のものは具体的に存在するわけではなく、それはその個人が心に抱く主観的な感情でしかないともいえる。

ロルドンが連鎖現象として上で指摘している経済危機の現われもまた「集合的感情の媒介」なしには生じないというが、彼がここで例示している「基本的なシークエンス」は、感情に還元できない一定の理論的な前提に従っていると私は考える。この点がロルドンと私の考え方の一つの違いである。彼の言及している「基本的なシークエンス」に関連して言えば、景気後退から緊縮財政への経路はケインズ主義では、むしろ、景気後退から公共投資の支出(積極的な赤字財政政策)へ、そして景気刺激策を通じた景気浮揚への転換というシークエンスをとる。ケインズ主義が肯定的な政策として社会の共通認識にあるときは、危機の連鎖現象に対して集合的な感情がとる反応も新自由主義のそれとは異なる。危機感情が異なるのは、投資家から政策決定主体に至る人びとの感情の置き所がケインズ主義が与える理論的な枠組を前提として構築される感情だからであり、理論(まがいものであっても一向に構わないから、神学やオカルトでもよい)は集合的な感情を構成する前提としての役割をになう。ところがロルドンは「共通感情」を次のように説明する。

「個人的な生得的性質[インゲニウム]の形成体の根元的メカニズムは過去の感情的経験の蓄積に沿って機能し、似通った経験を持つ諸個人の階級的結果という一種の社会学的延長を呼び寄せる。そして似通った性質[インゲニウム]の部分的形成体はここから生まれる。」107

「したがって経済的危機の感情は、濃密な社会的階層化を貫きながら性質[インゲニウム]の異なった諸階級に応じてさまざまな仕方で屈折して現われ、多様な観念=情動──つまり政治的結果──を産出する。かくして危機状況は、事態が社会的身体の差異化された性質[インゲニウム]を介して拒否の共通感情を明確化した時点においてしか完全には構成されない」107

私はこの説明には同意するが、この説明で共通感情の全てが説明できているとは思わない。先にも述べたように、共通感情の前提には俗説であれ何であれ感情の位相とは異なる「理論」と呼ばれる位相が確実に関与する。ここにアカデミズムや知の権威主義といった要素が機能する余地があるのだ。ロルドンは諸個人の感情を集団的にまとめあげる社会的な階層として階級関係を重視する。様々に屈折するとはいえ、労働者階級が資本家階級とは別の情動を産出するであろうこと、そこに危機の表出の端緒を見出している。ある意味では階級意識という「共通感情」の生成を疑わないというところがフランス的ともいえるかもしれない。しかし、「理論」はこのような階級意識の感情を否定する根拠を与えようとする。支配的な社会科学の学説が果す役割は感情を抑圧する理性を味方につけた上で、感情をコナトゥスの自己保存欲望を資本主義の土台を肯定し、これを前提とした「努力」を正当化するように「偽造」する役割を担うのではなだろうか。(スピノザは『エチカ』第四部で理性についてかなりつっこんだ言及をしている。これはかなり興味深いことであるが、この点についても本稿では取り上げない)

ここでもうひとつ、ロルドンがまったく言及していないが、しかし重要な観点について述べておきたい。習慣や思考の同質性、社会集団ごとの情動の同質性という問題に関心をもつロルドンがほとんど関心をもっていないのが、ナショナルな同一性である。私は、ナショナリズムあるいは国民的同一性と階級に基く同一性が習慣のなかでは混淆していると考えている。この首尾一貫しない情動の構造こそが資本主義的な情動の弁証法的な構造そのもではないのか、というのが私の観点であり、〈労働力〉とはナショナルなものとして構成されつつ、その周辺にこのようなカテゴリーから排除され、あるいは逸脱した〈労働力〉が配置されると考えている。だから、資本‐賃労働関係はナショナリズムを内包する。これは貨幣が「国民通貨」としてナショナルな属性をもち、市場が「国民経済市場」としてナショナルな領域によって分割されるという構造と対応している。だから、問題は、ロルドンが論じているよりももっとやっかいなのではないだろうか?労働者の抱く感情は、一面では、(古典的な意味での)階級意識と大衆消費社会のなかで「大衆」という没階級的な意識との弁証法だけではなく、この両者をメタレベルで統合しようとするところでナショナルなアイデンティティが作用するのではないか。何よりも、資本家階級からは、労働者の階級意識を解体するような攻撃が常に仕掛けられるわけだから、こうした階級的な感情の解体を乗り越えて、危機を深化させなければならないところに階級闘争の課題がある。しかし同時に、ジェンダーやエスニシティーといった別のアイデンティティが階級意識と競合あるいは摩擦を起すこともありうる。そしてこうした諸々のアイデンティティをメタレベルで規定しようとするのがナショナリなアイデンティティである。こうしたナショナルなアイデンティティ形成が完璧に成功した例はないが、しかし逆にこれが完璧に作用しない空間が政治的経済的な統治空間として安定したことは近代以降どこにもない。資本はトランスナショナルあるいはグローバルになりえても、諸個人はナショナルなアイデンティティから解放される回路を持つことは極めて困難な客観的な構造の中に生かされる。移民や難民であれ、先住民であれ、彼らは国民国家の境界に立つかその淵の深みに嵌るとしても、そうした境遇はナショナルなアイデンティティの反作用によるものであって、おしなべて〈労働力〉はナショナルなアイデンティティを避ける回路をもいえないなかで労働市場に参入するのだ。このことが感情に及ぼす影響は極めて大きい。アルジェリアの経験を抱えているフランスであればなお更のことではないか。だからなぜロルドンが感情を論じながらナショナルなアイデンティティを論じないままに済ませたのかという疑問が残るのである。

●構造としての階級

階級の問題に戻って、やや立ち入って問題を考えてみたい。私は階級を構造として捉えるので、ロルドンのように属人的な概念では用いない。個人に即して、彼あるいは彼女が労働者階級に帰属するというのは、ひとつの政治的社会的な集団形成を介したアイデンティティの優位性の結果にすぎない。危機の表出は多様であって、それが階級闘争に収斂するようにあらわれるとは限らない。

構造の概念はロルドンにとっても重要なもので、その意味するところは、感情として表出するコナトゥスに対して、諸個人にとっては必ずしも了解されているとはいえない非人称的な社会制度に関わるものだが、実は彼のいう構造が何を意味するのかはさほど明確だとはいえない。たとえば彼は次のような使い方をする。

「物質的・生物的存在としてあり続けようとする努力、要するにその生そのものを維持しようとする努力としてのコナトゥスの基本的要件に付け入りながら、諸個人に具体的に影響を及ぼすのは、賃金労動状況とでも呼びうるものをつくりだすこうした構造的諸要素の総体なのである。」

このように言うときの「構造的諸要素」が何を意味するのかは明確ではないのだ。しかし多分、わたしの読みが間違っていないとすれば、彼は、感情をもつ諸個人の「個人」を孤立した主体とはみないとしても、個人としてのアイデンティティを疑っていないように思う。彼にとって問題なのは、このアイデンティティを支える感情や欲望が資本主義のシステムのなかでは「偽造」されるというところにある。私もある意味では「偽造」を否定しないが、むしろ問題なのは、個人としてのアイデンティティの統合そのものが矛盾に満ちており、誰ひとりとして整合性をもった生を生きられないという決定的な限界を生きているということである。こうした限界を構成しているのが資本主義の諸構造であり、それを資本の価値増殖の側面から捉えたものが階級構造なのだ、というのが私の考え方である。この構造はたとえてみれば完成することのないルービックキューブのようなもので、完成させるために永遠にあれこれ試行錯誤して面の色を一致させようという無駄な努力から逃れられないような仕組みとして「運動」を生成する。

このような意味で階級を構造として捉えるというのは何を意味しているのかというと、階級構造は価値増殖の機構であり、剰余労動を剰余価値として生成しつつ、これが市場の価格メカニズムにおいては利潤となるという一連の抽象的人間労動と価値と価格の連繋構造を意味する。後に述べるようにこれは階級構造の一面でしかないが。そして、剰余労動と剰余価値は、同時に必要労動と可変資本の概念を伴うが、こうした抽象的労動と価値の平面は、資本主義的市場経済を生きる諸個人には、資本家であれ労働者であれ直接の経験においても実感においても認知されるものとしては作用しない。だから実証的に検証可能なデータとして抽出したり証明できる類いのものでもない。

他方で、労働者と資本家の経験的な世界(これは実証主義的に検証可能であるが、統計のような量的な概念──それ自体が一定の科学的な装いを凝らしたイデオロギーを内包した具体性の量化操作だ──によって全てが検証可能にはならない)においては、具体的有用労働と技術の体系に支えられて、具体的な生産過程における商品生産として、また、価格関係としては投資とコストに対する商品の価格の関係として表われる。個々の労働者の労動がこの価値と価格のメカニズムのなかで、どのように抽象的人間労動として価値を形成し剰余労動に寄与し、他方で具体的有用労動として評価されるかは、経験や実証的な計測といった方法では把握しえない。マルクスが例示した紡績労動の場合ですら、価値形成労動は、社会的平均的な労動という実証主義的な観点からすれば実在しない労動への還元を伴う。誰のどのような労動が剰余労動の根拠となるのかは、あらかじめ定められてはいない。マルクスがかなり単純に処理した不生産的労動と生産的労動の区別は実は、複雑な労働の細分化と労働組織の巨大化のなかで、個々の労働者の労働を横断する複雑な様相を呈するようになった。だから、個々の労働者を、名簿順に並べて、労働者階級に属するのか資本家階級に属するのかという二分法で分類するようなことはできず、ほとんど大半の〈労働力〉を市場で売る人々は、労動の何らかの要素を剰余労働に寄与するものとして支出するとしても、また、同じ労働者の労働の別の要素は資本家的な不生産的な労動に寄与するものとなり、この両者がわかちがたく一連の行為として資本の下で行なわれるということが生じる。

階級構造の果す役割のもうひとつの重要な側面は、ロルドンの問題意識に即していえば、感情の「偽造」に関わる。即自的な階級意識を労動のありかたから一義的に規定することはできない。むしろ多くの労働者の意識は、自覚された階級意識と資本家への積極的な同調あるいは出世意欲の間のグレーゾーンにありながら、労動という行為を反省的に自己の人生のなかに位置づけようとしてその答えを求めてルービックキューブを回しつづけるのだ。階級構造は、法や政治の構造と連動して、大衆民主主義や人権といった法‐政治構造を受けて、労働の意識生成を調整する。階級的な分断を前提とするのではなく、むしろ階級意識を大衆意識や消費者意識、あるいはナショナルな意識に置き換える作用が階級構造の意識生成の側面が受け取る。労働者の感情は、階級的な団結や共通感情に代えて、消費者や国民といった意識(あるいは日本の場合であれば、企業への同調意識)として生成されるようなメカニズムを労働の現場に組み込むのである。これがフォードが試み、グラムシが「アメリカニズム」と名付けたものであり、それは20世紀の資本主義の基本的な労働者を資本と国家に統合する機構でありつづけた。アメリカニズムは、フォードのベルトコンベア工場の内部ではなく、そこで働く移民労働者の日常生活のアメリカ化(英語教育であり、成果主義による豊かな消費生活といったアメリカンドリーム)であった。ロルドンはこうした労働を快楽と結びつける傾向をもっぱら新自由主義と関連づけているがそれは間違いだ。むしろ20世紀の大衆民主主義が一貫して追求してきたことであり、だから産業心理学が隆盛を極めることになったのだ。これに対して、この欺瞞的な意識の擬制に労働者たちは、自らの多様なアイデンティティを労働者意識の側に引き寄せつつ、自らに内面化するように要求する資本家的な意識を否定する自己否定的な情動を喚起させる集団的な意識形成を通じて、自らの労動を資本の価値増殖へと従属させる構造を破砕する主体となる。労働者にとって最大の課題は、階級という構造を解体する主体になることを通じて、資本主義において当然のこととして高く評価される労動する人間の地位に込められたイデオロギー的な倫理を否定して、階級構造が担う価値増殖のメカニズムを価値と労動の平面という意識しえない平面に降りて解体する主体になるということである。階級構造に対して労働者は、自覚的にその外に立つことを主観的な立場としてとることを通じて、客観的な構造が強いる〈労働力〉としてしか認識されない自己の身体性を拒否する対峙者となる。

資本主義は階級構造と同義ではない。資本主義は階級だけでなく、法、政治、家族、文化、民族、国家など様々な人々のアイデンティティに関わる構造を持っており、これを構造と呼ぶのは、人々の日常的な経験や実感、感情、理解とは異なってこれらを生成させる不可視のメカニズムをもつからである。正義、支配、正統性といった抽象的な観念を支える構造がそれぞれにあり、こうした諸構造は相互にある種の「遊び(摩擦を軽減する余裕)」をもって緩やかに連結されている。それぞれの構造が全体に対して果す役割や重要性は、平等ではないし、ある構造が他の構造を従属的に連結させる場合もある。構造間の主従関係は、一義的に固定されているわけではなく、全体の構造を維持再生産する上で、最適な相互関係がとられる。ある構造が危機的な局面を迎えたとしてもそれが他の構造に波及しないように連結の「遊び」の部分が緩衝機能を果しながら全体として資本主義としての構造の安定性を維持しようとする。そして何よりも特徴的なことは、こうした構造は個々の構造の内的なメカニズムだけでなくその相互の関係においても、一貫性がなく、矛盾を内包しており、完成しないルービックキューブが完成を目指して無限運動するようなものとしてしか存在できない、ということだ。あるいはSRLのマシンのような不完全な機械を宿命としているといってもいい。社会科学はこうした矛盾や辻褄の合わないメカニズムそれ自体が構造や制度として存在するなどとは考えることができずに、理論的に整合的なものとして記述あるいは説明可能な存在だと前提する。このこと自体がこの近代の学問の最大の限界であり使い物にならない最大の理由でもある。

社会は常に100点満点しかとらない完璧な秀才たちの世界ではない。常に何割かの間違いを内在させながら社会は構成されているからである。やっかいなことは、どのように間違うのか、何が正解なのか一義的には決められないということだけではなく、間違い方が極めて重要な要件をなしているという点にある。錯誤や誤解やあるいは妄想の類いも含めて、それが人間であり社会であるということを前提にした場合に、こうした意味での社会を抑圧のない社会として構想するということはどのようにしたら可能なのかが、科学の文脈でも思想や哲学の文脈でも未だに未解決だということである。この意味で、解放の主題において、あるいは社会を転覆させる企てにおいて、真理は問題の中心にはない。むしろ真理からの外れ方、間違い方が無限に多様であって、それこそが人間であるというところにこそ問題の核心、言い換えれば解放へのヒントがあるとともに、解放が失敗に終る理由もあるということだ。ロルドンは客観的真理と主観的真理というが、むしろ客観的真理であれ主観的真理であれ、その両者から生じる摩擦であれ、それらは真理をめぐる争いとして、決着がつく問題に過ぎない。本当の問題は、むしろそのどちらにもない錯誤を生きることが人間の人間らしさであるということをどのように肯定的に、あるいは積極的な意義あるものとして受け入れるか、である。問題は、真理ではなくて、間違い方をいかに肯定できるか、なのだ。資本主義的な間違い方を私は容認しないし、とりわけ私のような無神論者にとっては、神への信仰という錯誤(間違い)がもたらす抑圧は深刻だ。無神論者にとっての不合理な夢に可能性を見出せないとしたら、神とか国家といった錯誤の世界を生きさせられるか、あるいは、「解放された世界」は100点満点の秀才たちの独裁か、というどちらも選択したくない世界しか可能性がないということになる。間違いを彷徨う感情の行き場はどこにもない。落第点の資本主義に生きたいとは思わないが、また、逆に100点満点の世界にも生きたいとは思わないが、そもそも人間の社会を構想する以上完璧な正しさの世界は絶対にありえない。だから、問題の核心は真理ではなく錯誤や間違いを肯定することをめぐるものなのだ。

人々の感情や主観的に自覚される意識は、これら諸構造から構成されるて個人の身体性に収斂するように構成されるに過ぎないから、この意味でいえば、近代的な人間観にいうような個人は実在しない。存在するのは、これら諸構造が──繰り返すが、「構造」であっても錯誤や相互の辻褄の合わなさを内包する──個人として表出するように諸構造の一部を諸個人の身体に担わせることで成り立つある種のチグハグな部分集合である。これは、個人の側からすると、「私」という自覚は誰もが持つ疑いようのないものとして構成されるにしても(それすら失敗する場合がある)、心的であれ肉体的であれ痛みを感じる私が統合されたアイデンティティのもとにあるハズだという根拠のない確信にすがろうとする感情を誰もが持つ。しかし、私が果す様々な役割という日常生活の経験上の実感に即してみても、私という人間が行なう行為をすべて私が必然的に担うべきものとして、一から十まで合理的に説明できる者はいない。人間の日常はそのようにはできていないからだ。しかし、社会科学や理論は説明可能なものとしての人間を暗黙のモデルとして社会を説明する。社会はそもそも破綻を糊塗することで成り立っているのに、あたかも整合的なシステムであることこそが社会の本来のモデルであるかのように前提してしまう。労動の意味であれ家族としての共同性の感情であれ、あるいは恋愛や敵意の感情であれ、これらを根源で支えている「なぜそのような行為や感情を抱くのか」という説明は、それ以上説明しようのない不可解な臨界点をもっており、それ以上は合理的な説明をなしえないあるところで「なぜ」という問いは断念しなければならないように心理操作が作用する。これは、そもそも人間が錯誤を生きているからそうなるのであり、この錯誤を辻褄合せしようともがくことが人間の行為を支え、意志や動機を形成する。この意味で「私」を「私」として統合するあり方は脆弱なのである。この脆弱さを端的に感情のレベルで言い表すとすれば、喜怒哀楽のいずれでもなく、それは不安という感情だと私は考えている。ロルドンに欠けているのはこの不安という感情への注目がないという点だろう。(これはスピノザにも希薄な観点だ)これが彼の感情の構造主義にとっての最大の欠点のひとつだと思う。(不安についても拙著『絶望のユートピア』所収の論文を参照してください)

●剰余価値の搾取から行為の意味の搾取へ──ロルドンに欠落しているもうひとつの観点

人間は階級構造のなかで、資本の価値増殖のメカニズムに合わせて〈労働力〉として再構築され、その行為は一方で価値形成的な抽象的人間労動として、他方では使用価値形成的な労動として、二重化されるわけだが、マルクスが搾取として論じたのは、構造の内部で処理される前者に関わる労動の側面だけである。抽象的人間労動は剰余価値の前提になるが、この労動を労働者は自覚しないし直接の経験として受けとるわけではない。具体的な存在としての労働者にとって、抽象化された人間は経験的な認識では把握できない階級構造の深部にある。労働時間として量化された抽象的な人間には感情という属性は伴いようがない。他方で、日常経験としての労動はあくまで行為の具体的なありかたであって、この側面だけが労働者に意識される。具体的有用労動は、労働者が労動の意欲を伴って目的意識的に行為することそのものであり、ここに感情や欲望など身体性を伴うあらゆる要素が含まれる。形式的にいえば、〈労働力〉の売買の成立によって売り手から買い手(資本家)に〈労働力〉が引き渡されるものとみなされるが、〈労働力〉の売り手の労働への意欲を通じてしか労動を実現することはできない。

ロルドンのように感情を問題にするという場合は、具体的有用労働の側面を問題にするということであり、これは、剰余価値に基づく資本の価値増殖の量的な側面に還元できない問題を孕んでいるということが重要なのだ。どのような意味で重要な問題かというと、資本主義における細分化された労働は、マルクスが「労働過程」で述べたような人間と自然の物質代謝過程を全体として包摂するような行為として個々の労働者が行なうものではなく、この過程に必要な構想と実行行為の統一が分離され、構想は資本によって、実行行為が労働者によって担われるように分断される。更に実行行為もまた細分化されるために、個々の労働者にとって労働行為を目的意識的に遂行する場合に前提される「目的」や「意識」は、労働過程全体の「構想」に関わらない。現場の個々の労働者に必要とされる能力は、指示された作業内容と作業手順を理解して、みずからの身体を用いてこれを遂行する道具的能力であって、その作業が全体として何を意図するものなのかを理解する能力ではない。こうした具体的な労働は単純化された繰返しの作業であったりするために、この単純労働を抽象化された労働とみなそうとする考え方がマルクスにもみられるが、これは抽象的人間労働とは位相を異にするのであって、単純化された労働は抽象的人間労働ではない。その最大の相違点、位相差は、感情要因の有無にある。単純化され道具化された労働であっても、その労働を動機づける心理的な機制が作用しなければ労働者は働くことができない。ロルドンが指摘するように、こうした動機は内在的ではなく制度が外部から動機として構成するものであって、賃金に帰結する雇用契約の制度と、この制度に与えられた意味付けがこれを担う。しかし、金を得ることとある特定の労働行為との関係は、自然科学の法則のような理論的な因果関係が内在するわけではない。だからこそ労働市場が成立して流動的な〈労働力〉が存在可能になる。しかしその代償として、労働の意味をめぐる解決不可能なアイデンティティの亀裂を抱え込み、この亀裂を糊塗するためのその場しのぎの制度が次々に階級構造に組み込まれるようになる。労働者の意識を、抽象的人間労働‐剰余労働の搾取の相から迸出される資本との敵対関係から逸らすと同時に、労働に意味を付与する倫理と理論的な枠組を資本の価値増殖(蓄積)に沿う方向で社会的に正当なものとして形成しようとする。個人の信条ではなく社会的な倫理・道徳として、また理論はアカデミズムが権威をもって承認するような支配的な学説として体系化されることによって、構造化される。社会を説明する理論の体系は一つではなく、複数の理論的整合性をもつ体系を構築することが可能である。その理論の正統性は、理論内在的な説明の妥当性によるのではなく、アカデミズムの権威がこれを支える。実証的な検証可能性は、実証の前提となる数値化された統計の概念とその収集の技法そのものに既に一定の価値偏位があるだけでなく、こうした方法は構造の表層しか問題にすることができない。こうした一連の枠組は、労働をめぐる意味の亀裂を亀裂とは認識しないし、労働者がかかえる意味の剥奪された空白を必死の思いで埋めるというむなしい努力(コナトゥス)を「煩労と辛苦」(アダム・スミス)に励む勤労精神にあふれた労働者として賞賛して誤魔化す。言い換えれば、階級構造は、それ自身を非階級的な装いによって包みこむような仕組みをもつ。このような装いがどのようであるかは、文化や法・政治などの他の諸構造との関係のなかで決まる。19世紀の奴隷制や植民地制度が正当化されていたり、制限選挙によって有権者が制限されていたり、独裁や王政を採用している場合と、いわゆる現代で言うような民主主義を統治機構として採用している場合では、階級構造の装いは変化する。こうした諸構造相互の変化が歴史であるから、構造は歴史でもある。

労動の意欲を資本が何らかの方法で生成できなければ労働者は働くことができない、というところに資本には解決できない矛盾が存在する。構想と実行の分離によって労働の主導権を資本は握る。しかし、そうではあっても実行行為は労働者に委ねざるを得ない。労動の内容は労働者にとって必然的で自明なものではなく、自由裁量に委ねられて実行できるものでもない。言い換えれば、労働者にとっては、労動の成果は自分の個人的な人生の目標の達成にとってどうでもいい事柄だ。資本の死活に関わる商品の使用価値(価値の担い手としての)は労働者の死活には関わらない。唯一死活条件をなすのは、具体的有用労働とは内在的な関係をもたない貨幣=賃金の大きさである。これが労働者の生存を支える原資になるからだ。しかし、資本はこの賃金を労働の報酬、あるいはなされた労働の対価あるいは労働の成果と位置づけ、これが資本主義における労働と賃金の関係の支配的な意味付けとなる。このような労働とその対価としての賃金という擬制を前提として、労動への意欲が構築され階級構造のなかに組み込まれ、これが労働者の感情を外在的に規定する。

こうしてみると、生きるための原資としての賃金(〈労働力〉商品の価値としてのそれ)と労働の対価としての賃金という賃金をめぐる二つの観点(マルクスが賃金論で論じたのもこの二つの観点に内在する問題だった)が共存することになる。こうして生活の質や豊かさは、賃金を媒介として、労働の評価と間接的に結びつき、あたかも労働の資本による評価が私生活の豊かさを左右するかのような外観が形成される。これは労働に対する感情と私生活における豊かさの感情が、一個の人格(として資本主義の構造が構成するものだが)のなかで理論的にはありえないような辻褄合せによって合理的であるかのように実感される。ロルドンがいう主観的真理がここには存在するわけだが、これは主観的真理というよりもむしろ資本主義のイデオロギーを正当化するための理論的な枠組であって主観的ではなく、それもまた資本主義的に客観的だということである。階級構造はこうした資本主義的な客観性を有する理論的なパラダイムを組み込んでいる。これは可変資本‐剰余価値の相からすれば擬制あるいは虚偽なのだが、にもかかわらずこれが資本主義的な真理として感情や意識の相を支配することになる。支配的な経済学のパラダイムはこの相で機能し、剰余労働の搾取や身体性の搾取を科学的に抑圧するように作用する。

●意味の剥奪

このようにして、具体的有用労働の狭義の意味での具体性(ネジを絞めるとか、製品を箱に詰めるとか)を遂行する労働者にとって、こうしたどうでもよい行為を労動の意欲として生成できるような行為の意味づけが必要であり、それは階級構造のなかで外在的に労働者に与えられることになる。行為の意味は個々の労働者に即せば生活に根差した合理性はなく、その内的必然性もなく、あるのは技術的道具的な合理性だけである。私はこれを「意味の剥奪」と呼んできたが、言い換えれば、行為の意味のレベルでの資本による搾取である。意味を見出せない行為は持続しない。ロルドンの言い回しを借りれば、コナトゥスの問題が残るということになる。ここで階級構造が果すもうひとつの重要な機能が存在しなければならないことになる。それは、意味の生成である。剥奪された意味の空白を資本によって意図された意味によって埋め合せしようとする。この埋め合わされた意味、資本が生成し労働者に与える意味は、具体的有用労働そのものをいくら観察してみても、その具体的な行為それ自体からは生じない。

行為の意味は、一般的に言語化されて伝達される。口頭であれ文書であれ、退屈で耐えがたい労動は、言語化を通じて意味を纏う。「諸君のネジを締める仕事が我が社の優れた製品を支えている」といった言い回しだ。この意味を踏み台にして労働者は実行行為に向う動機付けを生成し、持続的な意欲を刺激しようとする。フォーディズムにみられるように、この意味づけは、労働それ自体である必要はなく、アメリカンドリームの幻想であってもいいし、あるいはホーソーン実験のように抜擢されることによる名誉意識であってもいい。言語は労働に対して隠喩や換喩、あるいはアレゴリーなどの手法を用いて、意味を付与する。このような資本による意味付与は、剥奪された意味を回復するものではなくて、無意味であることを隠蔽するに過ぎないから、意識下に抑圧された無意味さの感情との間で常に摩擦が生じることになる。これは、疎外の問題ではなくてむしろ労働を自己実現や人生の目標に据えようとする欺瞞の問題である。マルクスはこれを疎外論として論じたが、これは抑圧や絶望といった否定的な感情として問題化したにすぎず、ロルドンは快楽を視野に入れたが、意味の剥奪と生成の弁証法には至っていない。

ロルドンは「正当性など存在しない」という挑発的な議論のなかで意味の問題に言及している。

「構造のなかに組み込まれた非人称的力のみならず、心の内部に潜む感情の力が作動して想像世界をつくりだし「意味」の生産までも行なっているのである。そうした諸力の状態が諸関係の持続や解体を規定するのである。こうした状況下では、正当性は空っぽで名前だけの概念に過ぎない。それはものごとの状態に無用な形容をしているに過ぎない。たとえて言うなら『正当なもの』とは、制度が当然のごとく存在するという単純な事実に対して付け加えられた補足的だが蛇足的な呼称にすぎない」139

ロルドンのいう「意味」の生産とは何だろうか?この「意味」の生産がどのようになされるのかといえば、それは制度を支えるような意味の生産、表現のレベルで言えば、ディスクールの生成がなされるということだろう。この意味の生産は、一方でロルドンが感情の力と言うことがらと密接に関わるだけでなく、感情とは別の理性によって紡ぎ出される意味の世界も伴うのではないかと思うが、この側面を彼はかなり軽視する。この意味が制度を持続させることを人びとに納得させるのだとすれば、それを正当性と呼ぶことは、言い換えに過ぎないともいえるし、そのように定義することが空っぽな名前だけのことともいえないと思う。ロルドンが正当性をどのように理解した上でこれを否定しているのかが今ひとつ明確ではない。しかし、私は正当性(むしろ正統性と言うべきだろう)という概念にはそれなりの意味があると思う。資本であれ国家であれ資本主義の社会システムを「当然のこと」としてその諸制度や学的な理論を根底から否定しない立場を共通の理解とする枠組がある。正統性は、社会の構成員が共通して抱くことが可能な想像世界を構築するために、意味の生産を行なうが、それは感情の力に還元できないある種の、感情と理性の、合理性と非合理性の弁証法的な力学の世界を内包している。正統性は、制度に付与されるものであり、制度は人びとによって支持される感情に還元されるものではなく、この感情を共通感情として相互に承認する手続きを通じて、感情だけではなく法や規範の世界を支えるものとなる。つまり客観性の概観を(擬制であっても)装うことになる。これに失敗すれば正統性の危機を招く。正統性の危機は、資本主義的な体制の危機である場合もあれば、個別の権力や制度の正統性の危機の場合もある。こうした意味での支配の正統性に加担する最も大きな力は社会科学や自然科学といった近代科学が構築してきた合理的な理論の体系である。階級構造は、こうした科学の体系をとりこんで、抽象的人間労働の相を抑圧して、いわゆる近代経済学の体系による市場経済のメカニズムの神話を生成する。これは感情の問題ではなく理論の問題であって、それ自体を内在的に批判することはできない。それ自体が首尾一貫した論理を有しているからだ。私が言いたいのは、このレベルでの正しい理論(ロルドンの言うある種の真理)の正しさは、資本主義的な市場経済の階級構造を総体として把握できておらず、市場や資本主義という神話の世界を相対化できていない。こうしたレベルの問題を論ずるためには、感情によるアプローチは必ずしも有効ではない。合理的経済人というありえない理論モデルがもつ体系性(つまり近代の社会科学の一角を占める経済学)がなぜ成立するのかという問題が残るからだ。同様のことは、法や統治機構において国家という擬制についても言いうることである。これが構造がもつ特有のありかたなのである。

●おわりに

賃金や貧困といった経済的搾取は、階級闘争のひとつのパターンではあってもそれが全てではないし、意味の剥奪からの解放とは同じことではない。今ある行為の意味からの解放は、資本によって外在的に与えられることによってしかなしえないように自己の行為が組み込まれた構造を解体することを意味する。これは資本家を追い出して工場を自主管理するということで実現するかどうかは一概には何とも言えないレベルのことである。一旦労動を引き上げて、所与の行為の意味を一旦白紙に戻して、再度創造するために、労動の再定義と階級構造として構築された労動の社会的な編成を土台から覆して、これとは別の行為の構造を創造することが必要になる。これは、意味の問題が言語の問題である以上、労働市場から労働過程、そして日常生活に至るなかで労働をめぐる言説やコミュニケーションが生成する意味の(整合性があるとはいえないやっかいな)体系を解体することをも視野に入れなければならない。これは、近代の社会が構成する個人のアイデンティティの統合をかなり深いレベルで一旦解体するリスクに挑戦するということをも意味する。社会を構成するそれ以外の諸構造の組み換えや解体再構築を伴い、総体としての人間の行為のカテゴリー全体の再定義を意味するものでなかればならないからだ。労動という概念がこうした新たな社会の諸構造のなかに位置づくかどうかもわからない。全く別の概念がとってかわるべきものとなるかもしれないだけでなく、そもそも自明と思われていた「私」というアイデンティティが危機に晒されるということをも意味する。こうなったとき、世界はバラバラにしか見えず、容易には理解しえない「ヤツらの世界」となり、ワレワレの世界はそこには「ない」ということを心底実感することになるのかもしれない。

階級構造は、それなしには資本の価値増殖を実現しえないという意味において資本主義を支える必須の条件のひとつをなしているが、この構造と個々の人間(〈労働力〉を資本によって調達されるという意味での主体)が人間としてその心身を一個の統一した(首尾一貫した)存在として維持することとの間には固有の矛盾がある。意味の剥奪はその矛盾のあらわれなのである。

ロルドンは社会が個人の総和であるといった暗黙の前提を置いて、個人が自分のできる範囲で新自由主義に反対する行動をとるといったスタンス、彼の例でいえば、フェアトレード、責任をもった投資、市民(地域)通貨、ゴミの分別、水道の節約、共済銀行への口座の移動等々を徹底して批判する。彼は、こうした言説は、新自由主義に反対しているにもかかわらず「それが逆説的にも新自由主義的想像世界に負い続けているもの」があるという。個人の美徳や個人的な行為は制度を揺がすことはできない。制度的な要因は制度を転覆されるような集団的な力による以外にないからだ。彼は「構造の再形状化」と呼ぶ。236

ロルドンは私という個人の行為ではなく、「われわれ」と呼びうるような集団性を一人一人がその経験、「外部の事物や状況とのわれわれの出会いの総体」として捉えることが可能な条件を模索する。共通の感情を生成する集団的な行為が、構造を転換させられるだけの力を得ることができなければならず、その力は個人の総和として構想されえないということだ。美徳をもったすばらしい諸個人に委ねるのではなく、「多数を占める普通の人々」の行為なしにはありえないのが社会変革だという。

「人間は自分で自分を支えることができず、ひとりで立っていることはできないということである。本質的、存在論的な愚か者性(非自立性)、それゆえ必然的にコミュニケーションを拡げなくてはならないということ、これがわれわれのいかんともしがたい存在条件なのであう。しかしこの条件は不幸なものでも何でもない!反新自由主義的想像世界の地平とは、そのことに明晰な自覚を持ち、それを十分に──つまり楽しく──引き受けることである。」248

個人主義的な行動の美徳を排して、マルチュチュードの連帯の可能性を楽観的に展望する。これはロルドンの希望を失なわない知識人として、私にはない資質だと思う。やや長くなった論評の冒頭に戻って、情念の革命という60年代へのある種の回帰は、フランスの左翼思想が、構造主義やポスト構造主義の高踏的な議論にかなり疲弊してきたことへの一つの回答かもしれない。ロルドンはフランスのアクティビストたちによく読まれているという訳者の解説を前提にするとして、問題はその情念、あるいは感情が、極右ポピュリストの排外主義の感情によって横取りされないという保証はどこにもないのではないか、という悲観論に彼はどのように応じるのか、という本書の主題を越えたところに焦点が移るかもしれない。そしてこの問題は先に指摘した、〈労働力〉のナショナルなアイデンティティというやっかいな問題抜きには論じられないことでもある。言うまでもなくこうした一連の問題群は日本の階級闘争の問題でもある。日本の文脈で読み替える作業は勿論私たちの課せられた宿題だろう。

(フレデリック・ロルドン『私たちの”感情”と”欲望”は、いかに資本主義に偽造されているか』杉村昌昭訳、作品社、2016)

12月16日18:00 若干の誤字等の修正と補足説明を追加した。

もうこれ以上我慢ならない!──理性を越える情念の革命の復権?” への1件のフィードバック

  1. 分業のシステム化における労働の意味・動機付けからの疎外の問題と、国民国家という憲法体制に正統性を委任する擬制の問題。これらは共に 資本主義の問題というより「社会をどう構築すべきか」の問題なのですね。

    悪意を持った資本家との階級闘争というイメージではなく、社会システム(擬制)が内包する非人間的な嘘の点検と自覚。

    これから、沢山の論文 少しずつ読ませて頂きます。

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