越境するアンダークラス──映画『バンコクナイツ』

空族の新作『バンコクナイツ』は、今年観た映画のなかで最も印象に残り、わたしがうかつにも忘れかけていた1970年代のタイの熱い民衆の闘争を思い起させてくれた。とはいえ、決して「政治的に正しい」行儀のいい映画ではない。そこが空族の最大の魅力だ。(以下、ネタばれは最低限に抑えたつもりだが、予断なしに映画を観たい方は読むのを控えてください)

バンコクの歓楽街タニヤ、60年代から70年代にかけてラオスへの米軍空爆でできた巨大なクレーター、1976年タイ軍事クーデタで追われた反政府運動の活動家たちが逃げ込んだ漆黒の森。今回の空族の作品は、バンコクからタイ東北部、そしてラオスへと連なる現に存在する不可視の動線を移動する。セックスとドラッグにしか関心をもたない日本人が、東南アジアで「ビジネスマン」と称する無自覚な植民地主義者として、タイのアングラ経済を支える。しかし、その更に舞台裏で、越境するアンダークラスの逆賊たちの群れが蠢くことを予感させる物語、それがこの映画のある種の示唆するところでもあるように思う。

空族の映画の主人公は、たいていアンダークラスの能天気なノンポリとして登場する。彼らは、いつのまにやらぱっくりと口を空けた闇の世界の深い亀裂の中に彷徨いこむことになる。それでもなお彼らはそれが何なのかを明瞭には把握できないまま狼狽いする。物語のなかでそれが一体何なのかすら理解できないまま理不尽な世界(それも一つではない)に迷いこむ能天気な日本人たち。それを見る私たち(ここでは日本人を意味する、とりわけこの映画では男の日本人を)は、しかし、映画の登場人物のように能天気ではいられない。映画は観客に、「これが何を意味するのか、あなたは分っていなければならないのではないか?」とさりげなく問うのだ。

バンコクの世界有数の歓楽街は、ベトナム戦争における兵力を支えるセックス・ロジスティクスの一環として成長してきた。軍事用語のロジスティクスは食糧、燃料、武器・弾薬の補給を意味するという説明しかされないが、兵士の休息と娯楽もまた重要なロジスティクスの一環をなしてきた。これが今では、新自由主義経済戦争の〈労働力〉(ビジネスマン)を支える物流ならぬサービスロジスティクスとして日本の多国籍企業を支える存在になった。タニヤのセックスワーカーたちは、資本主義的な一夫多妻制の典型的な構造のなかにある。このことを映画はかなり端的に描いていると思う。この映画に登場する女性たちのしたたかさは、伝統的に職人労働者がもっていたしたたかさに通じるものがある。あるいは戦前のプロレタリア作家、宮島資夫が描いた「坑夫」のような、ど外れな存在に重なるかもしれない。翻弄されるバカ丸出しのビジネスマンたちが金と権力を握る理不尽さとの孤立した闘いが、ここタニヤには恒常的に存在する。たぶん、「バンコクナイツ」というタイトルとフライヤーの雰囲気についつられて映画を見に来た、ビジネスマンたちは、アテが外れて不快な思いをして映画館を出るに違いない。いいことだ。

脚本を担当した相澤虎之助は、上映後のトークで、富田監督や自身の東南アジアでの経験から、日本の旅行者というとドラッグ、セックス、ガンシューティングが目的ではないかと必ずといっていいほど質問されることから、この三つがいかに東南アジアの経済に大きな影響をもっているかに気づかされ、これがこれまでの映画制作のモチーフになってきたと述べていた。そして『バビロン花物語』はタイ北部のケシ栽培、『ビロン2』はベトナム戦争を主題としたが、ようやくこの『バンコクナイツ』で最後に残されたモチーフ、セックスを主題にした映画を制作できたと述べた。

わたしはこれに加えて、二つの重要なモチーフがあると思う。ひつとは、越境するアンダークラス。『サウダーヂ』は日本を舞台に、日系ブラジル人やタイ人の移民労働者の物語であり、移動する者たちが常に物語の中心に据えられている。闘う労働者ではなく、いつのまにかシステムを破壊する力をそれとは知らず発揮してしまうアナーキーな存在へと変貌する姿が描かれる。もうひとつは、「地方」である。今回のバンコクナイツの先行上映も空族の拠点である甲府で開催された。『国道20号線』も地方を走る国道が舞台だ。地方のアンダークラスという視点は、決定的に東京のようなグローバル都市の非正規労働者と同じようには語れない固有性がある。これはグローバル都市にはない地方のアンダークラスが潜在的に持っている豊穣な可能性に繋っている。私はこの映画を甲府という場所で観ることができて本当によかったと思う。

『バンコクナイツ』もバンコクの歓楽街からタイ東北部へと引き寄せられる。実は、タニヤで働く女性たちもまた、タイ東北部やラオス出身者であったり、あるいはタイ、ラオスから中国に拡がる地域に住むモン族の出身だったりする。こうなると「ゾミア」の世界になる。

最後に、ひとつやっかいな問題について書いておきたい。空族がセックスの問題を最後まで取り組まないできた理由のひとつは、これまでの映画もそうだが、主人公が男であるということとの関わりのなかで、セックスワーカーの世界を描くということの困難があったのではないかと思う。男の監督や脚本家が女を描くことができるのか?は、常に問われてきた問題でもある。このことは、映画を男の私が観るのと、女性が観るのとでは同じ感想にはならないかもしれない、ということでもある。ラオスのクレーターに集合するアジアの若者たち、ある種の梁山泊を想起させるファンタジーのようでもあるが、そこにはタニヤの女たちはいない。漆黒の森にもいない。この欠落がたぶんこの物語を次に引き継ぐ上での大きな鍵になるように思う。タニヤがゾミアに変貌する潜在的な可能性がすでに女たちが担っているのだから。

他方で、主人公が男であるという場合に、女は脇役なのだろうか?主体は他者なしには主体にはなりえないが、主体=主人公という位置を確たるものにするには、他者を他者のままに、主体の周辺に配置する以外にない。この映画では、女たちは、ことあるごとに、主人公の主体を揺さ振りつづける。すれ違うコミュニケーションがそれを象徴しているようにも思う。どこかでこの主客の転倒がありうるのでなければ、物語は、既定の路線を逸脱できない。どのような脱線と転倒が起きるか。そのための伏線はこの作品でほぼ出揃ったように思う。

(2016年11月13日、甲府桜座にて)