『絶望のユートピア』刊行のお知らせ

久し振りに本を出しました。タイトルは『絶望のユートピア』。タイトルにある「絶望」という言葉と「ユートピア」という言葉は、真逆のようでもありますが、「の」に込めた意味をどのように取るかで、そのニュアンスは変わるだろうと思っています。「私の本」のように所有や帰属を意味する場合、「海の青」というように、ある事柄の性質を意味する場合、「1917年のロシア革命」のように、ある時間や時代と事柄を繋ぐ場合、「机の上の本」のように、あるものとあるものとの関係を示す場合など、「の」には多様な意味、機能があります。本書のタイトルの「の」もまたそうした多様な「の」としての意味をもたせているつもりです。本は、これまでに私が書いてきた文章のなかから三分の一ほどを選んで掲載しました。配列は時系列でもカテゴリー別でもありません。一見すると混沌としていますが、それがこれまで私が書いてきたことのありのままであると思っています。

多くの皆さんに手にとっていただくには本書は定価5000円とかなり高価です。専門書などなら5000円は高くないという人もいますが、本代に1000円出すのも大変という人の方が圧倒的に多いはず。毎月ギリギリの収入で暮している人たちにも何とか本を手にとってもらう方法のひとつとして、一度に5000円は出せないけれども、毎月少しづつなら払えるという人たちにも手のとどく方法として分割払いを決断しました。

詳しくは下記をごらんください。
https://dararevo.wordpress.com/


前書きから(抜粋)
(注)以下の文章は本に収録した文章とは正確には一致しません。一部省略し、校正の時点での加筆は反映されていません。参考までにお読みください。

ネットの時代になって、紙の新聞のような読み方は廃れつつあるように思う。ネットで必要な情報を得るようになってから、私たちは、あらかじめ得たいと思う情報をキーワードで検索して、必要な情報を必要な限りにおいて得るという効率性の世界に慣れはじめている。カテゴリーへの拘束が著しく強められるような環境のなかに追い込まれてしまったともいえる。また、ブログやツイッターのように、タイムラインに沿って事柄が一つの時間軸のなかに配置されることも当たり前のようになってしまった。

本書は、そうした今ある情報環境を前提とした「知識」の構成を捨てて、もっとカオスに近いものへと押し返す目論見でもある。本当ならば、すべての文章を最初から最後まで、タイトルも小見出しも、いや、段落すらもない文章にしてしまいたかったし、読み始める入口も一つではないものにしたいくらいなのだが、それはあまりにも気を衒い過ぎたものにしかならないだろうから、とりあえず、個々の文章については、初出のスタイルを維持しつつも必要な加筆や修正はほどこした。

私は、大学の研究者、教育者として、あるいは社会運動の活動家として、たぶん、そのいずれにおいても極めて中途半端な存在であり続け、徹底した生き方ができないまま、必要に迫られて文章を書いてきた。こうして出来上がった文章の山は、その時間の経過からすれば、決して大きなものではないだけでなく、その山は、特定の分野についての深い洞察や徹底したこだわりがあるわけでもないし、該博な知識に裏付けられた百科全書のようなものでもない。外国語の能力を駆使してこの国に未だ紹介されていない海外の研究や思想を輸入するような能力にも長けているわけではない。いわば、計画性のない増改築を繰り返した挙句、ついに「完成」と呼ぶにはほどとおい芥屋敷の類いが本書である。だから、最近とみに多くなった大部の書籍とは外見が似ていても、その成り立ちと構成はほとんど似たところはないと思う。したがって、読者の皆さんとしては、どこから読んでいただいても構わない。

本書に収録した文章群はほぼ1980年代に本格的に文章を書き始めてから現在に至る四半世紀のテキストから、既に単行本としてまとめたものを除いたテキスト群から選別して編集したものである。その時々の状況のなかで書かれた時事的な内容もあれば、かなり理論的な内容のものもあり、また短文もあれば数十ページの長い文章もあり、それらがほぼアトランダムに収録されている。以下、若干の編集方針と注釈を述べて「前書き」にかえたいと思う。

テキストをどのように解釈するかは、読者の領分に属することだ。しかし、著者は勝手な解釈を歓迎するというよりも、いかにして著者の意図や趣旨を読者に「正確に」理解してもらうか、ということに執着して読者の解釈をコントロールしようとする。著者としての私もまた著者である限り、読者をコントロールしたいという欲求を持つが、他方で、読者としての私は、様々なテキストを「読む」場合には、いかにして著者の期待を裏切るような解釈ができるか、というややひねくれた意図をもって解釈の自由度を拡げたいという気持ちを抱くことも事実である。本書は、こうした著者と読者の間にあるテキストを、著者ではあっても、より自由な「読み」を読者の手に委ねようという意図をもって編集した。これは、読者に媚びたいのではなく、読者自身が意図していないテキスト相互の関係の網のなかに誘惑したいということである。

私が最初に出版した『支配の「経済学」』の読者は、二番目に出した『ネットワーク支配解体の戦略』にはかなり失望したように思う。最初の本を書いた後で、私は、より現在に近い現実の分析枠組を提示したいと思った。私は、「思想家」ではないし、最初の本も、現実の資本主義批判に必要な理論的な前提を、従来の私が縛られてきた前提を壊してスケッチしたいということだった。しかし、後者は、思想や理論ではなく現実の社会を対象にしたことによって、現実の世界への批判を知的な世界の批判によって代位する悪しき人文主義にとらわれた人たちには、つまらない本だったと思う。そして、『アシッドキャピタリズム』では、もはや『支配の「経済学」』の読者はほとんど見出せないように感じた。だから、この両方を読んでくださった数少い読者の方達には特に深い感謝の気持ちを感じている。

他方で『アシッドキャピタリズム』は、そのややキャッチーなタイトルの本だったために、文字通り「アシッド」な本だと誤解して買ってくれた若いアートや音楽が好きな読者にも受け入れられたことは嬉しいことだった。他方で、彼らの多くは、必ずしも私の『支配の「経済学」』の読者やその後に書いた社会批判に関わる本の読者になるということでもなかったようにも思う。その後私は、監視社会や情報資本主義の問題、グローバル資本主義と社会運動、天皇制と表現の自由の問題など、「雑多」な課題に首を突っ込み、何冊かの本を出してきた。それぞれの問題群ごとに、数少ない私の読者が別々のレイヤーを構成し、あまりその間を横断するような読者がいないように感じてきた。

たとえば、アントニオ・ネグリらがマルチュチュードという概念によって新たな変革の主体を再定義しようとしたとき、その前提となる世界にインターネットやサイバースペースがもららす可能性へのかなり楽観的な見通しがあったと私は感じた。私は、情報通信のガバナンスの問題(これが権力の問題であることは言うまでもない)を見ずに、ユーザーインターフェースのレイヤーだけでその「自由」を判断する皮相なネットアクティビズムにはどうしても同意できなかった。世界でたった一つしかない「インターネット」、殆どのパソコンのOSはマイクロソフトとアップルに独占されている情報環境のどこに「自由」の基盤があるというのだろうか?このような「自由」は幻影に違いないと疑うことはアクティビストにとっては難しいことではない筈だが、多国籍企業を批判してやまないアクティビストが、ウィンドウズPCやSNSに違和感や苦痛を感じているという場面に遭遇することは極めてマレだった。なぜこのような奇妙な日常が、「運動」の現場でも生じていしまうのかという疑問は、現代の社会が抱える問題を、既存のカテゴリーのレイヤーに沿って配置してしまった結果なのではないかと思うようになった。グローバルな反グローバリゼーション運動がインターネットを駆使して実現できたことは事実だとしても、そこにはかなり厄介な落とし穴があるということだ。こうした問題を情報資本主義と監視社会の問題として、マルクスの言う下向法の出発点に置いた私の問題意識は、監視社会に関心を持つ人たちにはある程度の関心をもってもらえたが、他方で、左翼人文主義の人たちにとっては関心の中心にはなってこなかったのではないかと思った。

右に述べたことはほんの一例であって、こうした既存のカテゴリーの溝によって生み出された超えがたい亀裂は随所にあり、支配の構造が巧妙に仕掛けたこの分断線を超えないところで、運動も批判的な知も自閉する状況が続いてきたように思う。私にできることは、私が書いてきたものをこのカテゴリーに従属させないということくらいなので、それをここで実行しようと思った。これが本書でカテゴリーによる編集を退けようと思った動機である。

私が独特な意味を込めて使用している概念については、もしかすると分りにくいかもしれない。ここで少しだけ注釈を加えておきたい。

たとえば、〈労働力〉というカッコ付きの労働力がよく登場する。幾つかの文章では簡単な注釈をつけておいたが、これは私にとってはかなり中心的な問題意識に関わる考え方に基づくので説明しておきたい。

〈労働力〉とは、変数としての労働能力を指している。実際に労働者が実行する労働の行為を支える労働能力ではない。可能態としての、あるいは潜勢力としての労働力といってもいいかもしれない。労働市場で売買されるのは、この意味での〈労働力〉である。本当は、このようなわずらわしいカッコを外したいのだが、マルクスを始めとして、一般に労働力として論じられている概念には、この可能態としての意味はほとんどない。労働市場で購入された労働力は、その能力を100%発揮するものだということを前提として理論が組み立てられている。しかし、私は、どのような強権的な資本の下にあっても、どれだけの労働を投下するかを最終的に決定するのは労働者の意思であり、労働する身体としての能力をどの程度発揮しようと思うのかは、労働者の意思に依存すると考えており、これが、労働と資本の重要な闘争の主題になってきたと考えている。この労働の発揮の水準は、賃金、労働時間、労働内容、労働組織の人間関係などでも決まるが、それだけではないし、これらの要因も単純ではない、勤勉と怠惰、従属と反抗、過剰な同調、自傷的な自己犠牲、これらの間で揺れながら、構造としての階級が一方で資本の搾取を、他方でこの搾取を阻害する労働者の個人的集団的あるいは文化的な態度の弁証法が成立する。言い換えれば、この労働をめぐる意思の問題を論じうる枠組を構築することなしに、資本主義批判を徹底させることはできない、ということでもある。

〈労働力〉と表記しているときには、この〈労働力〉の担い手がどのように自己の能力を労働として実現するかは不確定であるということを含意している。この不確定性が時には労使間の摩擦や対立をもたらすかもしれない。本書ではこうした〈労働力〉概念の再定義がもたらす全体としての資本主義批判については断片的にしか言及されていない。この問題については別途きちんと論じる機会を持ちたいと考えている。

もうひとつ、搾取という概念の再定義についてここで簡単に説明しておきたい。搾取は、資本主義批判の基本として、通俗的に用いられる場合もあればマルクス主義の理論的な枠組として厳密に論じられる場合もあるが、いずれの場合も、搾取が関係するのは労働者が資本のために必要労働を超えて労働する「剰余労働」であるという基本認識に基づいている。長時間労働や資本の飽くなき利潤追求が労働者の搾取を招くという場合、問題は、単に「剰余労働」に限定されるわけではない、というのが私の理解だ。搾取は、一般に、剰余労働の量的な概念に(経験的な世界でいえば賃金と利潤の量的な関係)関わるとされているために、行為の意味それ自体が資本によって剥奪されるという側面への関心は中心を占めなくなってしまった。

問題は、労働時間の長さだけでなく、そもそもの労働それ自体の意味にある。若いマルクスは、これを「疎外された労働」という感性的な概念で問題にしようとしたために、「物象化」された労働者の観念を問題にできなくなった。近代の人間が〈労働力〉を市場で売買するようになってから、労働と生活を繋ぐ内在的な意味の構造に深刻な亀裂が生まれた。この亀裂は、学校教育であれば、科目の配列相互の関係がどうあれ、最終的に学んだ内容が成績という「量」によって評価されて序列化されるところに表われている。こうした意味不明な教育のカリキュラムを不可解と感じることなく受け入れる心理が普通であり、これを理解できない子どもたちは問題のある子どもたちだとみなされる。同様に、労働の苦痛や意味を見い出せないことによって抱える悩みを直視しようとする人たちは、社会的な適応障害を抱えることになる。人間は象徴的な事柄の意味の関係性のなかで幻想的な首尾一貫性の観念を形成することによって、行為の意味を生成するが、ここには、論理を超越する日常生活それ自体の構造がある。

近代社会は、資本や国家という「大きな物語」の担い手がこの超越的な意味の織物を構成することによって、この社会に内在する剥奪された意味の世界にある種の「意味」を挿入する。私たちが、資本や国家が挿入するこの意味から離脱して、自立した意味の世界を生きようとすれば、それは、多分、この支配的な世界からすれば容認できないか理解しえない意味に捉えられた行為や主張だとしか思われない可能性がある。搾取とは、私たちが資本と国家から自立した意味を喪失せざるをえない意味の織物のなかに捉えられているという側面を含むものとして再定義が必要なのである。

この他、本書では、通説に反する考え方がいくつか登場する。たとえば、近代資本主義の家族制度を私は「一夫多妻制」として捉えているとか、階級という概念を人口構成など人の分類としてではなく、「構造」として捉えるといったことが前提として書かれた文章がある。一夫多妻制については本書に収録した二つの文章で、その内容についてやや詳細に論じたので、そちらを読んでいただいた方がいいだろう。また階級を「構造」概念として捉えるということについては、本書以外の私の著書で既に述べているので本書では、特にまとまった記述はないが、特にそのために理解が困難になることはないと思う。