絵に描いた餅としての「憲法」と茶番劇の「議会制民主主義」が共謀罪を産み落す(3)

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絵に描いた餅としての「憲法」と茶番劇の「議会制民主主義」が共謀罪を産み落す(1)

1.今国会への共謀罪上程に際しての政府・自民党のスタンス
2.戦後体制はそもそも絵に描いた餅だったのかもしれない
絵に描いた餅としての「憲法」と茶番劇の「議会制民主主義」が共謀罪を産み落す(2)
3.共謀罪容疑での捜査に歯止めをかけることはできない
4.越境組織犯罪防止条約は批准する必要がない(以上前回まで)


5.共謀罪を支える操作された「不安」感情

かつての共謀罪では、越境組織犯罪防止条約でいう文字通りの意味での組織犯罪(薬物、銃器、人身売買などを念頭に置いた条約である)を主要なターゲットとするものとされたが、その対象犯罪や処罰の内容から、深刻な副作用として、社会運動や市民運動あるいは政治活動などへの弾圧の手段として共謀罪が用いられるであろうという危惧がもたれた。しかし今回は、条約を根拠にしながらテロ対策を前面に打ち出した。このことが、反政府運動にとっては、深刻な副作用どころか、自らの運動が主要なターゲットとされて共謀罪が登場したということを意味している。こうなると共謀罪を活用するのも、刑事警察よりも警備公安警察になる危険性が高くなる。これが治安維持法の再来ではないかと言われる所以でもある。

人びとの行動を新たな立法で取り締まるために政府が用いる手法は、人びとの不安を煽るという方法である。(不安という感情をめぐる問題については拙著『絶望のユートピア』参照)不安感情は、自分ではどうすることもできない未だ到来していない脅威と感じる何ものかを想起することによって喚起される。明確にその存在が実感できる脅威には恐怖や怒りの感情が対応するが、不安は、あいまいで漠然とした将来自らの身にふりかかるかもしれない具体的に指し示すことのできない出来事への畏怖の感情である。テロリズムは恐怖(terror)の感情を喚起するものであるとすると、この感情とは本質的に異なる。不安の解消は、このような未だ存在しない事柄そのものを排除する力によって与えられる。共謀罪がテロリズムを前提とした立法であると言われながら、もっぱら政府が強調するのは恐怖ではなく不安感情の喚起である。感情のレベルで共謀罪を正当化するために、なぜ恐怖ではなく不安感情が煽られるのかといえば、共謀罪を必要とするような具体的で目前にある恐怖がそもそも不在であるからだが、それだけでなく、不安感情そのものが権力が自らの統治の自由(逆に、人びとの自由の抑制)への人びとの同意を獲得する上で欠かせないものだからだ。

共謀罪賛成の議論は、犯罪が起きてから対処するのでは被害者が出ることを防げないではないか、という不安感情に訴える議論を展開し、被害を出さないためには、犯罪の実行行為に至る前に取り締まりをすることが不可欠だと主張する。こうした言説は、誰もが犯罪は起きるよりは起きない方がいいと考えるから、犯罪への不安感情を当然の感情とみなして、実行行為よりもずっと手前のコミュニケーション(実行行為の是非をめぐる意見交換やデイスカッションなどから実行行為を想定したとみなされうる議論などまで)に遡って、犯罪抑止のための捜査や取り締まりを実行することが「安全・安心」を確保する最善の方法であるとして、共謀罪を正当化するなかなか手強い主張である。

しかし、そもそもこうした不安感情という主観的な実感の構造を当然の感情として前提していいのだろうか。不安を喚起する感情の構造は、哲学や心理学が想定するような個人の内的な精神状態(キェルケゴールであれハイデガーであれ、精神分析であれ)ではなく、人間の社会的な関係に深く影響を受ける操作的な感情である。権力は人びとの不安感情を操作することを通じて、自己の権力基盤を強化しようとするという点を見落してはなるまい。不安感情は実感として個々人が感じとるので、この実感を否定することは難しいが、不安の根源にある事態が、この感情を惹起するに値いするだけの根拠をもっているかどうかについては、権力の意思をかなりの程度反映している。例えば、政府は、原発による放射能汚染や被ばくのリスクに対しては、人びとの不安感情を風評被害などと称して否定する。米軍基地やオスプレイのリスクへの住民の不安感情も政府は否定し、反対運動が不安感情を煽ると批判する。その一方で、アベノミクスがもたらす雇用不安や貧困の不安を「成長」の夢物語や金融市場の価格操作で帳消しにしようとする。政治の言説では、不安は常に「敵」によって喚起されるものとして物語が構築されるから、不安の解決とは「敵」の排除にある、ということになるから、不安の排除=安全・安心=予防的な措置による「敵」の除去あるいは排除という等式が当然のように持ち出される。例えば、さし迫った脅威もないなかでオリンピックへのテロや朝鮮民主主義人民共和国への不安が煽れる。つまり人々の不安感情の構造は、個人の内面から説明することはできず、人間の社会関係によってしか説明できず、ここには権力の自己維持機能と不可分なメカニズムが組み込まれているということである。

テロの言説は、本来は恐怖の言説であるが、差し迫った恐怖が不在なときにこの言説は不安の言説に転化する。あるいは権力者はこうした語の効果を計算に入れて、不安を煽る目的でテロリズムを口にする。権力者にとっては、自らの権力に敵対する存在は、権力にとっての脅威であり、具体的な誰が、という特定ができない大衆的な敵対(反政府運動の集団性)こそが、それがいかに少数であっても、その背後に不可視の大衆的敵意の影を感じる権力は、不安をかきたてられる。権力は、この不安を人びとの感情に転移させて権力の不安をあたかも人びとの不安であるかのように生成する。その具体的な転移のメカニズムが立法による反政府運動の犯罪化であったり、マスメディアなどを利用した世論操作であったりする。権力に敵対する大衆と権力の不安を内面化した大衆という二つの大衆的な感情の摩擦が生み出される。反政府運動のデモや集会は、既存の社会秩序への正当な異議申し立ての権利であり、民主主義を標榜する国家であれば当然存在する多様な価値観の表明だから、こうした対立は社会の正常な姿である。しかし、権力の正統性が揺らいでくると、こうした対立を調整する力を喪失する。あらゆる反政府運動をテロと連動するかのような物語をつくりだして、秩序を乱す犯罪行為に分類しようとする。反政府運動は権利の運動ではなく、人々を不安に陥れる不穏な活動であるという印象を植えつけようとし、権力にとって、うさんくさいもの、自分たちの存在を脅かすかもしれない不安なものを、大衆の心理に転移させようとする。大衆のなかに、それがたとえ自分の思想信条とは異なっていても民衆的権利の行使であると冷静に理解することが不安感情によって妨げられるようになる。こうした不安感情が大衆意識として醸成されることによって、思想信条やライフスタイルにおけるマイノリティは社会的排除の対象となる。権力は、民主主義や自由の権利を掲げながらも、支配的な思想信条と相容れない思想信条への不安を巧みに扇動し続けることによって、現政権の支配的な思想信条を正当化し、敵対する価値観に基づく運動を犯罪化して排除しようとする。欧米諸国であれば、イスラム教が、逆にムスリームの諸国ではキリスト教が不安をもたらすかのような雰囲気が醸成されてきた。あるいは、西欧資本主義諸国では、一貫して共産主義、アナキズム、無神論が不安をもたらすものとして「法律」によって犯罪化されさえした。社会主義の諸国でも資本主義やアナキズム、宗教的信条が犯罪化された。近代国家日本は、戦前から現在まで一貫して、この「不安」を、共産主義者やアナキストあるいは新興宗教といった思想信条をもつ者たちと、周辺諸国の人びと(「日本」へのアイデンティティを持つ必要のない人びと)に向けてきた。

こうして、この不安に対処するためには、未だ起きていないし起きることが確定しているわけでもない出来事を除去することがその対処方法だとみなされがちであるから、政府は、こうした不安感情を政権にとって有利なように操作する一方で、政府こそが不安を解決できる力をもつこと、この不安を解決するには、不安の元凶である「敵」を予防的に排除すること、そして政府にはこうした予防措置をとる力があることを誇示して不安感情を解決できる唯一の存在であることを印象づけようとする。政府は、既存の社会システムの矛盾を棚上げにして、不安の原因をもっぱら「犯罪」や反政府運動の当事者に転嫁する。

従って、不安感情は、既存の支配システムへの依存感情を生み出し、この感情を政治的に操作するなかで構築されるものだということを理解することが必要だと思う。犯罪は、こうした不安を醸成する最も一般的な行為とみなされる。この観点から見た場合、法律は、不安というあいまいな感情生成の政治社会構造に支えられて、あらかじめ不安を除去する権力の行動を正当化する一方で、人びとが自らの自由を権力に譲渡し、権力の自由な行使に委ねるための規範メカニズムだとみることができる。

6.テロリズムのレトリック

テロリズムは、反政府運動を不安の感情のなかに絡めとることを通じて、権利の犯罪化を正当化するためのレトリックの言葉となる。だからテロリズムの定義は、法律の条文でどのように規定されようと、語の意味内容を指し示すことはない。この語の本質は、権力がみずからにとっての不安や脅威となるであろう存在を排除する力の行使を正当化するための概念として権力によって与えられるあいまいさをその本質としている、とでも言うしかないものだ。つまり国会でいかに重箱の隅まで突っ突いて条文解釈の厳格さを担保するような議論をしたとしても、条文の恣意的な解釈と現実への適用を国会が制約することなどできないということだ。

今回の法案上程の趣旨は、条約を盾にとってテロ対策をメインにもってくることによって、むしろ社会運動、市民運動や政治活動を主要なターゲットとするものとなったわけだが、このことを条文に即して述べておく。

法律でテロリズムの定義が示されたのは2013年の不特定秘密保護法が最初かもしれない

「政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊するための活動をいう」

この定義は、2016年に成立したドローン飛行の規制法(国会議事堂、内閣総理大臣官邸その他の国の重要な施設等、外国公館等及び原子力事業所の周辺地域の上空における小型無人機等の飛行の禁止に関する法律)にもそのまま継承されている。しかし、ここで定義されているテロと称される犯罪が、対テロ戦争以降起きたことはない。この意味では、立法事実を欠いた政治的な意図をもった法律だといえる。

また、一般に「テロ資金規制法」などと呼ばれる法律(正式には「公衆等脅迫目的の犯罪行為のための資金等の提供等の処罰に関する法律」)では、条文にテロリズムの文言はないが、対象犯罪を「公衆等脅迫目的の犯罪行為」として、第一条で次のように定義しており、テロリズムの定義とみなしうる内容といえる。しかしこれもまた、この定義に該当するような事件が起きたことはない。

「第一条  この法律において「公衆等脅迫目的の犯罪行為」とは、公衆又は国若しくは地方公共団体若しくは外国政府等(外国の政府若しくは地方公共団体又は条約その他の国際約束により設立された国際機関をいう。)を脅迫する目的をもって行われる犯罪行為であって、次の各号のいずれかに該当するものをいう。」(以下略)

秘密保護法などにある「殺傷」「破壊」という文言は、かなり強烈な印象を与えるが、反政府運動の検挙の口実で用いられるほとんど言い掛かりといってもいいような容疑、たとえば公務執行妨害や建造物損壊などの容疑のこれまでの例をふまえると、条文が警備公安警察によって恣意的に拡大解釈されて転用され、それを裁判所が令状発付で追認する危険性は確実にある。国会の法案審議では、こうした警備公安警察の恣意的な法の運用の常態化の現実を抑制する実効性を担保できない。むしろ政府与党はこの立法府の限界を十分承知した上で、「テロリズム」の対象を広範に解釈して反政府運動全体を視野に入れるだろう。

例えば、テロ資金規制法では「脅迫する目的をもって行われる犯罪行為」とあるが、脅迫なのか正当な抗議の意思表示なのかを判断して捜査、取り締まりに着手するのは警察である。(第一条には上記引用のあとに犯罪類型が列挙されている)デモであれストライキであれ、ピケッティングであれ、団交であれ、抗議声明であれ、人びとが権力に抵抗して示す行動や意思表示は、権力側からは「脅迫」とみなして摘発の対象にしようとする動機を持つことは容易に想定できる。

人びとの権利の防衛あるいは拡大、あるいは自由は、他方で権力の権利の抑制、権力の自由の制限になる。この権利のゼロサムゲームのなかで、法律解釈の力を権力側が握る。日本の議院内閣制では、政府与党が執行権力と癒着することが正当化されるように制度設計がなされ、右翼改憲派である自民党が一貫して政権を担い議会の多数を占めてきたことから、違憲立法が常態化し、この立法を根拠に、更にその恣意的な法解釈によって行政権力こそが法であるという政権と官僚の法意識が大衆の権利なき法感覚を定着させてきた。だから、共謀罪でテロの定義が明示されようとされまいと、反政府運動がそのターゲットとなることに変りはない。この構造は、人びとの抵抗を無化し、人びとの権利を抑制・制限する方向で法を利用しようとする権力の意思を支える。権利のための闘争とは、こうした既存の権力を支える構造を覆すことによる人びとの権利と自由の獲得を意味する。

7.オリンピックと共謀罪

共謀罪の必要性について、政府の言い分で新たな必要性の理由づけの中心に据えられたのが、2020年東京オンピック・パラリンピックの開催に伴うテロ対策に必要な立法措置だという主張だ。しかも安倍は、共謀罪が成立しなければオリンピックは開けないとまで言う始末だ。(1月23日テレ朝東京新聞)安倍政権にとってオリンピックとはスポーツイベントではなく治安維持とナショナリズムのための総動員体制とこれを実現するための社会的排除、反政府運動の犯罪化が主要な目的となっているのであって、スポーツそのものに関心があるわけではない。もともとオリンピックという国際イベントは、その当初から、国家が莫大な予算と絶大な関心を抱く権力の政治的な思惑と切り離せないものであって、スポーツはそのための格好の手段、ナショナリズム高揚の舞台装置であった。

今回の共謀罪上程に際して、安倍政権がオリンピックを前面に持ち出した理由は、幾つか考えられる。

(1)これまでオリンピックがいわゆる「テロリズム」の標的になったケースが確かにある。有名なのは、1972年のミュンヘンオリンピックだろう。現在のいわゆるイスラーム原理主義者たちの動向から国際イベントがテロの脅威に晒されることを危惧するスタンスは世論に受け入れられやすい。しかし政府や警察が直接念頭に置いているのは、リオ五輪で生じた広範な反対運動ではないか。テロは不安を喚起するためのレトリックであり、実際の取り締まりのターゲットはオリンピック反対運動になる。オリンピック反対運動はテロリストの運動だというフレームアップによって、民衆の生存権の闘争を犯罪化する方向に向うのではないか。特にポスト冷戦期のオリンピック反対運動は、どこの国でも、都市の貧困層の居住の権利や都市再開発反対の運動と連動したり、反グローバル化運動とも重なりあう潮流でもある。(小笠原博毅、山本 敦久編『反オリンピック宣言』、航思社参照)共謀罪はこうした運動を弾圧する道具として用いることが想定されていることはまず間違いない。

(2)オリンピックに反対する国会の野党勢力は皆無である。与野党こぞって賛成するオリンピックという国家行事がテロの脅威にさらされる可能性があるとすれば、これを未然に防止するための法的措置をとるという政府の理屈に、国会内で反対する勢力はいないだろうと政府は見ているのではないか。これは戦争法とは全く異なる政治状況である。オリンピックについては、中道・左派野党のかなりの部分が容認、あるいは条件付賛成、あるいは反対はしない、という立場であり、オリンピック反対を明確に主張する政党はない。オリンピックのようなスポーツイベントの政治的な本質を理解できずに、有権者の支持を失なうことを危惧して政権政党のプロパガンダの本質を批判する言語を持てていない弱さがある。

(3)議会外の市民運動などでも、オリンピック反対は極めて少数であり、かつ国会内にほとんど影響力をもっていない。戦争に反対する論理の蓄積は運動にはあるが、オリンピックをはじめとする文化イベントや国家事業に反対する論理が運動の側の共通認識として確立されていない。政府は、戦争法反対運動のような広範な反対勢力は登場しないと見ているのではないか。国会内野党であれ議会外の市民運動であれ、ナチスのベルリン・オリンピックをスポーツの祭典だからという理由で、ナチスの政治と切り離して肯定するような共通理解はないと思う。むしろナチスに利用された政治イベントとしてのオリンピックだと理解されているのではないか。文化イベントの政治性、とりわけ国別で競われるイベントがナショナリズムを喚起し、それが戦争や国際的な対立の感情的な基盤を形成するということへの危惧を持つことがこの対テロ戦争の時代には重要なことであるはずだ。オリンピックは形を変えた「戦争」の一環でもあるのだ。だから、2020年東京オリンピックを安倍極右政権による政治イベントだという認識を持つ必要がある。安倍政権に反対する諸々の運動の最大の問題は、ナチスのオリンピックと自民党のオリンピックを本質において同質のものと理解することに失敗している点にある。

まず共謀罪ありきであって、この法案のためにオリンピックが必要とされているのだ。この共謀罪の成立にはどのような戦術をとれば世論や国会の合意を形成できるかが計算され、世論に受け入れられやすい(あるいは否定しがたい)シナリオが何なのかを念頭に置いて、そこにオリンピックを位置づけ、共謀罪をこのシナリオに沿って正当化する手法をとっている。

なぜそうまでして共謀罪を必要としているのか。既存の法律の恣意的な運用や拡大解釈ではなぜダメだと政府は考えているのだろうか。ありうるとすれば、拡大解釈や恣意的な運用の範囲を越えた領域に網を拡げたいということだろう。そうなると、想定できるのは、政府が人びとの内心を監視し、干渉し、思想信条のレベルでの統制や摘発をしたがっていることではないか。本来、政治は、様々な対立する主張や意見を前提として、討議を通じて合意を形成し、これを法として成文化し、この法を基準として権力の行使を行なう。多様性を一つの「法」に収斂させる力を権力が持てなくなると、多様性を排除しようとする動機が生まれる。現在の日本の権力機構になかで起きているのはこうした事態ではないか。そうだとすると、外見上は権力基盤は磐石にみえるが、実態としては合意を形成することができない脆弱性を内包させているともいえる。(続く)

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